七話 白肩津上陸
西暦二百四十八年、初夏。
宇佐の地に滞在する那岐は、東へ向かった磐余彦たちのことを案じていた。船旅は無事に進んでいるだろうか。慣れない遠征で、誰かが体を壊してはいないだろうか。考え始めれば心配は尽きなかったが、今の那岐には、もうひとつ気に掛かることがあった。
宇佐で広まりつつある、女王日巫女についての噂である。
長く人前に姿を現さない女王に対し、病に伏せているのではないか、すでに神通力を失ったのではないかと、人々は好き勝手に囁いていた。中には、女王の存在そのものを疑う者までいるという。
娘のために何かできないだろうか。そう考えた那岐は、月読に相談を持ち掛けることにした。
「噂の件は私も把握していますが、人の噂を取り締まるのは現実的ではありませんからな」
月読は困ったように眉を寄せた。噂を広めた者を片端から捕らえたところで、人々の疑念まで消せるわけではない。むしろ、女王が何かを隠しているのではないかと、余計な憶測を招くおそれがあった。
「原因は、やはり姫の神秘性を疑いだしていることかな?」
「根っこはそこでしょう。姉上が姿を見せなくなって久しいですからな。今では、存在を疑っている者すらおります」
「神秘性か……」
那岐はしばらく考え込んだ後、ふと顔を上げた。
「儀式でもしたらいいかな。月読、舞えるよね?」
「何を言い出すかと思えば……舞えません」
月読は即座に否定した。その反応を聞きつけ、那岐の護衛として大人しく控えていた竹と浦が、揃って身を乗り出した。
「ひいおじい様も舞うのですか?」
「私、見てみたいです!」
「舞いませんよ。まったく……消し去った遠い昔の悪夢を蒸し返さないでいただきたい」
月読は露骨に嫌な顔をした。若い頃の苦い記憶が蘇ったらしく、普段は冷静なその顔に、何とも言えない苦々しさが浮かんでいる。
「あはは、悪い悪い」
那岐が笑って謝ると、月読はひとつため息をつき、話を本題に戻した。
「今は東征軍の勝利を願う祈祷などが、こまめに行われておりますが」
「そっちはしないよ」
那岐は穏やかな口調ながら、そこだけははっきりと答えた。東へ向かった者たちの無事は願っている。しかし、勝利を祈ることは、東で彼らを迎え撃つ者たちの敗北を願うことでもあった。
月読も父の考えを理解しているのだろう。それ以上は勧めず、別の案を口にした。
「では、無事の航海と健康を祈っての奉納舞ではいかがでしょう?」
「無事の航海と健康か……。それなら、やってもいいかな」
那岐の表情が明るくなった。
「磐余彦たちだけでなく、姫のためにもなるしね。今回は本気でやってみようかな」
「姉上のことになると、父上はいつも甘くなりますな」
月読は呆れたように言いながらも、どこか嬉しそうだった。
「私も、久しぶりに父上の舞が観られそうで楽しみです」
「今回は儀式というより、少しばかり神秘性を表に出して、派手にいこうと思うんだ」
「これで姉上の権威も回復したらよいのですが……」
月読が頷くと、那岐は何でもないことのように付け加えた。
「それじゃあ月読、姫と偽って舞ってもいいか、訊いておいてね」
「……はい?」
月読は思わず聞き返した。
那岐たちが去った後、月読は三階にある日巫女の私室へ向かった。部屋に入ると、そこには久しぶりに見るほど上機嫌な姉の姿があった。何も聞いていないという顔をしているが、先ほどの話を盗み聞きしていたことは、その表情から明らかだった。
「姉上、実は折り入ってご相談がありまして」
「なんでしょう」
「父上が、姉上の権威を回復するため、姉上に成りすまして巫女舞を披露したいと仰せです」
「それは……ずいぶん急なお話ですね。儀式の準備は大丈夫なのですか?」
日巫女は平静を装っていたが、声には普段にない弾みがあった。月読は内心で、白々しいことを、と呆れながらも、何事もなかったように答えた。
「これから手配いたします。日取りが決まり次第、民にも告知いたしましょう」
「それなら、儀式はこの部屋から見える場所で行いなさい。問題がないか、私も直に見届けさせていただきます。それが条件なら、許可いたしましょう」
もっともらしい理由を並べているが、父の巫女舞を間近で見たいだけなのだろう。姉の本音を見抜いた月読は、それ以上追及することなく、静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
数日後、月読が手配した巫女舞の奉納が執り行われることになった。東へ向かった者たちの無事と健やかな帰還を祈り、今宵に限り、女王日巫女が自ら舞を奉納するという。その知らせは瞬く間に宇佐中へ広まり、儀式を一目見ようとする人々が続々と集まっていた。
儀式を控えた宮の一室では、那岐が鏡に向かい、娘の日巫女に似せた化粧を施していた。白粉で肌を整え、目元や唇に彩りを添えると、もともとよく似た父娘の面差しは、いっそう見分けがつかなくなっていく。仕上げを終えた那岐は月読の方へ振り返り、少しばかり首を傾げた。
「月読、どう? 姫に見えるかな?」
「はい。とてもよく似ております。弟の私ですら、判別しにくいほどに」
月読の答えに、那岐は満足そうに微笑んだ。
「よし、これでいくよ。姫のためにね」
「父上は本当に姉上がお好きですね」
「当たり前じゃないか。姫は私の宝だよ」
何のためらいもなくそう答える父を見て、月読は思わず表情を和らげた。幼い頃、姉と弟たちが父のそばで暮らしていた日々が、ふと胸によみがえる。あれから長い年月が流れ、自分たちはそれぞれの務めを背負う身となった。それでも、娘のために嬉しそうに支度を整える父の姿だけは、昔と少しも変わっていなかった。
儀式が始まったのは、日が暮れてからのことだった。
夜の帳が下りた宇佐の祭壇に、白粉を施し、美しい装身具で飾り立てられた巫女が姿を現した。女王日巫女に扮した伊邪那岐である。華やかな巫女装束をまとったその姿は、観衆が思わず歓声を上げるほど美しく、ただそこに立つだけで人々を圧倒する神秘性を帯びていた。
その両脇には、同じく巫女装束に身を包んだ竹と浦が静かに控えている。
しゃらーん。
澄んだ木鈴の音色が夜気に響き渡り、奉納の儀式が始まった。伊邪那岐の身体から淡い光がこぼれ、祭壇の周囲を少しずつ照らしていく。やがて、鈴の音に合わせてゆるやかに袖を広げると、光をまとったその身が静かに舞い始めた。
しゃらーん。
優雅に足を運び、袖を翻すうちに、伊邪那岐の身体が少しずつ宙へ浮かび上がっていく。祭壇から足が離れた瞬間、観衆の間に驚きのどよめきが広がった。人々は息をのみ、夜空へ昇っていく女王の姿を見つめた。
しゃらーん。
木鈴が鳴るたび、伊邪那岐の周囲に新たな光が生まれた。無数の光が夜空を漂い、その中心で巫女の舞が続いていく。ゆるやかに旋回する身体、風をはらんで大きく広がる袖、指先にまで神経の行き届いた所作。その舞は華麗でありながら艶やかで、空中に描かれる一つひとつの動きが、光の軌跡となって闇に浮かび上がった。
やがて舞が終わりに近づくと、伊邪那岐は空中で静かに両手を掲げた。
その瞬間、頭上の夜空に巨大な光の塊が生まれた。まばゆい輝きは一瞬にして大きく膨らみ、次いで無数の光へと分かれていく。散り広がった光は流星のように尾を引きながら降り注ぎ、宇佐の夜空を埋め尽くした。
観衆が声もなく見上げるなか、幾千もの光はゆっくりと輝きを弱め、やがて夜の闇へ溶けるように消えていった。
そして、観衆が夜空を仰ぎ、流星のように降り注ぐ光に目を奪われている間に、那岐は忽然と姿を消した。祭壇に控えていた竹と浦も、いつの間にか姿を消していた。こうして巫女舞は幕を閉じ、宇佐の人々は、この夜、自分たちの女王が神秘の力を持つ存在であると、その目で確信したのである。
後に『魏志倭人伝』には、卑弥呼が鬼道を用いて人々を惑わしたと記される。この夜の出来事は、海を越えて大陸にも伝わり、歴史書に残る女王の姿にも影響を与えることとなった。
彦五瀬と磐余彦が率いる東征軍は、浪速国の白肩津へ向かっていた。後世、現在の大阪府東大阪市日下町付近と伝えられる地である。
彦五瀬の乗る船を先頭に船団は進み、磐余彦たちの船がそのすぐ後ろに続いていた。しかし、白肩津への接近を前にして、椎根津彦の表情は晴れなかった。磐余彦を通じて彦五瀬に進言したものの、上陸地を変更すべきだという献策は退けられていたのである。
「なんだ、まだ心配しているのかよ。ずっと眉間に皺が寄っているぞ」
日臣が声をかけると、椎根津彦は船の進む先を見据えたまま答えた。
「白肩津は登美の領地に近すぎます。危険が大きすぎるのです」
「兄上は、最短で三輪山の纒向の宮に向かいたいのだ」
磐余彦がそう説明しても、椎根津彦は納得しなかった。
「第一、こちらの使者がまだ戻ってきていないではありませんか。ここは一旦距離を取り、情報を集めてから陸路で迫るのが順当です」
「だがよ、もう却下されているんだから仕方ないだろ。それに長い航海で兵も疲れている。これ以上、陸路を長くしたら士気に響きかねないぞ」
日臣の言い分にも一理はあったが、椎根津彦の懸念は消えなかった。
「磐余彦様、やはりもう一度、先行する彦五瀬様の船へ向かい、進言申し上げるべきです」
「気持ちはわかるよ。私もそうしたいけれど、もう兄上が意見を変えることはないと思う。それよりも、何かが起きたときの対策を考えておいた方がいい」
磐余彦の答えを聞き、椎根津彦は口をつぐんだ。
その傍らで、大久米は黙って前方の陸地を見つめていた。椎根津彦のように理屈で危険を説明することはできなかったが、肌にまとわりつくような違和感がある。何かがおかしい。その感覚だけは、どうしても拭えなかった。
やがて、東征軍の船団は浪速国の白肩津に到着した。




