九話 彦五瀬の喪失
東征軍は白肩津を離れ、南へと撤退した。散り散りになった船団が再集結すると、磐余彦の乗る船が先頭に立ち、後続の船を導いていった。敵の追撃がないことを確かめた磐余彦は、付近の陸地に上陸し、兄の彦五瀬をはじめとする負傷兵の手当てを行うことにした。
彦五瀬の腕には、敵の矢が深々と突き刺さっていた。厄介なことに、その鏃は大倭壱国で用いられているものとは形が異なり、抜けにくいよう返しがついていた。無理に引き抜けば、周囲の肉まで裂いて傷を広げてしまう。
戦場では、彦五瀬は矢を強引に抜いてでも指揮を続けようとしていたが、近習たちに押しとどめられ、ようやく撤退に応じていた。ほかにも手当てを必要とする兵は多く、東征軍はすぐに出航できる状態ではなかった。
「くそ……この程度の傷で情けない」
腕を押さえながら吐き捨てる兄に、磐余彦は心配そうに顔を寄せた。
「兄上、その傷は深いです。決して無理をしないでください」
彦五瀬は唇を噛み、弟から目をそらした。
東征を命じられたとき、彦五瀬は最短で目的を達成してみせるつもりだった。これほどの大軍を率いた経験はなかったものの、多少の敵が立ちはだかったところで、兵力をもって押し潰せると考えていたのだ。
だが、現実はどうだ。敵の備えも地の利も十分に見極めないまま上陸を強行し、自らは深手を負い、多くの兵を危険にさらした。慢心だったと言われても、言い返すことなどできなかった。
何より、磐余彦が撤退を支えてくれなければ、東征軍そのものが壊滅していたかもしれない。弟の働きを誇らしく思う一方で、その弟に軍の命運を託さざるを得なかった己の不甲斐なさが、彦五瀬の胸を深くえぐっていた。
「磐余彦、助かったぞ。よくあの局面で全軍を撤退させてくれた。おかげで被害も最小限に留まった」
彦五瀬の労いに、磐余彦は静かに首を振った。
「兄上が短期間で兵を鍛え、まとめ上げてくださったおかげです。混乱も少なく、脱走兵もほとんど出ていません」
それは半分本当で、半分は嘘だった。宗像をはじめ、各地で募った新兵を短期間で統率できたのは、間違いなく彦五瀬の練兵の成果である。だが、今回の撤退は船団での移動だった。兵たちは逃げようにも、船を奪わなければ逃げられない。その事情もまた、軍の統制を保つうえで有利に働いていた。
「とにかく、兄上は傷の手当てに専念してください。私も近習を連れて兄上の船に乗り、共に参ります」
「うむ。して、当面はどこへ向かうのだ?」
「まずは南を目指します。一度、長髄彦の捕捉を逃れ、軍を再編したうえで改めて軍議を開きましょう」
「分かった。任せるぞ、磐余彦」
「はい、兄上」
磐余彦と近習たちは彦五瀬の船に移り、兄に代わって東征軍の指揮を執った。船団は再び出航し、敵の目を完全に逃れるため、南へと進路を取った。
「彦五瀬様は奥でお休みになられました」
日臣の報告に、磐余彦は小さく頷いた。
「そうか……」
「磐余彦様、これからの方針を決めねばなりません。ただ南へ向かうだけでは、いずれ行き詰まります」
椎根津彦が進言すると、磐余彦は苦しげに目を伏せた。
「わかっている。けれど、私は兄上が回復されるまでの代理にすぎない。今後の方針まで、私が勝手に決めるわけにはいかないよ……」
大久米は何も言わず、苦悩する主を心配そうに見つめていた。
「続きの話は、安全な海域まで離れ、彦五瀬様の回復を待ってからでもよいのではないか?」
日臣の言葉に、椎根津彦は口を閉ざした。本心では、この機会に磐余彦に指揮権を掌握してもらい、戦略そのものを立て直したかったのである。しかし、主の胸中を思えば、これ以上の進言はできなかった。
「……承知いたしました」
彦五瀬の傷口は化膿し、高熱が続いていた。日を追うごとに腫れは広がり、やがて傷の周囲からは異臭さえ漂い始めた。磐余彦たちは懸命に看病を続けたが、その甲斐もなく、彦五瀬は日に日に衰弱していった。
「磐余彦……」
かすれた声に呼ばれ、磐余彦は兄の傍らへ膝をついた。
「はい、兄上」
「どうやら、俺はここまでのようだ」
「まだ早いです。諦めてはいけません。もう少し先へ行けば、大きな村や集落もありましょう。そこで一旦、治療に専念されるのです」
彦五瀬は小さく首を振った。額には脂汗が浮かび、息をすることさえ苦しそうだった。
「無理だ。もう傷口から肉が腐り始めている。俺には分かる。そう長くはない」
「兄上……」
「よいか。これからは、お前が東征軍の指揮を執れ」
磐余彦は思わず兄の手を握りしめた。
「私は代理の指揮官です。兄上あってこその東征軍なのです」
「そんなことはない。お前の指揮を見てきたが、見事なものだった。お前なら、きっと……」
「待ってください、兄上!」
磐余彦は兄の言葉を遮った。握った手から、以前のような力強さが失われていることが、たまらなく恐ろしかった。
「三輪山へ向かい、天孫降臨をされるのでしょう? そこで嫁を貰うのではなかったのですか! こんなところで諦めないでください、兄上!」
彦五瀬は弟の顔を見つめ、かすかに笑った。
「すまない……。後を……頼む……」
「兄上? 兄上!」
呼びかけに答えることなく、彦五瀬は静かに目を閉じた。そのまま意識を失い、数刻後、息を引き取った。
磐余彦は兄の手を握ったまま、動くことができなかった。何度呼びかけても返事はなく、見慣れた兄の顔が、もう二度と笑いかけてくれることはない。
兄の亡骸を見つめる磐余彦の胸を、深い絶望が満たしていた。




