十一話 失意の磐余彦
磐余彦率いる東征軍は、戦死した彦五瀬の遺体を埋葬するため、対岸の地へ上陸した。兵たちは重い足取りで兄の亡骸を運び、静かに墓を築いた。
磐余彦は埋葬を終えると、負傷者の手当てと兵たちの休息を命じたが、その声には、いつものような力がなかった。
すべての指示を出し終えても、磐余彦はその場を離れようとせず、兄が眠る地をじっと眺めていた。これから、どうしたらよいのだろうか。
軍を率いる者として次の目標を定めなければならないことは理解していた。しかし、兄を失った悲しみはあまりにも深く、考えを行動に移すことができずにいた。
東征軍もまた、深刻な苦境に陥っていた。敗戦によって兵たちの士気は落ち込み、さらに総指揮官であった彦五瀬を失ったことで、誰もが今後の行く末に不安を抱いていた。
進むべきか、退くべきか。その判断を下すはずの磐余彦自身が兄の死から立ち直れず、軍を導けないまま、東征軍は進むべき道を見失っていた。
「どうしたものか……」
椎根津彦は腕を組み、深いため息をついた。傍らの日臣も険しい顔で頷く。
「磐余彦様と彦五瀬様は仲が良かっただけに、お辛いのだろうな」
「それは承知しております。ですが、だからといって、方針も定まらぬまま今の状態を続けるわけにはいきません」
大久米は俯いたまま、主を元気づける方法はないものかと真剣に考えていた。
「本来なら、時間をかけてお心を癒やして差し上げたいところです。しかし、今はそのような状況ではございません」
「うむ。いち早く立ち直っていただくしかない」
日臣の言葉に、大久米も静かに頷いた。
「ですが、どうやって……。どうすれば立ち直っていただけるのでしょうか」
誰も答えられず、一同は沈黙した。椎根津彦はしばらく考え込んだ末、懐に目を落とした。
「実は、彦五瀬様が賜った三種の神器は、すでに私がお預かりしております。ですが、今お渡ししたところで、磐余彦様のお心が晴れるわけではございません」
「それだけじゃない。再編成は終わったとはいえ、兵たちの顔を見てみろ。まるで魂が抜けたような奴ばかりだ。問題は磐余彦様お一人のことではないんだよ」
「……何か妙案がないものか」
椎根津彦は再び頭を抱えた。兵を動かす策ならいくらでも考えられる。だが、悲しみに沈んだ人の心を立ち直らせる方法など、兵法書のどこにも記されていなかった。今ばかりは、それが恨めしかった。
一方、磐余彦もまた、ひとり部屋の中で悩み続けていた。兄を失い、東征軍の士気は落ち、今後の方針さえ定まっていない。それなのに、肝心の自分は何をする気力も湧いてこなかった。
情けない。幼いころ、散々「泣き虫皇子」と呼ばれていた自分から、少しも変わっていないのではないか。
沈んだ気持ちを紛らわせようと、磐余彦は海を眺めるために部屋を出た。すると、近習たちが一斉にこちらを見た。その顔には、隠しきれない心配の色が浮かんでいる。
皆、私を心配してくれている。
そう思うほどに申し訳なさが募り、磐余彦はますます顔を上げられなくなってしまった。
那岐と竹、浦は宇佐の空を翔け抜け、ついに磐余彦の船団の上空へとたどり着いた。眼下に広がる甲板の様子を見下ろしながら、竹は鋭く言い放つ。
「手を離してください。先に降りて、言いたいことがあります」
浦も、いたずらっぽく、それでいて覚悟を秘めた声で続いた。
「うん、私もー」
竹は横目で妹を見た。
「浦、わかっているよね。覚悟を決めて」
「もちろん。やるしかないじゃない」
その言葉を聞くと、那岐は静かに腕を離した。
次の瞬間、双子の身体が空へ放り出される。
二人は一直線に落下した。風が唸り、衣が激しくはためき、長い黒髪が空中で大きく踊る。まるで二羽の黒き鳥が、獲物めがけて急降下するかのようだった。
「なっ……!?」
甲板の兵たちが息を呑み、とっさに身を引く。
そして――
――ドンッ!
――ドンッ!
ほとんど同時に、凄まじい衝撃音が甲板を貫いた。
竹は着地の寸前、身体をしなやかにひねり、片脚を深く折り込みながら、もう片方の脚を大きく横へ流す。
さらに片手を力強く甲板へ突き立て、その勢いのすべてを鮮やかに殺した。低い。ほとんど伏せるほど深く沈んだ姿勢でありながら、その背筋は一筋の刃のように美しく伸びている。
舞い上がった長い黒髪、鋭く翻る衣の裾、微動だにしない武具。その姿はまさに、獲物の目前へ舞い降りた猛禽そのものだった。
その隣では、浦もまた片手を甲板につき、片膝を折り、反対の脚を大きく伸ばして着地していた。竹ほど完璧に決まってはいない。
勢い余って横髪が頬にかかり、衣の裾もわずかに乱れている。だが、それすらも躍動感へ変えてしまうほど、彼女の身体は見事に静止していた。
激突の衝撃で、甲板にたまっていた海水が弾け飛ぶ。無数の飛沫が朝日にきらめき、まるで砕けた宝石のように宙を舞った。光の粒に包まれた双子の着地は、あまりにも鮮烈で、あまりにも非現実的で、その場にいた誰もが一瞬、声を失った。
派手すぎるほどの登場だった。だが、今はそれでよかった。
双子は必死に、この一瞬で相手の度肝を抜くための芝居を演じ切ったのである。
「何、下を向いているのよ。しっかりしなさい!」
「待たせたわね! 助けに来てあげたわよー!」
竹と浦の声が響いた。その派手で美しく、力強い姿に、磐余彦たちは一瞬で目を奪われた。失意の中にあっても遠慮なく叱り飛ばしてくれる。頼もしい姉たちが来てくれたのだ。
竹は磐余彦の前まで進むと、その襟を両手で掴み、強引に立たせた。
「あなたは皆の主よ。立ち直りなさい!」
真っ直ぐに睨まれ、磐余彦は何か言おうとしたものの、言葉が出てこなかった。
「ちょっと、竹! 強引すぎるわよ!」
さすがの浦も慌てて姉を止めると、磐余彦に片目を閉じてみせた。
「支えてあげるから、安心して」
その言葉に、磐余彦はようやく笑みを取り戻した。
「ふふ、ありがとう、竹、浦。すごく心強いよ」
二人は何も言わず、力強く頷いた。
那岐は、竹と浦が派手な登場で磐余彦たちを元気づけようとしているのだと察し、自分も芝居に付き合うことにした。
――ドンッ!
再び甲板が大きく震えた。那岐は落下の勢いを殺すように深く身を沈め、片手を甲板へ突く。片脚を大きく前へ伸ばし、もう片方の膝を折って衝撃を受け止めた。巻き起こった風が甲板の水を弾き、細かな飛沫が舞い散る。その中心で、那岐だけが静止していた。
那岐は顔を上げると、すぐに人差し指を唇に当てた。名を呼ばないでほしい、という合図だった。
「私は鴉と申します」
磐余彦たちは、その意図を悟った。伊邪那岐様は、自分たちを勇気づけるために来てくださったのだ。だが、戦に加勢するためではない。だからこそ、鴉と名乗っておられる。
那岐は芝居を続けながら、子供たちの顔を一人ずつ見回した。皆が生きている。それだけで、心の底から安堵した。
根拠など、何一つなかった。それでも、家族同然の七人が再び揃った瞬間、磐余彦たちの胸には活気が戻り、勢いが蘇った。
那岐、竹、浦。天より舞い降りた三人は、それぞれ大地へ両脚と片手、三点での着地を決めた。そしてその中央に立った那岐は、自らを「鴉」と名乗った。
この日、東征軍を救うため天より三点での着地で降り立った姿は「三本足の鴉」として、長い年月の中で一つの伝承へと姿を変えていく。
後の世、人々は東征軍を導いたその存在を――三本の足を持つ神の鴉、八咫烏と呼ぶことになる。




