十八話 押機の罠
磐余彦率いる東征軍本隊が、日臣と椎根津彦の待つ本営へ到着して間もなく、ひとりの男が訪れた。宇陀を治める兄宇迦斯の弟、弟宇迦斯である。
「伝えたい事ですか、伺いましょう」
磐余彦が先を促す一方、日臣と椎根津彦は弟宇迦斯へ冷たい視線を向けていた。磐余彦の左右後方に控える竹と浦も、わずかな異変があれば即座に斬りかかれるよう警戒を怠らない。
そんな張り詰めた空気の中、弟宇迦斯は覚悟を決めたように口を開いた。
「兄が磐余彦殿を騙し討ちしようと企んでおります」
その言葉を聞いた瞬間、竹と浦の表情が変わった。それまで磐余彦の左右後方に控えていた二人は同時に一歩前へ出ると、磐余彦を守るように斜め前へ立ち、弟宇迦斯への警戒をさらに強める。
「やはりそうか。動向が怪しかったからな」
日臣が険しい表情を見せると、椎根津彦も間を置かず問いかけた。
「して、どのような方法で騙し討ちをされるのでしょう」
「詳しくはわかりません。ただ、急いで新宮を建築しておりまして、何か関係があるのでは……と」
弟宇迦斯の曖昧な返答に、竹が鋭い声を上げた。
「貴様! 誤魔化さずはっきり申せ!」
「そうよ、ちゃんと教えなさい!」
浦まで声を重ねる。本来、二人は磐余彦の護衛であり、この場で政や軍議に口を挟む立場ではない。それでも、自分たちが守る磐余彦が騙し討ちに遭うと聞かされては冷静でいられなかった。竹も浦も、たまらず弟宇迦斯を問い詰めてしまったのである。
「待って、竹、浦。弟宇迦斯殿は本当に詳しいことまでは知らないのだろう。それでも危険を承知で、こうして私たちに知らせてくれた。そのことには感謝しようではないか」
磐余彦が二人を宥めるように言ったが、日臣の表情から警戒の色は消えず、弟宇迦斯を鋭く見据えた。
「しかし、簡単には信じられませんな。これ自体が、我らを陥れるための策略ということもあり得ます」
「私もそこが気になります。そもそも弟宇迦斯殿は、なぜ我らにこのことを教えるのでしょう。ご本心をお聞きしたい」
椎根津彦から問いかけられた弟宇迦斯はすぐには答えず、胸の内にあるものを言葉にしようとするように視線を落とした。しばらく考えた末、やがて覚悟を決めたように顔を上げる。
「磐余彦殿のためではない。これは俺自身が考え、決断したことだ。主である宇摩志麻遅様の命でもあり、熊野で同席し、和平の取り決めを見届けた者としての責任でもある。なにより、こんな騙し討ちをしたところで宇陀のためになるとは思えない」
弟宇迦斯が言い終えると、その場はしばらく静まり返った。日臣も椎根津彦も何も言わず、ただその表情を見つめる中、磐余彦が静かに口を開いた。
「この話を信じましょう」
「磐余彦様!」
思わず日臣が声を上げたが、磐余彦の意思は変わらなかった。
「よい。弟宇迦斯殿は、ここまでして私たちに知らせてくれたのだ。ならば私は信じよう」
「……感謝いたす」
弟宇迦斯が深く頭を下げるのを見届けると、磐余彦はすぐに椎根津彦へ顔を向けた。
「椎根津彦、対応策はあるか?」
「まず、磐余彦様にはここで待機していただきます。私と日臣、それに大久米の三人で先に出向き、仕掛けられている罠を見破りましょう」
「やはり怪しいのは新宮だな」
「ええ。わざわざ急いで建てている以上、何らかの仕掛けがあると考えるべきでしょう。ですが、仕掛けさえ見破ってしまえば問題ありません」
「うむ、皆に任せる」
しばらくして皆が退席し、磐余彦と竹、浦の三人だけになると、竹が少し気がかりそうに口を開いた。
「三人だけで向かわせてよかったのですか?」
「久米部の兵を引き連れているから問題ないよ」
磐余彦がそう答えると、竹も小さく頷いた。
「日臣や椎根津彦がいますし、罠も見破れるかと」
「どうだろう。意外に大久米が気づいちゃうかも」
浦の言葉に、磐余彦は不思議そうに首を傾げた。
「大久米が? どうして?」
「実はもう、大久米は私達と本気で鍛錬をしてくれなくなっていたの」
竹と浦は遠征へ出る以前、定期的に磐余彦の館を訪れ、日臣や大久米たちと共に鍛錬を重ねていた。日臣の成長は著しく、今では竹や浦を相手にしても互角に渡り合えるほどになっている。
一方、大久米は竹や浦との鍛錬では、どちらかといえば負けることのほうが多かった。明らかに受けに回ることが多く、攻撃を仕掛けても打ち込みが甘い。それを二人は以前から不審に思っていた。
だがある時、大久米が日臣や体格のよい兵たちを相手に鍛錬している姿を目にして、その理由に気がついた。
大久米が繰り出す一撃は、竹や浦に向けるものとはまるで違っていた。踏み込みと同時に放たれる打ち込みは激しく、まともに当たらなくとも、それを受け止めるだけで相手の体が大きく怯む。少しでも受け損なえば、そのまま吹き飛ばされてしまうほどの威力だった。
あれほど強烈な一撃に耐えられる者など、そう多くはいない。その光景を見て、竹と浦はようやく理解したのだった。
大久米は六尺を超える巨体に、鍛え抜かれた筋肉を備えた力強い武人へと成長していた。その膂力は凄まじく、たとえ鍛錬であっても本気の一撃をまともに受ければ、竹や浦でさえ怪我を負いかねない。そのため大久米は二人を相手にするとき、意識して力を抑えていたのだ。
「……悔しいですが、もう大久米は私達相手に本気は出してくれません」
「それに妙に鋭いところがあるよね」
「たしかに、肌で感じるとか意味不明なことを言っていたような」
「空気を肌で感じるのではないかな。危険な空気を肌で感じてくれるよ、大久米なら」
「そこは分かるよ。大久米って、いつも誰より先に何かに感づいていることがよくある。無口な分、別の何かが凄いのかも」
「たしかに、大久米なら危険を事前に察知してくれるでしょう」
「私も少し黙っていれば、感じられるようになるかな」
無口になった浦の姿を想像した瞬間、磐余彦と竹は顔を見合わせた。どう考えてもありえない。二人は堪えきれず、同時に吹き出してしまった。
日臣と椎根津彦は、前線で警戒に当たっていた大久米と久米部に合流すると、そのまま宇陀の地へと姿を現した。
「日臣、あなたには磐余彦様を演じてもらいます。命を張ってください」
椎根津彦がそう告げると、大久米も無言のまま日臣をじっと見つめた。
「わかっている。任せておけ。……っと、大久米。なんだその顔は。俺は怖気づいてないぞ! 舐めんな!」
日臣が睨み返しても、大久米は相変わらず何も言わない。
「人が見えてきました。そろそろ演技に入ってください」
「承知」
先ほどまでの軽い調子を消し、日臣は表情を引き締めた。大久米も小さく頷く。
やがて彼らの前に姿を現したのは、兄宇迦斯の一団であった。兄宇迦斯は道の脇で黙って頭を下げ、日臣たちが近づいてくるのを待っていた。
日臣は一歩前へ出ると、普段とは異なる威厳を意識して声を張った。
「我は磐余彦。率いるは大倭壱国の東征軍である。そなたが、この宇陀の地を統治する者か?」
兄宇迦斯にとって、大倭壱国の人間を見ること自体が初めてであった。当然ながら磐余彦の顔など知るはずもない。目の前の男がそう名乗れば、疑う理由もなく、そのまま磐余彦本人だと受け取った。
「はい。この地を任されております、兄宇迦斯と申します。宇陀へようこそ、磐余彦様」
「熊野での取り決めについて、話は聞いておるか?」
「はっ。弟から伺っております」
「よかろう。では、案内を頼む」
日臣が堂々と言い渡すと、兄宇迦斯は恭しく頭を下げた。
「磐余彦様のために、新しい宮を建てております。どうぞ、そちらへ」
兄宇迦斯は、日臣たち一行を新宮へと案内した。
宮の入口に着くと、大久米は足を止め、後ろに控えていた久米部へ振り返った。険しい顔のまま、無言で顎を引く。それだけで意図を察した久米部の兵たちは、一言も発することなく素早く整列し、それぞれが周囲へ鋭い視線を向けて警戒を始めた。
その様子を横目で見た日臣は、誰にも聞こえないほどの小声で呟いた。
「だんだん大久米に似てきてないか、久米部ら……」
大久米が無言なのは今に始まったことではない。だが、その配下まで言葉を交わさず、険しい顔だけで意思を通じ合わせるようになっている。日臣には、もはや少し不気味にすら感じられた。
そんな久米部を背後に残し、椎根津彦は兄宇迦斯へ視線を向けた。
「兄宇迦斯殿、先日、我らの使者が矢を受けたと聞いております。そういうことでしょうか?」
兄宇迦斯は小さく舌打ちした。放っておけば自分の策略を知られる可能性があったため、あの使者を消すつもりだった。しかし、仕留め損ねて取り逃がしてしまったのである。
「実は、最近周辺での揉め事が多いのでございます。不審な者も多く、誤解をしてしまいました。大変なご無礼を……お許しください」
そう取り繕うと、兄宇迦斯は少し間を置き、大きく息を吸ってから再び口を開いた。
「歓迎の為の新宮を建ててございます。先日の非礼のお詫びも兼ねて、どうぞ中へ」
兄宇迦斯に勧められるまま、一行は新宮の中へと足を踏み入れた。そして大広間へ入ろうとした、その時だった。
先頭近くを歩いていた大久米が不意に腕を横へ伸ばし、日臣と椎根津彦の動きを止めた。
大久米は部屋の床を険しい顔で見つめていた。一見すれば何の変哲もない板敷きの広間だったが、その表情を見た日臣と椎根津彦は何かがあると察し、改めて室内へ目を凝らした。すると、広間の中央だけ板の継ぎ目が不自然であり、敷居から床にかけても、ごくわずかな段差があることに気づいた。
「どうかされましたか? ささ、中にどうぞお入りください」
兄宇迦斯が何事もないように促すと、椎根津彦は床から兄宇迦斯へ視線を移した。
「兄宇迦斯殿、これほど立派な御殿を我が主のために造られたのであれば、まずは主人であるあなたに先へ入ってくださいませ」
その言葉を聞いた兄宇迦斯はその場で固まり、額にはじわりと汗が浮かび、隠しきれない焦りが顔に現れ始めた。
「どうされた? 我らを迎えるための御殿なのであろう?」
日臣が問いかける間に、大久米は静かに兄宇迦斯の後ろへ回り、日臣もさりげなく出口側へと回り込んだ。
「どうぞ。まず御主人から」
椎根津彦が再び勧めたが、兄宇迦斯は動くことができなかった。
部屋の床は一見すれば何の変哲もない板敷きに見える。しかし広間中央の床だけは二枚に分かれており、人がそこまで踏み込めば床板が左右へ大きく開き、その下に隠されていた深い穴へ落ちる仕掛けになっていた。
兄宇迦斯がそこへ足を踏み出せるはずもなく、逃げ道を探すように視線を動かしながら、そっと腰の剣へ手を伸ばそうとした。
その瞬間、大久米が兄宇迦斯の背中へ強烈な蹴りを叩き込み、その巨体を広間の中央へと吹き飛ばした。兄宇迦斯の身体が床へ叩きつけられると、その重さで仕掛けが作動し、中央の床板が左右へ大きく割れて、その下に隠されていた穴が口を開いた。
「くそ!」
兄宇迦斯は最後の言葉を吐き捨て、そのまま穴の中へと姿を消した。日臣、大久米、椎根津彦の三人は助けようともせず、自ら仕掛けた罠へ落ちていく兄宇迦斯を、とてつもなく冷たく軽蔑する眼差しで見送った。
やがて三人は穴の縁へ近づき、ゆっくりと底へ視線を向けた。そこには大量の杭と槍の穂先のようなものが上を向いて敷き詰められており、その中で兄宇迦斯は、自ら用意した罠に貫かれ、すでに無残な姿へと変わり果てていた。
一連の騒動が収まってから、磐余彦率いる東征軍本隊も宇陀の地へ到着した。
弟宇迦斯は、兄宇迦斯の変わり果てた姿を呆然と眺めていた。遺体へ近づこうとして一歩を踏み出しかけたものの、その足は途中で止まってしまう。
兄を死なせた者を責めることはできなかった。
兄宇迦斯が磐余彦を騙し討ちしようとしていたことを告げたのは、自分自身である。そして、その結果が目の前にある。
「すまない……」
弟宇迦斯は小さく呟いた。
兄の企みを止めるために下した決断だった。それが間違っていたとは思わない。それでも、兄を失ったという事実まで簡単に受け入れられるわけではなかった。
自分の決断には、それだけの代償が伴っていたのだ。
磐余彦は少し離れたところから、その姿を黙って見守っていた。声を掛けることも急かすこともせず、弟宇迦斯が自ら戻ってくるまで待ち続ける。
やがて弟宇迦斯が遺体に背を向け、磐余彦の前まで戻ってきた。
「弟宇迦斯殿、この宇陀の地の統治を代理で引き受けていただけないだろうか?」
「わ、私がですか?」
思いもよらない言葉だったのだろう。弟宇迦斯は驚いて目を見開いた。
「今は代理というしかなく申し訳ないが、いずれは……」
磐余彦がそこまで言うと、弟宇迦斯はしばらく考えた後、深く頭を下げた。
「非才の身ですが、精一杯務めさせていただきます」
「しばらくの間、この宇陀の地に駐屯させていただくがよろしいか?」
「承知いたしました。兄の件も含め償わせていただきます」
しかし磐余彦は、静かに首を横へ振った。
「償う必要はない。弟宇迦斯殿は宇陀を救ったのだ。これからよろしく頼みます」
弟宇迦斯は、その言葉を黙って受け止めた。
兄を失った悲しみが消えることはない。それでも今は、この地に生きる者たちを守り、宇陀を次へつないでいかなければならなかった。
こうして弟宇迦斯は宇陀の地に残り、民をまとめながら、大倭壱国へ恭順させていくことになるのだった。
一連の騒動が収まってから、磐余彦率いる東征軍本隊も宇陀の地へ到着した。
弟宇迦斯は、兄宇迦斯の変わり果てた姿を呆然と眺めていた。遺体へ近づこうとして一歩を踏み出しかけたものの、その足は途中で止まってしまう。
兄を死なせた者を責めることはできなかった。
兄宇迦斯が磐余彦を騙し討ちしようとしていたことを告げたのは、自分自身である。そして、その結果が目の前にある。
「すまない……」
弟宇迦斯は小さく呟いた。
兄の企みを止めるために下した決断だった。それが間違っていたとは思わない。それでも、兄を失ったという事実まで簡単に受け入れられるわけではなかった。
自分の決断には、それだけの代償が伴っていたのだ。
磐余彦は少し離れたところから、その姿を黙って見守っていた。声を掛けることも急かすこともせず、弟宇迦斯が自ら戻ってくるまで待ち続ける。
やがて弟宇迦斯が遺体に背を向け、磐余彦の前まで戻ってきた。
「弟宇迦斯殿、この宇陀の地の統治を代理で引き受けていただけないだろうか?」
「わ、私がですか?」
思いもよらない言葉だったのだろう。弟宇迦斯は驚いて目を見開いた。
「今は代理というしかなく申し訳ないが、いずれは……」
磐余彦がそこまで言うと、弟宇迦斯はしばらく考えた後、深く頭を下げた。
「非才の身ですが、精一杯務めさせていただきます」
「しばらくの間、この宇陀の地に駐屯させていただくがよろしいか?」
「承知いたしました。兄の件も含め償わせていただきます」
しかし磐余彦は、静かに首を横へ振った。
「償う必要はない。弟宇迦斯殿は宇陀を救ったのだ。これからよろしく頼みます」
弟宇迦斯は、その言葉を黙って受け止めた。
兄を失った悲しみが消えることはない。それでも今は、この地に生きる者たちを守り、宇陀を次へつないでいかなければならなかった。
こうして弟宇迦斯は宇陀の地に残り、民をまとめながら、大倭壱国へ恭順させていくことになるのだった。




