十話 竹と浦の決意
西暦二百四十八年。東征軍の敗戦と、主将である彦五瀬の戦死は、日巫女が銅鏡を用いて妖術を行使したことで、遠く宇佐にもいち早く伝わっていた。
幸い、東征軍は敗れたものの崩壊には至っておらず、磐余彦の指揮のもとで態勢の立て直しを図っている。しかし、主将を失った軍が苦しい状況に置かれていることに変わりはなかった。
銅鏡に映る東征軍の様子を見つめていた日巫女は、傍らの月読に告げた。
「父上に救援を頼んでください」
「しかし、父上が承諾されるとは考えにくいのですが……。三輪山にも父上の一族がおります。どちらか一方に味方することは望まれないでしょう」
「それでもです。今の状況を救えるのは父上しかいません」
「……たしかに、そうでしょうが」
なおもためらう月読を前に、日巫女は銅鏡へと目を戻した。その表情には、深い後悔がにじんでいた。
「彦五瀬には、かわいそうなことをしました……。私があの子を三輪山の主にしようと願ったばかりに、命まで失わせてしまうなんて……」
日巫女はしばらく言葉を失ったが、やがて顔を上げた。
「でも、磐余彦はまだ間に合うかもしれません。あの子まで失うわけにはいかないのです」
月読は姉の顔を見つめ、静かに息をついた。
「……わかりました。話すだけ話してみます」
「頼みます」
日巫女は、父である那岐に東征軍の救援を求めるよう、月読に命じた。
しばらくして月読に呼ばれた那岐は、竹と浦を連れてそのもとを訪れた。月読から東征軍の敗北と彦五瀬の戦死、そして磐余彦が窮地に陥っていることを聞かされ、救援を求められると、那岐はあからさまに嫌な顔をした。
「わかっているのかい? 三輪山にあるのは私の孫が築いた国で、今の主は私のひ孫なんだよ。そこを攻める手助けを、私にしろと?」
「されど磐余彦は、父上が大切に育てた者ではありませんか。お見捨てになられるのですか?」
那岐は答えられなかった。どちらも大切な子孫だった。だからこそ、決断できなかった。いや、決断するわけにはいかなかった。
「たしかに狭野は、私が大切に育てた子だよ。でも、三輪山の宇摩志麻遅も、私のかわいいひ孫なんだ。どちらか一方にだけ手を貸すことはできない。それに、私はそもそも今回の戦に反対だった。なぜ外交交渉から始めなかったのか。いきなり攻め込むようなやり方には、どうしても賛同できないんだ」
那岐の言葉に、さすがの月読も沈黙するしかなかった。すると竹が一歩進み出て、那岐に深く頭を下げた。
「那岐様、お願いがあります。どうか磐余彦をお見捨てにならないでください」
「私からもお願い!」
浦も姉に続いて頭を下げる。
「今すぐ助けに行かなければ、磐余彦たちは命を落としてしまうかもしれません。どうか、考え直してください!」
那岐とて、今すぐ助けに駆けつけたい気持ちは同じだった。しかし、そのために三輪山の者たちを傷つけてよいわけではない。
二人の願いを聞いていた月読は、しばし考えた末、静かに口を開いた。
「父上、私からもお願いいたします。ですが、大倭壱国だけに手を貸す必要はございません。父上ならば、三輪山の者たちとも話ができるはずです。今からでも和平の場を設け、双方の仲裁をしていただけませんか。それならば、父上のお望みにもかなうのではありませんか」
那岐は、息子のしたたかな政治的手腕に困ったような顔をした。だが、和平の仲裁という提案には心が揺れた。交渉が容易でないことは分かっている。それでも、双方がこれ以上傷つけ合わずに済む道があるのなら、試してみる価値はあった。
思案する那岐を前に、竹と浦はなおも必死な表情で頭を下げた。
「一生のお願いです。どうか磐余彦をお助けください」
「私も一生のお願いです。磐余彦も、みんなも、どうか助けてください!」
那岐は静かに目を閉じ、ひと息ついてから口を開いた。
「そこまで言うのなら、引き受けましょう。ただし、和平交渉の場を作るためです。どちらか一方につくことはありません。それでよいですか?」
「ありがとうございます!」
竹と浦は声を揃えて頭を下げた。だが、那岐の話はそれで終わらなかった。
「ただし、竹、浦。あなた達は主人である私よりも狭野を優先させました。護衛としては失格です。ですから、私の護衛の任を解きます」
二人は息を飲んだ。無理な願いを聞き入れてもらった以上、覚悟はしていた。それでも、長年務めてきた那岐の護衛を解かれるとなると、胸が締めつけられた。
「代わって、あなた達に命じます。これからは狭野……いえ、磐余彦を呼び捨てにしてはいけません。必ず主人として敬称をつけなさい」
「それって……」
「……まさか!」
顔を上げた二人に、那岐は穏やかに微笑んだ。
「今後、あなた達の主人は磐余彦とします。よく仕え、護衛し、身をもって守りなさい。これは一生の任務です。よいですね?」
「承知いたしました!」
竹と浦は揃って深く頭を下げた。次の瞬間には互いの顔を見つめ、手を握り合って喜びを噛みしめていた。
「よろしい。では、二人とも下で待機していなさい。私はもう少し月読と話してから向かいます」
二人は改めて深々と礼をし、部屋を退出した。しばらくすると、階下から抑えきれなくなった二人の歓声が聞こえてきた。
「あの子たちに料理や洗濯、裁縫まで、家事を一通り教えるのは手を焼いたよ。でも、今ではちゃんと立派な娘に育ってくれた」
「そのようですな」
那岐と月読は顔を見合わせ、苦笑した。
「それと父上、こちらの剣を磐余彦にお渡しください」
「これは?」
「布都御魂です。かつて建御雷が振るい、出雲を平定した剣にございます」
「噂には聞いていたけれど……そう、これが……」
那岐が鞘から剣を抜くと、刀身から赤い妖気が立ち昇った。建御雷はこの剣を手に、出雲の戦場を駆け抜けたのだろう。那岐はしばらく刃を見つめ、静かに口を開いた。
「建御雷も、先の大乱で親を失った子の一人だったんだ」
「父上が投馬国で戦災孤児を引き取り、荒れ果てた村を立て直していたとは聞いております。建御雷も、あの村にいたのですか」
「うん。けれど、あの子は農作業よりも武芸を好んだ。出雲への復讐心を捨てられず、とうとう私のもとを去ってしまったんだ。結局、止めてあげられなかった……」
那岐は布都御魂を見下ろした。かつて復讐のために振るわれたこの剣を、今度は磐余彦に託すことになる。
この剣で、繰り返される悲劇を止められるのだろうか。
那岐は答えの出ない問いを胸に、ゆっくりと剣を鞘へ収めた。
下へ降りた那岐は、待っていた双子のもとへ歩み寄った。
「では、向かいましょう」
「はい。でも、船の手配をしなくては……」
竹がそう言うと、那岐は穏やかに首を振った。
「必要ありません。二人とも、私にしがみついて」
「え? どうして?」
「いいから、早く。急ぐのでしょう?」
不思議そうに顔を見合わせながらも、竹と浦は那岐の両側からしがみついた。那岐は二人の身体をしっかりと抱え、微笑んだ。
「手を離さないようにね」
次の瞬間、三人の足がふわりと地面を離れた。双子が驚きの声を上げる間にも、那岐は二人を抱えたまま空高く舞い上がり、東へ向かって飛び始めた。眼下の家々はみるみる小さくなり、山も川も風景の一部となって後方へ流れていく。
「す、すごーい! 那岐様って、こんなことまでできたのね!」
「船よりずっと早いわ……」
興奮する浦とは対照的に、竹は眼下の景色を見つめて呆然としていた。そんな二人に、那岐は少し困ったように笑った。
「今回は特別だからね。妖術は基本的に封印しているんだから」
「ありがとうございます、那岐様」
「でも、こんなに便利なのに、どうして封じておられるのですか?」
浦の問いに、那岐はしばらく考えてから答えた。
「妖術は、人を不幸にすることが多かったからだよ。それに、人間にはふさわしくない技だ。むやみに使うものではないんだ」
「……わかる気がします。使い手や用途によって、同じ技でもまったく違うものになりますから」
竹が神妙に頷くと、浦は那岐にしがみつく腕に力を込めた。
「でも、今はいいじゃない! みんなのところへ、こんなに早く行けるんだもん!」
「そうだね。狭野たちは、きっと苦境にあるだろうから。早く行って、叱ってやりなさい」
「どうせ日臣は、しょぼくれているんだわ」
「まったく、やっぱり私たちがいないと駄目なのよ!」
双子の頼もしい言葉に、那岐は小さく笑った。
三人は風を切り、東の空をひたすら進んでいった。向かう先には、なお多くの問題が待ち受けている。それでも、今なら最悪の事態を避けられるかもしれない。その願いを胸に、那岐は二人を抱く腕に力を込め、さらに飛ぶ速度を上げた。




