八話 長髄彦の脅威
東征軍の船団は、浪速国の白肩津へと到着した。先行していた彦五瀬の船団から次々と兵が上陸し、浜辺に隊列を整えていく。磐余彦の船団はその後方で帆を下ろし、兄の部隊が上陸を終えるまで海上で待機していた。
彦五瀬は自らも浜へ降りると、兵を左右に展開させ、周囲の警戒を命じた。白肩津は海と山に挟まれた狭い平野であり、浜辺の先には木々の生い茂る山々が連なっている。兵たちは林の縁に目を凝らしながら、後続の上陸を待っていた。
だが、全軍が陸に上がることはなかった。
突如として、木々の奥からおびただしい数の矢が飛来したのである。警戒に当たっていた兵が声を上げる間もなく、浜辺にいた兵たちが次々と射抜かれた。矢の飛んできた方角を見ても、鬱蒼とした林に阻まれて敵の姿は見えない。兵たちは盾を構えることさえできず、たちまち混乱に陥った。
山の中に陣取っていたのは、長髄彦が率いる登美の軍であった。長髄彦は木々の間から浜辺を見下ろし、上陸したばかりの東征軍を見据えていた。
「物見の知らせだけでは半信半疑であったが、本当に我らの懐へやってくるとはな。大倭壱国の小童どもめ、戦も知らんとみえる。儂が戦というものを教えてやろう」
長髄彦が片手を振り下ろすと、林の各所に潜んでいた兵たちが一斉に矢を放った。途切れることのない矢の雨が浜辺に降り注ぎ、東征軍の隊列を崩していく。
「狼狽えるな! 態勢を立て直せ! 盾をかざすのだ!」
彦五瀬は怒鳴りながら兵の間を駆け、必死に指揮を執った。兵たちはその声に応じて盾を並べたが、敵の攻撃は弱まらなかった。盾を持ち上げた瞬間に足を射抜かれる者がいれば、盾そのものを貫かれて倒れる者もいた。
「盾を抜かれたぞ!」
「何だ、あの矢は!」
兵たちの間に恐怖が広がった。山の中には敵の姿さえ見えず、どこへ向かって反撃すればよいのかもわからない。それでも彦五瀬は浜辺に踏みとどまり、後続の兵が上陸できるよう、崩れかけた隊列を支え続けた。
そのとき、林の奥から放たれた一本の矢が彦五瀬の腕に突き刺さった。
「ぐっ……!」
彦五瀬は衝撃に体勢を崩し、片膝をついた。すぐに立ち上がろうとしたものの、腕を動かすたびに激痛が走る。歯を食いしばって矢を引き抜こうとすると、鏃に設けられた返しが肉に食い込み、さらに傷口を広げた。
「兄上!」
側近たちが駆け寄ると、彦五瀬は負傷した腕を押さえたまま、なおも兵に向かって声を張り上げた。
「私に構うな! 盾を並べろ! 浜を守り抜くのだ!」
「なりませぬ! これ以上ここにいては、御身が危のうございます!」
「まだ兵が残っている! 私が退けば、誰が指揮を執るのだ!」
彦五瀬は側近の手を振りほどこうとしたが、その間にも周囲では兵が矢に倒れていった。側近たちは互いに顔を見合わせると、ついに彦五瀬の身体を両側から抱え上げ、抵抗する主君を強引に船へと運び始めた。
「放せ! まだ退くわけにはいかぬ!」
彦五瀬の声は矢の飛び交う浜辺に響いたが、側近たちは足を止めなかった。
やがて彦五瀬が船へ戻されたことが兵たちに伝わると、かろうじて保たれていた隊列は一気に崩れた。指揮を執る者を失った東征軍は、敵の姿も見えない山からの攻撃に耐えきれず、盾をかざしたまま浜辺へと後退していった。
その様子を見た磐余彦は、船縁を握りしめた。
「兄上が危ない! 直ちに上陸して、兄上を支援する!」
「いけません。今すぐ沖へ出て、速やかに撤退するべきです」
椎根津彦が即座に制止した。日臣も岸の惨状を見据え、険しい表情で口を開く。
「今から向かっても、あの混乱の中だ。厳しいです」
「引きましょう、磐余彦様」
椎根津彦の進言に、磐余彦は振り向いた。
「椎根津彦。万が一の対策とは、このことか? 兄上を見捨てろと?」
「私の主は、磐余彦様ただお一人です。必要とあらば……」
「駄目だ」
磐余彦は静かに、しかし断固として首を横に振った。
「椎根津彦、すまないが、その策は受け入れられない。少しの間だけでよい。兄上が無事に撤退できるまで、踏みとどまれる策を出してくれ」
椎根津彦の額を汗が伝った。
敵の矢が降り注ぐ前線へ向かい、兄の軍を救い出し、さらに殿となって撤退を援護する。そんなことが可能なのか。上陸した途端に敵の勢いに呑まれ、味方もろとも敗走する可能性の方が、はるかに高かった。
だが、磐余彦は兄を見捨てないと決めている。
どうする。どうすれば、この命令を果たせる。
椎根津彦が必死に思案していると、大久米がその前へ進み出た。盾と槍を手に、何も言わずに椎根津彦を見つめる。その眼差しは、ただ前線へ向かえと命じてくれ、と告げているようだった。
椎根津彦は息を呑み、覚悟を決めた。
「申し訳ありません。大した策ではございませんが、やってみます」
「……すまない。頼む」
椎根津彦は大きく息を吸い、兵たちに向かって声を張り上げた。
「全兵士に告ぐ! 必ず盾を持て! 敵の矢は強力だ。盾を捨てることは許さぬ!」
続いて、大久米へ顔を向ける。
「大久米! 盾と槍を持って前線に立ち、味方の撤退が完了するまで、何としても敵を食い止めなさい!」
大久米は力強く頷くと、ひとり先行して岸へ向かった。
「日臣! 兵を率いて速やかに上陸し、盾を並べて壁を作りなさい! 兵を一塊にまとめ、決して隊列を崩させぬよう!」
日臣はごくりと唾を呑んだ。降り注ぐ矢の中へ飛び込み、崩れかけた味方を守る盾の壁を築く。あまりにも厳しい命令だった。
やれるのか。
いや、違う。やるしかない!
日臣は槍を高く掲げ、兵たちに向かって吠えた。
「者ども! 俺に続けぇぇぇ!」
日臣も兵を率いて上陸し、磐余彦はその傍らに立った。迫り来る敵を見据えながら、日臣が声を低くする。
「磐余彦様、どうか船にお戻りください」
「今回は、せめてここにいさせてくれ。私も戦う」
磐余彦が譲らないと知ると、日臣はすぐさま大久米に向き直った。
「大久米! 一旦こっちに戻れ! 防御陣形を構築するのが先だ!」
大久米は敵に正面を向けたまま、ゆっくりと後退し、日臣の部隊に合流した。兵たちは急いで盾を並べ、迫る敵を迎え撃つ態勢を整える。
その動きを見た長髄彦は、全軍に追撃を命じた。
「小癪な。その程度で防げると思っているのか。前進だ! 大倭壱国の連中を叩き返せ!」
号令とともに敵軍が押し寄せ、磐余彦たちの前面に次々と姿を現した。
「来たよ」
「まじか……予想以上に敵が多いじゃねーか」
日臣の額を汗が伝った。だが、怯む暇などない。敵の先陣が目前に迫り、両軍の盾が激しい音を立ててぶつかり合った。
「盾の構えを崩すな! 槍を突き立てろ!」
日臣は自ら前線で敵と激突しながら、大声を張り上げて兵を鼓舞した。盾越しに槍が突き出され、互いの前列を押し返そうとする怒号が飛び交う。両軍の槍の応酬は、瞬く間に激しさを増していった。
「じれったい! あの程度の兵を崩せないのか!」
長髄彦は苛立たしげに槍を握り、最前線へと踏み込んだ。日臣が必死に築き上げた盾の壁に僅かな隙を見つけると、そこへ槍をねじ込み、力任せにこじ開ける。盾を構えていた兵が数名、凄まじい勢いで吹き飛ばされた。
「どうだ、大倭壱国の小童共!」
「くそったれ!」
日臣が悪態をつく。その傍らで、磐余彦は崩れた陣形を見て駆け出した。
「防がなきゃ!」
「その身なり、この軍の将のようだな。よかろう、相手をしてやるわい!」
長髄彦の槍が唸りを上げた。磐余彦は剣で受け止めたものの、たった一撃で腕が痺れ、姿勢を崩されてしまう。技を競う以前に、あまりにも一撃が重い。目の前の老人が振るう槍の威力に、磐余彦は息を呑んだ。
「磐余彦様、お下がりを!」
日臣が叫ぶ。しかし、彼も眼前の敵を食い止めるので精一杯で、援護に向かうことができない。
「なんだ、その程度か。ならば覚悟!」
長髄彦が再び槍を繰り出した、その瞬間だった。磐余彦の前に大きな盾が割って入り、穂先を受け止める。大久米である。
大久米は間髪入れずに槍を突き出し、長髄彦を後退させると、盾を掲げたまま猛然と突進した。その凄まじい勢いには、さしもの長髄彦も踏みとどまれず、後方へ吹き飛ばされた。
大久米が敵将を押し返したことで兵たちは態勢を立て直し、こじ開けられた盾の壁は再び閉じられた。
長髄彦はすぐさま体勢を立て直すと、大久米を鋭く睨みつけ、再び狙いを定めた。しかし、側近たちから最前線を離れるよう諭されると、怒りをあらわにしながらも後方へ下がり、後続の兵を投入するよう命じた。
敵の攻勢は衰えるどころか、さらに激しさを増そうとしていた。盾を構えて踏みとどまる磐余彦たちも、もはや長くはもたないと感じていた。
そのとき、沖合に停泊していた船団から一斉に矢が放たれ、長髄彦の部隊へと降り注いだ。思いがけない攻撃に敵兵たちが身を伏せ、前進の足が止まる。
「ええい、小賢しい!」
長髄彦が忌々しげに叫ぶ。その矢を放ったのは、椎根津彦が指揮する船団だった。
「主力部隊も彦五瀬様も、無事に撤退されました! 磐余彦様も、早く船へ!」
船上から届いた声に、磐余彦は安堵しながらも気を緩めず、傍らの日臣へ振り向いた。
「わかった。日臣、頼む!」
日臣は力強く頷くと、兵たちに向かって声を張り上げた。
「撤退だ! 盾を下げるなよ! そのまま陣形を崩さず、ゆっくり引くぞ!」
兵たちは互いの盾で身を守りながら、一歩ずつ海岸へと後退した。日臣の的確な指揮と船団からの援護によって、磐余彦たちは敵に背を見せて逃げ惑うことなく、無事に船へ乗り込むことができた。
やがて船団が岸を離れると、長髄彦は追撃を諦めざるを得なかった。遠ざかっていく船影を睨みつけるその眼には、なお激しい闘志が燃えていた。




