十五話 熊野密談
熊野の地、高倉下の館に宇摩志麻遅と弟宇迦斯が姿を現した。
和平交渉に臨むにあたり、宇摩志麻遅は高倉下に熊野の豪族を代表する立場として席につくよう求め、さらに弟宇迦斯にも参加を命じた。弟宇迦斯は宇陀を治める兄宇迦斯の弟であり、今回は兄に代わる宇陀の豪族の名代として交渉に加わることになったのである。
宇摩志麻遅が高倉下、弟宇迦斯の二人を伴い、三名で和平交渉に臨むと知った磐余彦も、それに応じて人員を選んだ。日臣と椎根津彦には自らと共に交渉へ参加するよう命じ、大久米には会議が行われる部屋の入口の警護を任せた。そして竹と浦には、交渉の間も磐余彦の傍を離れぬよう、部屋の中での護衛を命じた。
こうして双方の顔ぶれが揃うと、早速和平交渉が始まった。しかし、最初から話し合いは容易には進まなかった。
三輪山側が求めたのは、大倭壱国軍の即時撤退と、今後互いの領域へ干渉しない相互不干渉であった。これに対して大倭壱国側は、倭国統一への協力を求め、そのために三輪山を譲渡し、大倭壱国連合へ参加するよう要求した。
当然ながら、双方の主張には大きな隔たりがあった。互いに譲る気配を見せぬまま、それぞれの立場と要求だけが繰り返され、話し合いは平行線をたどっていく。
だが、その間、磐余彦も宇摩志麻遅もほとんど口を開かなかった。二人ともそれぞれの者たちが意見を交わす様子を静かに眺めながら、会議がどのように進むのかを見定めていたのである。
和平交渉が始まってから数日が経過した。磐余彦の陣屋では、連日続く話し合いについて三人が顔を突き合わせていた。
「あいつら、本当に和平する気があるのか?」
日臣が苛立ちを隠さず吐き捨てるように言うと、椎根津彦は腕を組んだまま静かに答えた。
「なかなか態度を変えてくれませんね」
「向こうも様子を見ているんだろうけれど、言っていること自体はもっともだよ。所詮、私達は余所者で侵略者だ」
磐余彦がそう言うと、日臣は納得できない様子で眉をひそめた。
「ですが、このまま引き下がるわけにもいきません」
「倭国統一の大義を、粘り強く伝えていくしかありませんな」
椎根津彦の言葉に、磐余彦は小さく頷いた。
「そうだな……」
ただ、磐余彦には宇摩志麻遅の本音が未だにはかりかねていた。交渉の席でも自ら積極的に口を開くことは少なく、こちらの言葉や態度を静かに見定めているように感じる。
――宇摩志麻遅殿は、いったい何を探っているのだろう。
磐余彦は答えの出ない疑問を抱えたまま、しばらく黙り込んでいた。
宇摩志麻遅の陣屋では、連日続く和平交渉について三人が話し合っていた。
「しつこい連中ですな。帰ればよいものを」
弟宇迦斯が吐き捨てるように言うと、高倉下は静かに答えた。
「手ぶらでは帰れないのでしょう」
「倭国統一だの何だのと、夢物語ばかり語っておる。こちらを騙す気が見えている」
「夢物語とは思わん。だが、実現性は低いと言わざるを得ないな」
高倉下の言葉を聞いていた宇摩志麻遅が、腕を組みながら口を開いた。
「父上が日巫女の政治体制に異を唱えなければ、倭国統一そのものは、とっくに実現しておったかもしれんな」
その一言に、弟宇迦斯と高倉下は黙り込んだ。
「それだけ大倭壱国は強力であるということだ。たとえ今回、磐余彦殿の軍を撃退したところで、それで終わるとは思えん。次の軍、その次の軍と、次々に送り込まれてくるだろうよ」
「ですが、我らとて東の連合国家群があります。力を合わせれば、いくらでも撃退出来ましょう」
弟宇迦斯が反論すると、高倉下は険しい表情を浮かべた。
「だが、それを続ければどうなる。筑紫と出雲で起きた倭国大乱の再来になるぞ。いや、東西の国々すべてを巻き込めば、あの大乱以上になるかもしれん」
高倉下は二人を見回し、低い声で続けた。
「そんなことになれば――倭国そのものが滅びるぞ」
宇摩志麻遅は、この数日というもの、和平交渉の場でひたすら磐余彦を観察していた。だが、どれだけ見ても、特別に優れていると思えるところを見いだせない。
父上ほど賢いわけではない。父上ほど戦に強いわけでもない。そして日巫女ほど、人を惹きつける神秘性を備えているわけでもなかった。
では、この男には何があるのか。
磐余彦は会議の間も前に出ようとはせず、ほとんど口を挟まずに双方の話を静かに聞いているばかりだった。宇摩志麻遅は、その姿を眺めながら考え続けていた。
この若者に何が出来るのだろう。倭国の将来を託すに足る人物なのか。そして何より、父・邇芸速日の思想を受け継ぐことが出来るのだろうか。
宇摩志麻遅は、父から最期に「自分で考え、自分で道を開け」と言い残されていた。
父を失ってから何度もその言葉について考えた末、宇摩志麻遅は結局、邇芸速日の政治思想から離れることは出来なかった。父の考えが正しかったからではない。自分自身で考えた末に、それを受け継ぐべきものだと判断したのである。
だが、父の思想を受け継ぐことと、それを自分自身がすべて実行することは別の話だった。その意思を正しく理解し、さらに先へと繋いでくれる者がいるのであれば、自分でなくとも構わない。問題は、その役目を磐余彦に託せるかどうかである。
宇摩志麻遅には、まだ確信がなかった。この若者に、本当にそれだけの器があるのか。だからこそ宇摩志麻遅は答えを急がず、ただ黙って磐余彦を見続けていた。
その時、陣屋に那岐が姿を現した。連日続く和平交渉の疲れが滲む三人を見渡し、いつもの穏やかな口調で声をかける。
「連日の和平交渉、お疲れさまでございます」
「鴉殿か。この通り難航しておる」
宇摩志麻遅が苦い表情を浮かべると、那岐は小さく頷いた。
「最初から上手くいくとは考えておりません。仕方のないことです」
「しかし、こうも噛み合わないのでは話が進みません」
高倉下の言葉にも、那岐は困ったように微笑むだけだった。
「私は和平の内容はどうでもよいのです。ただ、お互いが血を流さず和平がなるのなら、それだけで十分でございます」
その言葉に、宇摩志麻遅が那岐を見つめる。
「つまり鴉殿は、倭国統一を望んでいないと?」
「それは、今を生き、責任ある立場にいるあなた方がお決めになることです。私が口を挟むことではありません」
宇摩志麻遅は黙り込んだ。
自分で決めなさい――曾祖父である那岐からそう告げられた瞬間、亡き父、邇芸速日の言葉が胸の奥によみがえった。
父もまた、最後まで自分に道を示そうとはしなかった。自分で考え、自分で道を決めよ。そう言い残して逝ったのだ。
ならば今、自分がすべきことも同じなのだろう。曾祖父に答えを求めるのでも、亡き父ならどうしたかと考え続けるのでもない。
自分で考え、自分の責任で決めなければならない。宇摩志麻遅は静かに目を伏せた。
翌日、和平交渉の場には重苦しい空気が漂っていた。連日にわたって互いの主張が噛み合わず、話し合いはほとんど進展していない。その沈黙を破るように、これまで様子を見続けていた磐余彦がようやく口を開いた。
「宇摩志麻遅殿、どうでしょう。そろそろ代表同士で、腹を割って話をしませんか」
突然の申し出に、その場にいた者たちの間に動揺が走った。
「二人での話はこちらも望むところですが、人払いは無用に願いたい。我らの会話の立会人としていてもらいたい。よいな、高倉下、弟宇迦斯」
「承知いたしました」
高倉下と弟宇迦斯が同時に答える。
「わかりました。それではこちらもそうしましょう。よいか、日臣、椎根津彦」
「はっ」
日臣と椎根津彦も揃って頭を下げた。
護衛として室内に控えていた竹と浦には、もともと交渉に発言する権限はない。それでも、ここからいよいよ重要な話になるのだと察し、二人とも自然と表情を引き締めた。
磐余彦は一度周囲を見回してから、宇摩志麻遅へまっすぐ視線を向けた。
「正直に申します。倭国統一は、別に大倭壱国が成さなくてもよいのです。少なくとも私は、そう感じています」
「大倭壱国の皇子ともあろう者が、そのようなことを申してよいのですか?」
宇摩志麻遅の問いに、磐余彦は迷うことなく答えた。
「大倭壱国の皇子としては失格でしょう。ですが、倭国全体のことを考えれば、それでよいと考えている次第です。倭国統一はいずれ倭国には必要なことです。しかし、何も大倭壱国が成さなければならないという法則も決まりもありません」
「大胆な考えだ。では、なぜ三輪山へ侵攻してこられた?」
「いずれ必要なことだからです。私は幼い頃、大陸へ渡り、魏の国を見て回ったことがあります。あのような大国に今の倭国が襲われれば、とても抗えません」
「ほう、魏を見てこられたと?」
「朝貢の折に帯同させていただきました。よい勉強になりました。広く、巨大で、倭国とは何もかもが違い過ぎました。だからこそ倭国は、もっと強くならなければいけません」
宇摩志麻遅はわずかに目を細めた。
「残念ながら、そのような視野を持った倭人は少ないかと」
「ならばこそです、宇摩志麻遅殿」
磐余彦は身を正した。
「あなたに、倭国統一へ協力していただきたい」
「倭国統一そのものには、父――邇芸速日も賛同しておりました。ですが、父は大倭壱国とは組まなかった。その理由をご存知でしょうか?」
宇摩志麻遅の問いに、磐余彦は昔、那岐から聞かされた話を思い出した。
「神託政治に疑問を持たれていたと、伺ったことがあります」
「そうです。神託政治とは、神のお告げによって政を決めるものです。神のお告げである以上、そこには協議する余地も、反対する隙もありません。日巫女様の代はまだよいでしょう。ですが、その次の代で暴君が現れた時、いったい誰が止められましょう。そのような危うい政治体制のまま、倭国統一を認めることは出来なかったのです」
磐余彦は少し考えてから問い返した。
「では、日巫女様についてはお認めになると?」
「よくはありません。ですが、日巫女様の代までなら認めましょう」
実際、日巫女の治世は倭国中を探しても並ぶものを見つけるのが難しいほど安定していた。国は栄え、民の暮らしも倭国随一と言ってよいほど豊かである。その実績そのものを否定することは、宇摩志麻遅にも出来なかった。
「ですが――いや、だからこそなのです」
宇摩志麻遅は言葉に力を込めた。
「日巫女様ほどの人物が神託政治を行えば、国は安定する。だからこそ、その成功だけを見て次の世代にも同じ仕組みを残すことを、私は認めるわけにはいかない。日巫女様の次に立つ者が、同じだけの人物である保証などどこにもないのです」
磐余彦はしばらく目を閉じた。
宇摩志麻遅の言葉には、父である邇芸速日の思想がそのまま受け継がれている。日巫女という一人の為政者を否定するのではなく、誰がその座についても同じように機能するとは限らない制度そのものを危惧しているのだ。
やがて磐余彦は目を開いた。
「よいでしょう。日巫女様の治世そのものを否定しないのであれば、私はその考えを認めます」
宇摩志麻遅はわずかに目を細めた。
「では、日巫女様がお隠れになった後、次の巫女が神託をもって政を左右しようとしたなら、どうなさる?」
「私は実のところ、日巫女様と直接お会いしたことがありません。これまで月読様が代弁者としておられました。ですが、日巫女様も月読様も偉大な為政者です。そのことに異論はありません」
磐余彦はそこで一度言葉を切った。
「ですが、宇摩志麻遅殿のおっしゃる通り、次の世代は別の話です」
部屋の中が静まり返る。磐余彦は一呼吸置き、自分の中で考えを確かめるようにしてから続けた。
「祭祀を担うことまで否定するつもりはありません。神を祀り、国の安寧を願う儀式として残してゆけばよいでしょう。ですが――」
磐余彦は宇摩志麻遅をまっすぐ見た。
「政を決めるのは、生きている者たちです」
その言葉を口にした以上、もう後には引けなかった。
「豪族たちと話し合い、異なる意見にも耳を傾け、そのうえで私自身が責任を負って決めます。神のお告げだから従えというのではなく、なぜそうするのかを考え、話し合い、その結果に責任を負う。それこそ、これからの人間が行う政でしょう」
それは単なる政治体制についての意見ではなかった。
日巫女の神託を頂点として成り立つ大倭壱国の意思から、磐余彦自身が離れる可能性すら認める言葉だった。大倭壱国の皇子でありながら、その政治体制に無条件で従うのではなく、自ら考え、自ら責任を負う道を選ぶ。
それがどれほど危険な決断であるか、磐余彦自身にも分かっていた。
それでも彼は、その言葉を撤回しなかった。
宇摩志麻遅は、目の前に座る磐余彦を静かに見つめていた。
やはり未熟だと思う。語る理想は大きいが、現実がそれほど簡単に動くものではないことを、まだ十分には理解していないようにも見える。豪族同士の利害も、長く積み重なった怨恨も、一つの言葉で消えるものではない。磐余彦が望む政は理想が先に立ち、実現性という意味では決して高いとは言えなかった。
それでも――この若者は、本気なのだ。
その場を取り繕うためでも、自分を良く見せるためでもない。本気で倭国全体のことを考え、本気で自分の語った政を実現しようとしている。
そして何より宇摩志麻遅を驚かせたのは、磐余彦が大倭壱国そのものに固執していないことだった。大倭壱国の皇子でありながら、その国が倭国統一を成し遂げることにさえ執着していない。必要ならば自らが生まれ育った国の意思から外れることすら受け入れようとしている。
自分の国を大きくしたいのではない。
自分が勝ちたいのでもない。
倭国にとって必要ならば、自分自身の立場さえ捨てる覚悟がある。
――なんという器なのだ。
宇摩志麻遅の脳裏に、伊邪那岐の言葉が蘇った。
大きな器。
それは何でも一人で出来る者という意味ではないのかもしれない。
父、邇芸速日のような知恵もない。戦場で敵を圧倒するほどの武もない。日巫女のように、人々をひれ伏させる神秘性もない。
だが、それでよいのではないか。
この若者に足りないものがあるのなら、それを持つ者が支えればよい。理想だけでは届かぬ場所があるのなら、現実を見る者が隣に立てばよい。実現性の低いことを実現させるために、周囲の者たちが知恵を出し、力を貸す。
そして磐余彦には、その力を拒まず受け入れるだけの器がある。
伊邪那岐が言っていたのは、こういうことなのかもしれない。
しばらく黙っていた宇摩志麻遅は、ようやく決意を固めた。
「では私も、本音を語りましょう」
その一言で、室内の空気が変わった。
宇摩志麻遅は磐余彦から目を逸らさず、静かに続けた。
「私は纒向の宮と三輪山の主としての地位を、磐余彦殿へ譲る用意がございます。また東国の諸豪族には、あなたを新たな盟主として認めるよう、私から働きかけましょう」
一瞬、誰も言葉を発することが出来なかった。
それまで黙って成り行きを見守っていた者たちから、遅れて驚嘆の声が広がる。
纒向と三輪山を譲る。
それは単に土地や宮を渡すという話ではない。邇芸速日から受け継がれてきた東国の中心を、宇摩志麻遅自ら磐余彦へ託すという宣言だった。
だが宇摩志麻遅は、周囲の動揺には構わず言葉を続けた。
「ですが――すべてが従うとは思わないでいただきたい」
その声には、地位を譲る覚悟と同時に、これから磐余彦が背負うことになる現実の重さが込められていた。
「ただし、条件があります。それに、いくつか問題も残っております」
宇摩志麻遅の言葉に、磐余彦は表情を引き締めた。
「条件とは」
「まず、既存の豪族たちによる体制を急激に壊さないこと。そして日巫女様がお隠れになった後は、神託によって政を動かす体制を認めないこと。我らの一族の姫を磐余彦殿に娶っていただき、我らの一族に連なる者となっていただくことです」
宇摩志麻遅はそこで一度言葉を切ったが、まだ条件は終わっていなかった。
「この地の者たちは、もともと我らに味方していた者ばかりです。ゆえに今後、磐余彦殿に反抗する者が現れたとしても、降伏した者はお許しいただきたい。そして最後に――磐余彦殿ご自身が、この土地の王として立っていただきたい」
磐余彦の胸が、わずかに痛んだ。
王になるという話ではない。婚姻の話だった。
三輪山との和平を成立させ、この土地に受け入れられるためには、宇摩志麻遅の一族と血縁を結ぶことが極めて重要である。それは磐余彦にも理解できていた。
だが、日向には吾平津媛がいる。
そして、それとは別に、決して口に出すことなく心の奥底へしまい込んできた竹と浦への想いがあった。
それでも今は、自分一人の気持ちだけで答えを決めてよい場ではない。和平と、その先にある国の行く末が懸かっている。ここでは自分の心を閉ざしてでも、必要な決断をしなければならなかった。
磐余彦は、傍らで護衛として控えている竹と浦へ、思わず視線を向けた。二人とも何も言わなかった。ただ、真剣な表情のまま、小さく頷いた。その仕草だけで十分だった。
――引き受けなさい。
二人とも、そう告げている。とりわけ竹の顔を見ていると、今にも、
『主がきょろきょろしてこっちを見ない! しっかり構えていなさい』
と叱られそうな気さえした。
磐余彦は小さく息を整え、宇摩志麻遅へ向き直った。
「王になること以外は承知しましょう」
宇摩志麻遅が静かに磐余彦を見る。
「王位に就くとなれば、いろいろと問題があります。私の一存で勝手に即位するわけにはいきません。そこは段階を踏み、時期を見てからということでよいですか?」
「それで構いません」
宇摩志麻遅は迷うことなく答えた。
磐余彦は頷く。
「では、問題とは?」
宇摩志麻遅は少し表情を曇らせた。
「こちらの方が難問かもしれません。父、邇芸速日の治世であれば問題なかったのでしょうが、私では各地の豪族を抑えきれません。ましてや、余所者がいきなり主になるのです。必ず抵抗する者が現れることでしょう」
磐余彦はその言葉の意味を察した。
「それで、抵抗した者も許せということですね」
「恥ずかしながら、おっしゃる通りです」
宇摩志麻遅は静かに認めた。自らでは抑えきれない者たちがいる以上、新たな主となる磐余彦に、その後始末まで託さなければならない。それは決して誇れる話ではなかった。
だが磐余彦は責めることなく、少し考えた末に答えた。
「わかりました。抵抗してきたのであれば、こちらも対抗はさせていただきます。ですが、戦いの後に降伏した者まで罰するつもりはありません。降伏した者は許しましょう。それでよいですか?」
「承知いたしました」
宇摩志麻遅は深く頷いた。
そのやり取りを、竹と浦は磐余彦の傍らから黙って見つめていた。かつて二人にとって狭野は、泣き虫で、どこか頼りなく、放っておけない弟のような少年だった。その狭野が今では、多くの豪族の行く末に関わる国家の大計を語り、相手の事情を受け止めながら、自らの言葉で一つの話をまとめ上げている。
二人には、その姿がひどく眩しく見えた。
会議が終わり、一同が会場から出てくると、傍らで成り行きを見守っていた那岐は満面の笑みを浮かべていた。ようやく話がまとまったことが、心から嬉しいのだろう。
その様子を見た宇摩志麻遅は、高倉下へそっと顔を寄せた。
「高倉下。あの方は我らの曾祖父、伊邪那岐様だぞ。今は鴉と名乗っておられるが、立場上、伊邪那岐様もいろいろとお苦しいのであろう」
「…………え?」
高倉下の顔から、さっと血の気が引いた。
あの鴉が、伊邪那岐。
つまり自分は先日、何も知らなかったとはいえ、曾祖父に女装をさせたうえ、酒の酌までさせていたことになる。
しかも、あまりにも美しい姿だったため、妙に意識してしまった記憶まで鮮明に残っている。
「…………」
高倉下は何も言えなくなった。今すぐ誰かに助けてほしい。だが、誰に助けを求めればよいのかも分からない。そんな絶望的な気持ちでいっぱいだった。
やがて宇摩志麻遅たちも去り、日臣や椎根津彦も会場を後にした。広かった部屋には、磐余彦と竹、浦の三人だけが残った。
しばしの沈黙の後、竹が磐余彦をじっと見つめる。
「主がきょろきょろしてこっちを見ない! しっかり構えていなさい」
「やっぱり言われたぁ……」
磐余彦はがっくりと肩を落とした。
和平のためとはいえ婚姻の条件を突きつけられ、思わず竹と浦の顔色を窺ってしまったことは、やはり完全に見抜かれていたのである。




