十二話 八咫烏と勇者の剣
磐余彦たちに活気は戻ったものの、東征軍には依然として深刻な問題が残されていた。白肩津での敗戦と彦五瀬の死によって兵たちの士気は落ち込み、軍は明確な目的地も今後の方針も定まらないまま、ただ南へと進んでいた。このままでは兵たちの不安が募るばかりである。磐余彦たちは、一刻も早く進むべき道を示し、軍の士気を立て直さなければならないと理解していた。
そんな一同を前に、那岐が静かに口を開いた。
「私は鴉と申します。宇佐の日巫女女王より命を受け、大倭壱国と三輪山の和平交渉、ならびにその仲裁を仰せつかっております」
「日巫女様から、和平の指示が……」
磐余彦は驚きながらも、すぐに納得した。なるほど、和平の仲裁という役目だからこそ、日巫女様は那岐様を動かされたのだ。そう理解すると、胸の内にわずかな希望が灯った。
「しかし、どうやって和平を結ぶのです?」
日臣の問いに、椎根津彦が険しい顔で答えた。
「三輪山へ送った使者が、いまだ一人も戻っておりません。向こうで拘束されているのか、あるいは斬られてしまったのか……。いずれにせよ、こちらからの使者を受け入れてもらえる保証はありません」
「帰ってこられないと分かっていて、使者を引き受ける者なんていないだろうな……」
日臣が腕を組むと、那岐は穏やかな声で申し出た。
「では、使者はこの鴉めが引き受けましょう」
那岐は、あえて鴉という名を強調した。皆がうっかり本当の名で呼ばぬよう、念を押したのである。
「しかし、それでは、な……鴉殿が危険です!」
早速言いかけた椎根津彦に、那岐は小さく微笑んだ。
「ご心配には及びません。どうぞお任せください」
「何か策でもあるのでしょうか?」
磐余彦が尋ねると、那岐は少しだけ首を傾げた。
「策というほどのものではありませんが、三輪山には何度か赴いたことがあります。何とかいたしましょう」
そう答えたものの、具体的な策などなかった。三輪山には那岐のよく知る者たちがいる。だからこそ、まずは自ら出向き、顔を合わせて話をするしかない。そこで活路を見いだす覚悟だった。
「和平の話は鴉殿にお任せするとして、当面の問題はそこではありません」
日臣が話を戻すと、大久米も黙って頷いた。
「我々は今、ただ南へ進んでいるだけです。行き先も、その先の方針も定まっておりません。何より、東征軍の士気の低下が深刻です。このままでは戦うどころか、和平の席に着くことすら難しいでしょう」
椎根津彦の言葉に、一同は押し黙った。磐余彦たちに活気が戻ったからといって、兄を失った衝撃が軍全体から消えたわけではない。兵たちは、どこへ向かい、何のために進むのかを知らされぬまま、不安を抱えていた。
那岐はしばらく考え、やがて一同を見渡した。
「では、この半島を越えたら東へ向かいましょう。その先に、熊野という地がございます。まずはそこを東征軍の拠点とし、兵を休ませ、軍を立て直されるのがよろしいかと思います。私が先行して熊野の方々と話をつけてまいりましょう」
「熊野……」
磐余彦がその名を繰り返すと、那岐は静かに頷いた。
熊野。それは那岐にとって、ただの寄港地ではなかった。かつて徐福の船団とともに踏み入れた、遠い日の記憶が眠る土地である。四百年以上の歳月を経て、再びそこへ向かうことになるとは思ってもみなかった。
それでも那岐は、胸の奥に浮かんだ記憶をそっと押し戻し、磐余彦たちの前では変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
「当面の行き先は熊野でいいとして、問題は士気だよな」
日臣が腕を組むと、椎根津彦も難しい顔で頷いた。
「何かしらの対策が必要ですが、どうしたものか……」
「では、熊野の地でまず兵を休ませてはいかがでしょう。十分な食と酒を振る舞って宴を開き、舞を奉納するのです」
「ほう……なるほど」
磐余彦が感心したように頷くと、那岐は傍らの双子に目を向けた。宴での舞は、戦勝祈願の意味合いを帯びることになるだろう。和平の仲裁を担う以上、自ら舞うことは避けたいと考えたのだ。
「舞なら、そちらの両名が控えております。竹、浦。申し上げなさい」
竹と浦は一歩前に進み、磐余彦に向かって姿勢を正した。
「磐余彦様。本日この時より、護衛としてお仕えするよう申し受けております」
「私もです、磐余彦様。どうぞよろしくお願いいたします」
「えっ……さ、様?」
幼い頃から姉のように慕ってきた二人に、初めて敬称をつけて呼ばれ、磐余彦は思わず目を瞬かせた。しかし、双子はいたって真面目だった。
「舞の作法も仕込まれておりますので、ご存分にお命じください」
「得意でございます。日々の鍛錬の成果をお見せいたしますね」
浦がにこりと微笑む。その口調にまだ戸惑っている磐余彦へ、那岐は一本の剣を差し出した。
「それと、こちらの剣を磐余彦様にお渡しするよう命じられております」
「これは……?」
磐余彦が受け取り、鞘から刀身を引き抜いた。途端に、刃から赤い妖気が立ちのぼり、その光が一同の顔を照らした。
「布都御魂と申します。かつて建御雷が用いた、妖気を帯びた剣です。舞の奉納と合わせて、この剣を掲げ、兵の皆様にお言葉をかけてみてはいかがでしょう」
日臣は赤く輝く刃を見上げ、力強く頷いた。
「こいつを兵の前で掲げりゃ効くぜ。建御雷の剣が俺たちの側にあるってだけで、顔を上げる奴はいる」
「竹、浦。私にこれから仕えてくれるとのことだが……本当によいのですか?」
磐余彦が改めて尋ねると、竹は背筋を伸ばし、迷いのない眼差しで答えた。
「問題ございません。命尽きるその時まで、磐余彦様をお守りいたします」
「私も一生、ついていきます。磐余彦様!」
浦も満面の笑みで言い切った。その言葉が意味するのは、幼い頃から共に過ごしてきた仲間たちが、これからもずっと一緒にいられるということだった。誰も口にはしなかったが、皆の胸には喜びが広がっていた。
ただ、磐余彦だけは少しばかり頬を赤らめていた。命尽きるまで、一生、と立て続けに誓われると、さすがに少々気圧されてしまう。それでも、二人がこれからも傍にいてくれるのだと思うと、胸の奥にしまい込んでいた恋心が、どうにも落ち着かなくなるのだった。
そんな三人のやり取りを見守っていた大久米は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「おいおい、まだ先は長いんだぜ。泣いてる暇があるんなら、次の行動を考えようぜ。軍の士気はまだ戻ってねえし、熊野にだって無事に上陸できるかわからねえんだからよ」
日臣はそう言って大久米の肩を叩いたが、その声は先ほどまでとは打って変わって陽気だった。大久米も両手で自分の頬をぱんぱんと叩き、気合いを入れ直すと、懸命に凛々しい顔を作ってみせた。
その様子を見届けた椎根津彦が、磐余彦の前へ進み出た。両手に捧げているのは、亡き彦五瀬が日巫女より賜った三種の神器である。
「磐余彦様、こちらをお受け取りください。本日、この時より、磐余彦様が正式な東征軍の指揮官であります。どうか、我らにご指示を」
磐余彦は差し出された神器を受け取った。兄が託されたものの重みを確かめるように抱き、顔を上げると、日臣も大久米も、竹も浦も、そして椎根津彦も、皆が静かに頷いていた。
磐余彦は布都御魂を抜き放ち、その刃を空へ向けて高々と突き立てた。
「これより、私は東征軍の指揮を執る! まずは熊野へ向かい、軍を立て直す。そして三輪山へ至り、この争いを終わらせる。天孫降臨の大役、必ず成してみせる。皆、私を支えてくれ!」
「承知いたしました!」
一同の声が重なった。磐余彦は掲げた剣を握り締め、兄から受け継いだ軍を率いて進む覚悟を新たにした。
一刻後、磐余彦は隣を歩く双子に、どこか落ち着かない様子で声をかけた。
「なぁ、たけぇ、うらぁ……その、『様』はやめないか? なんだか痒くて……」
「無理です。諦めてください、磐余彦様」
竹が真顔で言い切ると、浦も楽しそうに身を乗り出した。
「駄目ですよー。い・わ・れ・ひ・こ・さ・まぁ」
「うぅ……わざとやってるだろ、浦!」
浦はにこにこと笑うばかりで、竹も呼び方を改める気はないらしい。磐余彦が二人から「様」を付けて呼ばれることに慣れるまでには、まだしばらく時間がかかりそうだった。




