十四話 三輪山と宇摩志麻遅
纏向の宮では、連日のように今後の方針を定めるための協議が続いていた。主座には三輪山を治める宇摩志麻遅が座り、その傍らには護衛として弟宇迦斯が控えている。
さらに長髄彦と安日彦も席を連ね、議題となっていたのは、行方を見失った大倭壱国の軍をどう捉え、これからどのように対応するべきかという問題であった。
しかし、三人の意見は容易にはまとまらなかった。宇摩志麻遅はこれ以上の流血を避けるため、まず相手と直接話し合うべきだと考えていた。一方の長髄彦は、大倭壱国を信用することなどできぬとして徹底抗戦を主張し、安日彦はどちらにも与せず、情勢を見極めるべきだという中立の立場を崩さなかった。
そのとき、広間の外から慌ただしい足音が響いた。
「申し上げます! 和平交渉の使者と名乗る者が参っております!」
その報告を聞いた瞬間、長髄彦の表情が険しくなった。
「和平の使者だと?」
大倭壱国からの使者に違いない。そう決めつけた長髄彦は、返事を待つこともなく腰の剣を抜き放つと、そのまま使者の待つ入口へと向かった。
「長髄彦!」
宇摩志麻遅が制止する声も届かない。
廊下へ飛び出した長髄彦は、入口に立つ小柄な人影を見つけるなり、問答無用で剣を振り下ろした。
だが――。
「なっ……!」
刃が届く寸前、その人影がわずかに身体をずらした。
次の瞬間には手首を取られ、長髄彦自身にも何をされたのか分からぬまま、握っていたはずの剣が消えていた。
使者の手には、長髄彦の剣が握られている。
その者は剣を眺めることもなく、長髄彦の足元へ静かに投げ返した。
「鴉と申します」
そして何事もなかったかのように、丁寧に頭を下げた。
そこへ宇摩志麻遅と安日彦も駆けつける。
「長髄彦、何をしている!」
宇摩志麻遅が間に入ろうとするが、長髄彦はなおも怒りを露わにしたまま、足元の剣へ手を伸ばした。
「何が鴉だ! ふざけるな! 今度こそ――」
そこで言葉が止まった。
「……え?」
怒りに染まっていた長髄彦の顔から、みるみる険しさが消えていく。
「あなた様は……」
目の前に立っていたのは、長い黒髪を持つ、十五、六ほどにしか見えぬ美しい少年だった。
だが長髄彦は、その顔を知っていた。四十年ほど前、一度だけ会ったことがある。そのときから、何ひとつ変わっていない。邇芸速日の祖父にして、大倭壱国の礎を築いた者。
伊邪那岐。
宇摩志麻遅と安日彦もまた、遅れてその正体に気づき、広間へ続く廊下に、しばし言葉を失ったような静寂が落ちた。
「私は鴉と申します。大倭壱国と三輪山、双方の和平交渉のために参りました」
那岐はそう名乗ると、静かに頭を下げた。
「決して、大倭壱国だけの使者として来たわけではありません。双方のため、和平を実現するために伺いました」
「ひいおじい……」
宇摩志麻遅は思わずそう呼びかけ、すぐに言い直した。
「いえ、鴉殿。よくおいでくださいました。さあ、中へ――」
だが、その言葉を遮るように、長髄彦が片腕を大きく広げた。
「待たれよ」
宇摩志麻遅の前に立ちはだかり、長髄彦は那岐を睨みつける。
「あなた様が鴉と名乗るというのなら、それでもよい。だが――あなた様が相手であろうと、儂は認めるわけにはいかん」
低く押し殺していた声が、次第に怒気を帯びていく。
「大倭壱国の和平など、儂は信じぬ。大国主の末路を見たか? 和平を結んだ後に暗殺しよったではないか! そのような者たちを、どうして信じることができる!」
大国主――かつて八千矛と名乗っていた男と、長髄彦には若き日の因縁があった。何度も戦場で刃を交え、互いに一歩も退かなかった相手である。
だからこそ、長髄彦は知っていた。
敵であったからこそ、その男がどのような人物であったのかを知っていた。
「大国主とは何度も刃を交えた。気に食わぬ男でもあった」
長髄彦は吐き捨てるように言った。
「だが、あやつは国を立て直した。荒れ果てた土地を立て直し、民を食わせ、出雲を再び豊かな国にした男だ。それだけは儂も認めておる」
そして、拳を固く握り締める。
「その男に和平を結ばせ、その後で暗殺した。それを見て、なお大倭壱国の和平を信じろと言うのか」
那岐は、しばらく何も答えなかった。
長髄彦の怒りを否定することも、言い訳を並べることもしない。ただ、その言葉を静かに受け止めていた。
やがて、穏やかに口を開く。
「弁明するつもりはありません」
長髄彦の眉がわずかに動いた。
「和平を結んだ後に、大国主殿が殺された。その事実だけを見れば、あなたが大倭壱国を信じられないのも当然でしょう」
那岐の声には、怒りも反発もなかった。
「大国主殿を暗殺した者は、先の倭国大乱で家族を失った戦災孤児でした。出雲への復讐だけを胸に抱き、そのために人生を費やした者です」
那岐はわずかに目を伏せた。
「誰かの命に従って行ったことではありません。命令に背き、己の怨みに任せて暴走した末のことでした」
長髄彦は黙ったまま、那岐を見つめている。
「もちろん、それで大国主殿が戻ってくるわけではありません。だから許されると言うつもりもありません」
那岐はゆっくりと顔を上げた。
「ただ、私は思うのです。戦で生まれた怨みは、戦が終わったからといって消えるものではありません。十年、二十年、それ以上の時を経ても、人の心に残り続けることがあります」
その声音には、長い年月を生きてきた者だけが持つ重さがあった。
「怨恨とは、それほど長く、根深いものです」
そして那岐は、まっすぐ長髄彦を見る。
「だからこそ、和平が大事なのです」
長髄彦は何も言い返さなかった。
怒鳴り返そうと口を開きかけ、それでも言葉が出てこない。
大国主を殺した者もまた、かつての戦によって人生を狂わされた者だった。その事実を前にすれば、単純に大倭壱国だけを責めることもできなかった。
長い沈黙が流れた。
やがて長髄彦は、悔しげに顔を背ける。
「……それでもだ」
絞り出すように言った。
「いずれにせよ、儂は和平など認めん!」
そして、那岐を振り返る。
「絶対に認めんからな!」
それだけ言い残すと、長髄彦は踵を返した。
誰の制止にも耳を貸さず、そのまま纏向の宮を後にし、己の本拠である登美へと戻っていった。
宇摩志麻遅は、去っていく長髄彦を引き留めたかった。しかし、その背中に声を掛けることができなかった。長髄彦も安日彦も、ただ従っているだけの家臣ではない。父・邇芸速日に長く仕え、自分にとっては叔父にも等しい存在であり、外様の豪族とはまるで違う。その身内に近い者たちでさえ一つにまとめることができない自分を思うと、情けなさが胸に込み上げてきた。
どうして私は、皆をまとめきれないのだろう。
父ならば、こんな時どうしたのだろうか。邇芸速日が生きていた頃なら、長髄彦もここまで頑なにはならなかったのではないか。そう思えば思うほど、宇摩志麻遅は父との差を突きつけられているような気がした。
誰もすぐには口を開かず、しばらく重い沈黙が広間を包んだ。やがて安日彦が静かに息を吐き、那岐へ向き直った。
「鴉殿、とりあえず中へどうぞ。話だけでも伺いましょう」
「感謝いたします」
那岐が穏やかに頭を下げると、一同は纏向の宮の奥にある広間へ場所を移した。宇摩志麻遅が主座につき、その傍らには護衛の弟宇迦斯が控える。安日彦も腰を下ろしたところで、那岐は改めて話を切り出した。
「まず、東征軍は現在、熊野にて駐屯しております」
「ほう」
安日彦がわずかに眉を上げた一方、宇摩志麻遅は驚いて身を乗り出した。
「熊野だと? 弟の地に!」
熊野を治めている高倉下は、宇摩志麻遅の弟である。思わず声を荒らげた宇摩志麻遅に対し、那岐は安心させるように柔らかな口調で続けた。
「ご安心ください。高倉下殿はご無事です。和平交渉についてお話ししたところ、東征軍が熊野に駐屯することだけを許されました。戦も起きておりませんし、和平交渉が終わるまでは何もしないと申されております」
それを聞いた宇摩志麻遅は、ようやく肩の力を抜いた。その隣では安日彦がどこか嬉しそうに笑っている。
「あやつも、そんな決断ができるようになったのか。ほっほっ」
叔父として、高倉下の成長を喜んでいるのだろう。那岐も小さく笑みを返してから話を続けた。
「東征軍の主将である磐余彦殿も和平を望んでおります。現在は熊野から動かず、こちらの返答を待っている状態です」
「つまり、磐余彦殿は私を待っていると?」
「そのようです」
宇摩志麻遅が考え込んだところで、背後に控えていた弟宇迦斯が警戒するように口を挟んだ。
「ですが、それは宇摩志麻遅様を熊野へ誘い出す罠かもしれませんぞ」
「これ、弟宇迦斯。護衛が余計な口を叩くでない」
安日彦にたしなめられ、弟宇迦斯はすぐに頭を下げた。
「はっ、申し訳ありません」
「だが……罠という可能性も捨てきれんな」
安日彦自身も完全には否定しなかった。敵軍が駐屯している土地へ、三輪山の主である宇摩志麻遅自らが赴くのである。疑って当然の話だった。
しかし那岐は少しも慌てることなく、静かに二人を見渡した。
「その点だけは問題ございません。私が責任を取りましょう」
強い言葉を使ったわけではなかったが、宇摩志麻遅も安日彦もそれ以上は何も言わなかった。四十年以上も変わらぬ姿でそこにいる人物が口にした言葉には、不思議なほどの重みがあった。
宇摩志麻遅はしばらく那岐を見つめたあと、ふと別の疑問を口にした。
「鴉殿。その磐余彦殿とは、どのような方なのでしょう?」
那岐はすぐには答えず、少しだけ考えるように目を伏せた。
「まだ若い方です。知略でも武でも、邇芸速日殿には遠く及びません。ただ、自分一人の力だけでここまで来た方でもありません。家臣たちの言葉によく耳を傾け、それぞれの力を借りながら皆をまとめ、ここまで歩いてきた御仁です」
そこで那岐は、わずかに微笑んだ。
「器の大きさで、ここまでやってきた方なのでしょう」
「器……か」
宇摩志麻遅は、その言葉を確かめるように繰り返した。
父・邇芸速日に自分が遠く及ばないことは、誰よりも宇摩志麻遅自身が理解している。父ほど知略に優れているわけでもなければ、人を圧倒するほどの決断力があるわけでもない。長髄彦や安日彦のように、父へ絶対的な忠誠を捧げていた者たちを、自分は今も完全にはまとめきれていなかった。
だからこそ、那岐の言った「器」という言葉が妙に心に残った。
自らがあらゆる面で優れていなくとも、人の言葉を聞き、人の力を借り、それらを一つにまとめることで前へ進んでいく。そのような人物が本当にいるのなら、一度自分の目で見てみたいと思った。
「どうされますかな?」
安日彦に問われ、宇摩志麻遅はしばらく目を閉じて考えた。そして決意を固めると、ゆっくりと顔を上げた。
「熊野へ向かいましょう。直に会って話をしなければ、何も決められぬ。磐余彦殿が何を考え、どのような国を望んでいるのか、この目で確かめたい」
そう告げてから安日彦へ向き直る。
「安日彦、留守を頼む」
「承知いたしました。ご無事のご帰還を願っております」
「弟宇迦斯、護衛を頼む」
「はっ」
弟宇迦斯も深く頭を下げた。
こうして宇摩志麻遅は、熊野へ向かうことを決めた。もっとも、それで胸の迷いが消えたわけではない。三輪山をどのように導き、その先に広がる東国の豪族たちをいかにまとめていくべきなのか。そして西に巨大な勢力を築く大倭壱国と、これからどのような関係を結ぶべきなのか。
父・邇芸速日はもういない。これからは父の答えを探すのではなく、自分自身で考え、自分自身の責任で選ばなければならない。
宇摩志麻遅には、その答えを見つけるための何かが、熊野で待っているように思えた。




