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泣き虫皇子は仲間を集めて初代天皇になる!―神代の終焉と神武東征―  作者: 月見
二章 神武東征

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十三話 熊野での旗揚げ

挿絵(By みてみん)


 夜陰に紛れ、那岐(なぎ)は東征軍の船団からひとり飛び立った。海上を渡り、船団に先んじて熊野の地へ降り立つ。実に四百五十年ぶりの帰還であった。


 かつて徐福たちと訪れた熊野は、那岐の記憶とは大きく姿を変えていた。当時の建物も、見知った人々も、とうに失われている。


 支配者は幾度も代わり、大陸の言葉を話す者も、もはや見当たらなかった。かつて異国の者たちが海を渡ってきたという話だけが、民の間に伝承として残されている。


 那岐はしばし懐かしい景色を探していたが、やがて気持ちを切り替えた。今は思い出に浸っている場合ではない。鴉と名乗り、熊野を治める豪族の館へ向かった。


 館の主である高倉下(たかくらじ)は、邇芸速日(にぎはやひ)の息子であり、宇摩志麻遅(うましまじ)の腹違いの弟にあたる。


 熊野は比較的安定した土地ではあったものの、山々が海岸近くまで迫り、平地が少ない。多くの兵を養うことも難しく、東征軍が攻め寄せれば、まともに抗することはできないと高倉下自身も理解していた。


 そのため、東征軍に先んじて現れた鴉の申し出を、高倉下は慎重に聞いていた。


「つまり、鴉殿は中立でよいというのだな?」


「はい。熊野が大倭壱国に降伏する必要はありません。ただ、東征軍がこの地に駐屯することをお認めいただければと思います」


 那岐が穏やかに答えると、高倉下は腕を組み、難しい顔で考え込んだ。


「しかし、和平交渉など、今更できるものかの……。すでに戦が起き、双方とも兵を失っておる。三輪山が話し合いに応じるとは思えぬが」


「すぐに和睦が成立するとは、私も考えておりません。ですが、このまま戦を続ければ、さらに多くの命が失われます。まずは熊野を、大倭壱国と三輪山が話し合うための場として、お貸しいただけないでしょうか」


 那岐は高倉下の目をまっすぐに見つめた。


「熊野に、どちらか一方の味方をしていただきたいわけではないのです。両者が言葉を交わすために、ご協力をお願いしたいのです」


 高倉下はしばらく黙っていた。熊野の兵力では、東征軍と三輪山の争いに加わることなどできない。しかし、戦を避けるための話し合いであれば、熊野にも果たせる役割がある。


「……そういうことであれば、協力を認めようではないか。東征軍の駐屯も許そう。ただし、熊野を戦場にすることだけは避けてもらいたい」


「ありがとうございます。熊野の方々にご迷惑をおかけしないよう、東征軍にもお伝えいたします」


 那岐は深く頭を下げた。


「和平交渉はこれからですが、私も全力で務めさせていただきます」




 那岐が海岸を眺めていると、沖合に東征軍の船団が姿を現した。先頭の船では、舷側から虹色に輝く何かが海へと垂れ流されている。日臣のゲロだった。


「瀬戸内海を出たとたん、なんだよ……波がエグいだろ……」


 日臣はようやく陸に上がると、ぐったりしたまま砂浜に横たわった。その傍らを通り過ぎた那岐は磐余彦のもとへ向かい、熊野の豪族である高倉下との交渉がまとまったことを報告した。


「鴉殿、熊野との交渉をうまくまとめていただき、感謝する」


 磐余彦の言葉に、那岐は静かに平伏した。一方、大久米は上陸の邪魔になっている日臣を右腕でひょいと抱え上げ、左手に荷物を提げて陣営の設営予定地へと運んでいった。


「これから陣の設営に舞台の準備と、忙しくなりますね。食糧はいかがいたしましょう?」


 椎根津彦の問いに、那岐は少し考えてから答えた。


「米と粟を高倉下殿に少しお渡しして、代わりに熊野で採れる魚や肉、野菜などを分けていただいてはいかがでしょうか。互いに持っているものを交換すれば、よいおもてなしにもなると思います」


「それはいいですね。私も高倉下殿に挨拶しなければなりませんし、その折に食糧の話もいたしましょう」


 磐余彦は頷き、熊野での陣営づくりと宴の支度を進めるよう命じた。


 椎根津彦と大久米は、陣営の設営と並行して巫女舞の舞台造りに追われていた。船酔いから回復した日臣も途中から加わり、三人が兵たちを指揮して木材を組み上げると、数日後には立派な舞台が完成した。


 陣営が整うと、磐余彦は高倉下との交易で手に入れた新鮮な魚や肉、熊野の山海の幸を兵たちに振る舞った。久しぶりの酒に歓声が上がり、長い遠征で疲れ切っていた兵たちの顔にも、ようやく笑みが戻ってくる。


 やがて篝火に照らされた舞台に、竹と浦が姿を現した。二人が舞い始めると、それまで賑やかだった宴の席は次第に静まり、兵たちの視線が舞台へと集まった。


 竹の舞は、指先まで神経の行き届いた端正なものだった。一つ一つの所作に乱れがなく、足運びから袖の扱いに至るまで、日頃の厳しい鍛錬がうかがえる。


 一方、浦は同じ型を舞いながらも、袖を翻す動きや身体の運びに柔らかな流れを生み出し、軽やかで伸びやかな舞を披露した。


挿絵(By みてみん)


 清廉で凛とした竹と、優美でしなやかな浦。異なる個性を持つ二人の舞は見事に調和し、兵たちは酒杯を手にすることも忘れて見入っていた。


 舞が終わると盛大な拍手と歓声が湧き起こり、熊野の夜は、久しく戦の緊張に包まれていた東征軍に安らぎをもたらした。


 竹と浦の巫女舞が終わると、磐余彦が兵たちの前に姿を現した。


 日臣と大久米、椎根津彦の手配によって、舞台の両脇には日之御旗と月之御旗が掲げられる。


 日は日巫女を、月は月読を象徴する二本の御旗が、夜風を受けて大きくはためいた。


「皆の者、今宵を楽しんでおるか!」


 磐余彦の呼びかけに、兵たちが歓声を上げた。磐余彦はその声を受け止めると、ゆっくりと布都御魂(ふつのみたま)を抜き放った。刀身から赤い妖気が立ち昇り、篝火に照らされた兵たちの間に驚きの声が広がる。


「皆に伝えることがある。先の戦で、我らは苦渋を味わった。南へ向かう途上で大将の彦五瀬を失い、多くの仲間も傷ついた。だが、我らはここで諦めるわけにはいかぬ!」


 磐余彦は布都御魂を高く掲げた。


「この熊野の地で疲れを癒し、再び立ち上がろうではないか! 今宵、私はこの布都御魂剣と、お主たちに誓う。兄上の志を引き継ぎ、必ずや三輪山へ向かう!」


挿絵(By みてみん)


 兵たちの歓声が、先ほどにも増して大きくなった。磐余彦は剣を掲げたまま一同を見渡し、最後に声を張り上げた。


「今宵は十分に食べ、飲み、身体を休めてくれ。明日からのために、英気を養おうぞ!」


 安心して休める熊野の地、温かな食事と酒、竹と浦の見事な巫女舞。


 そして、伝説の宝剣を掲げた磐余彦が示した進むべき道。


 敗戦と彦五瀬の死によって沈んでいた東征軍は、この夜、再び立ち上がる力を取り戻したのだった。




 宴は高倉下の館でも催されていた。那岐は鴉と名乗ったまま接待役を務め、高倉下の杯に静かに酒を注いでいた。


「それにしても、父上が亡くなって間もなく大倭壱国が攻めてきたと聞いたときは、正直、不安であったわ」


「父上といいますと?」


「儂の父は邇芸速日だ。もっとも、父が齢を重ねてから生まれた子でな。兄たちに比べれば、まだまだ若輩者よ」


 那岐は思わず高倉下の顔を見つめた。邇芸速日の後半生については、ほとんど何も知らない。その息子であれば、自分にとってはひ孫にあたる。


 目の前の若い豪族への親しみと、邇芸速日が晩年をどのように過ごしたのかという興味が、同時に湧き上がってきた。


「よろしければ、邇芸速日様のことをお聞かせいただけませんか。どのような方だったのでしょう」


 高倉下が答えようとしたところで、傍らに控えていた側近が口を挟んだ。


「そのようなことを、男の酌で話せるものか」


 那岐はしばらく黙り込んだ。やがて何かを納得したように小さく頷くと、杯を置いて丁寧に頭を下げた。


「……失礼いたしました」


 そう告げて、那岐は静かに席を辞した。




 半刻ほどして、高倉下の前に、一人の美しい女が姿を現した。艶やかな黒髪を背に流し、女物の衣をまとったその女は、ためらう様子もなく高倉下の隣に腰を下ろすと、微笑みながら杯に酒を注いだ。


「どこの娘だ?」


 高倉下は見覚えのない美女に目を奪われた。だが、よくよく顔を眺めているうちに、その端正な顔立ちが先ほど退席した鴉と同じであることに気づき、思わず杯を持つ手を止めた。


「か、鴉殿……その格好は……!?」


「女の酌ならお話しくださると伺いましたので。どうぞ、お召し上がりください」


挿絵(By みてみん)


 那岐は何事もなかったかのように酒を勧めた。本人にとっては、話を聞くために衣を替えただけのことであり、女装に対する抵抗も、相手を驚かせているという自覚もほとんどない。


「いや、そういう意味では……」


 高倉下が言葉を詰まらせる一方、先ほど余計なことを口にした側近たちは、目の前の光景に唖然としていた。誰一人として、鴉が本当に女の姿で戻ってくるとは思っていなかったのである。


 結局、高倉下は那岐に酌をされながら、自らの生い立ちや父・邇芸速日の晩年について語ることになった。


 那岐は時折うなずき、知ることのなかった孫の後半生に静かに耳を傾けた。


 その表情は終始穏やかで、念願の話を聞けたことに心から満足していた。


 しかし、高倉下の心中は穏やかではなかった。目の前で微笑む鴉は、これまで見たどの女よりも美しい。しかも、その正体が男であることを知っている。


 高倉下は杯を口に運びながら、自分の中で何かが目覚めかけているような、得体の知れない悪寒を覚えるのだった。

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