十七話 宇陀の兄弟
宇摩志麻遅と共に熊野密談へ参加していた弟宇迦斯は、宇陀の豪族の名代として、そこで決まった内容を兄宇迦斯へ伝えるため、一度宇陀へ戻っていた。
弟宇迦斯から熊野密談の内容を聞いた兄宇迦斯は、宇摩志麻遅が決めたことであるなら仕方がないという様子を見せながらも、ひとまずその方針を了承した。そのため弟宇迦斯は纏向の宮へ戻り、宇陀も和平の方針に従うことを宇摩志麻遅へ報告していた。
その後、弟宇迦斯は宇摩志麻遅から、磐余彦率いる大倭壱国軍が宇陀を無事に通過できるよう現地へ赴き、東征軍を迎えるよう命じられる。
命を受けて再び宇陀へ戻った弟宇迦斯は、そこで見慣れない建物が造られていることに気づいた。新たな宮らしいが、建築に携わっている者の数が通常よりも明らかに多く、作業の様子を見ても、かなり急いで完成させようとしていることが分かる。
弟宇迦斯はその光景に疑問を抱き、事情を確かめるため兄宇迦斯を探すことにした。
その頃、那岐は建築中の建物へ近づいていた。一度挨拶をして詳しい事情を聞こうと、付近にいた者へ話しかけようとした、その時だった。
突然、那岐めがけて一本の矢が飛んできた。那岐は咄嗟に身体を傾けてそれを避けると、続けざまに二本、三本と矢が放たれる。弓を構えていたのは兄宇迦斯だった。
「何奴だ! 何をしにきた!」
兄宇迦斯は声を張り上げながらも弓を下ろすことなく、容赦なく矢を放ち続ける。
「私は鴉ともうし……」
那岐は名乗ろうとしたものの、次々と矢を射かけられては会話どころではなく、飛来する矢に合わせて身体をわずかに傾けながらかわし続けた。
これでは話をすることもできない。那岐は強硬な兄宇迦斯の態度を見て会話を諦めると、その場から一気に上空へ飛び上がり、兄宇迦斯の視界から姿を消した。
十分に距離を取ったところで森へと降り、高い木の枝に腰を落とす。那岐はそこから建築中の建物と、その周囲の様子を静かに窺うことにした。
その一部始終を目の当たりにしていた弟宇迦斯は、兄宇迦斯のもとへ歩み寄ると、険しい表情で問い詰めた。
「兄上、何をされているのですか。あれは使者ではありませんか?」
「密偵に違いない。取り逃がしてしまったか……しかも空を飛んだぞ。何者なのだ、あれは」
兄宇迦斯は、那岐が姿を消した空を睨みながら忌々しげに吐き捨てた。だが弟宇迦斯にとって、相手が使者であろうと密偵であろうと、今はそれ以上に確かめなければならないことがあった。
「どちらでもよい。我らは大倭壱国軍を通過させると決めたはずでは?」
「お前は本気で考えていたのか?」
思いもよらぬ言葉に、弟宇迦斯は息を呑んだ。
「まさか兄上は、騙し討ちをされるつもりで……」
兄宇迦斯は答えなかった。その沈黙だけで、弟宇迦斯には十分だった。
「それに、あの建物はなんですか? 急いで建てているようですが……」
問いを重ねる弟に、兄宇迦斯はようやく顔を向けた。
「和平を決めたのは宇摩志麻遅だ。俺ではない。祖父の代から三輪山には従ってきた。お前まで纒向へ出した。それでも足りぬというのか。今度は筑紫から来た者へ頭を下げろと?」
兄宇迦斯は、代々宇陀の地に根を張ってきた豪族である。邇芸速日の代から一族は三輪山へ人質を差し出し、その代わりに宇陀を治めることを認められてきた。今では弟宇迦斯が纒向の宮へ出され、宇摩志麻遅の側近兼護衛として重用されている。厚く取り立てられているとはいえ、その立場が人質であることに変わりはなかった。
三輪山の勢力に従うことならば、まだ受け入れられる。祖父の代から続いてきた関係であり、邇芸速日という主に従ってきた歴史もある。だが、その三輪山が和平を結んだからというだけで、今度は遠く筑紫からやって来た余所者にまで頭を下げなければならない。そのことだけは、兄宇迦斯にはどうしても許容できなかった。
「兄上……」
弟宇迦斯は何か言葉を探したが、兄はそれを遮った。
「もう何もいうな。決めたことだ」
それ以上、兄宇迦斯が語ることはなかった。弟宇迦斯は返す言葉を失い、その場にただ立ち尽くすしかなかった。
宇陀南方の山中では、大久米率いる久米部が周囲に目を配りながら、静かに宇陀の様子をうかがっていた。そこへ木々の間を抜けるようにして那岐が姿を現し、そのまま木の枝へ軽やかに降り立った。
「大久米、宇陀の兄宇迦斯は何か仕掛けようとしているようだよ」
大久米は木の枝に腰を下ろした那岐を見上げると、何も言わずに小さく頷いた。
「話しかける暇もなく矢を放たれてしまったよ。まだ動かない方がよい」
那岐の言葉を聞いても、大久米の表情はほとんど変わらなかった。ただ、宇陀の方角へ向ける視線だけが、先ほどまでより鋭くなる。
そこへ山道を上ってきた日臣が姿を現した。後方にいた部隊をまとめた後、先行していた久米部へ追いつき、ようやく合流したのである。
「鴉殿、感謝します。どうやら連中は歓迎してくれはしないようだな」
日臣が宇陀の方角を見据えながら言うと、傍らにいた椎根津彦がしばらく周囲の地形を見回した後、慎重に口を開いた。
「一度、主力を少し南に戻って山中に本営を置き、久米部のみで警戒されてはいかがでしょう?」
敵意があると分かった以上、大軍のまま不用意に宇陀へ近づく必要はない。まず安全な場所に本営を構え、先行している久米部だけを残して相手の出方を見る。その方が不意の襲撃にも備えやすかった。
日臣は少し考えてから頷いた。
「磐余彦様に報告する必要もあるしな。安全を確保できる距離も必要だ。椎根津彦の案に従おう」
こうして東征軍はすぐには宇陀へ踏み込まず、一度主力を南へ下げて本営を置き、久米部だけを前方に残して警戒を続けることになった。
一方、磐余彦は足を痛めた兵の傍らにしゃがみ込み、自ら手当てをしていた。
「わざわざ申し訳がないです」
「何をいう。まだ痛むか? この木を支えにして使うといい」
磐余彦は手頃な木の枝を拾って兵へ差し出した。兵はそれを杖代わりにして立ち上がり、何度か地面を踏みしめながら足の具合を確かめる。
「ありがとうございます。これなら大丈夫ですよ。もう先に進めます」
「もう少し休んだ方が良い。そうしよう」
そう言って磐余彦は当然のようにその場へ腰を下ろした。その様子を少し後ろから見ていた竹と浦は、揃って白々しい目を向ける。
『ついでに休みたいだけでしょ』
二人の考えていることは、ほとんど同じだった。そろそろ先へ進むよう言おうと竹が口を開きかけた、その時、頭上の木々からかすかな物音が聞こえた。
竹と浦は瞬時に表情を変え、同時に木の上へ警戒の目を向けたが、枝の上にいたのは敵ではなく那岐だった。
「鴉殿、お戻りでしたか」
「おかえりなさい、鴉殿。何かありましたか?」
二人が警戒を解く一方で、磐余彦は座ったまま静かに身体を休めていた。枝の上から三人を見下ろしていた那岐は、穏やかな声で告げる。
「この先に本営を置くことになりました。本隊は宇陀に到達していますが、久米部を残して少し南に下がります。宇陀の動きが不穏なので」
「不穏とは?」
それまで静かに休んでいた磐余彦だったが、その一言を聞いた途端に顔つきが変わり、ようやく東征軍を率いる主らしい表情になった。
「話は本営についてからでも」
那岐の言葉に磐余彦は頷いた。休息はここまでとなり、磐余彦は立ち上がると竹と浦を伴って本営へ向かうことにした。
宇陀では、弟宇迦斯がひとり悩み続けていた。兄がしていることに対して、自分はどうするべきなのか。いくら考えても、簡単には答えを出すことができなかった。
兄宇迦斯は、おそらく磐余彦を騙し討ちしようと企んでいる。宇陀の者として兄に協力するべきなのか、それとも宇摩志麻遅が決めた方針に従い、その企てを妨げるべきなのか。できることなら止めたいが、すでに事態は自分ひとりの言葉で止められる段階を過ぎているようにも思えた。
では、自分はいったいどうすればよいのか。
弟宇迦斯は熊野密談に最初から最後まで立ち会っていた。宇摩志麻遅と磐余彦たちが何を話し、どのような思いで和平への道を選んだのかも知っている。その場にいた自分が、その約束を破ってよいのだろうか。
兄と共に和平を破るのか、それとも兄に背いてでも、その道を守るのか。何度も同じ問いが頭の中を巡った末、やがて弟宇迦斯の中でひとつの答えが形を取り始めた。
まだ迷いが消えたわけではなく、これが本当に正しい選択なのかという確信もない。それでも、このまま何もせずにいることだけはできなかった。
その頃、磐余彦率いる東征軍本隊は、日臣と椎根津彦が待つ本営へ到着していた。そして到着して間もなく、本営を訪れる者が現れた。
弟宇迦斯である。
弟宇迦斯は兵に案内され、磐余彦のもとへ通された。
「弟宇迦斯殿ではないか。どうかされましたか?」
磐余彦が声をかける。
弟宇迦斯はしばらく黙っていたが、やがて覚悟を決めたように口を開いた。
「実は、伝えるべきことがございます」
その言葉とともに、本営には重たい空気が広がっていった。




