六話 長髄彦と大物主
登美の館。
邇芸速日が亡くなって以来、長髄彦は各地に社を建立することに心血を注いでいた。主君が成し遂げた偉業を後世に残したい。その一心で邇芸速日を神格化し、大物主という贈名を奉って祀ったのである。
かつては武人として兵の鍛錬や軍備の充実に励んでいた長髄彦だったが、今では軍議に顔を出すことも少なくなり、日々、大物主の社へ参拝しては亡き主君に祈りを捧げていた。その姿は、偉大な主君を敬う忠臣というよりも、失ったものを取り戻そうと神にすがる老人のようであった。
兄の安日彦も、邇芸速日の跡を継いだ宇摩志麻遅も、長髄彦の変わりようを案じて幾度となく声をかけた。しかし、もともと頑固な長髄彦は二人の言葉に耳を貸そうとせず、次第に気力を失い、病に伏せる日も増えていった。
長髄彦にとって、邇芸速日のもとで過ごした日々は、人生のすべてといっても過言ではなかった。幾多の戦場を駆け抜け、ともに国を築き上げた歳月は、あまりにも輝かしかったのである。だが、その栄光を分かち合った主君はもういない。どれほど社を建て、祈りを捧げようとも、胸に空いた穴が埋まることはなかった。
やがて長髄彦は、生きる意義さえ見失うようになっていた。寝台に横たわり、天井を見つめるばかりの日々のなかで、胸に浮かぶのは亡き主君の面影ばかりだった。
――いっそ、このまま邇芸速日様のもとへ参りたい。
長髄彦は、いつしかそう願うようになっていた。
その日は、突然やってきた。大倭壱国が大軍を率いて吉備にまで迫り、その矛先を三輪山へ向けているという報せが登美の館に届いたのである。しかも、纏向の宮へ向かっていた大倭壱国の使者を、長髄彦の配下が館へ連行してきたという。
「長髄彦様、お知らせがございます」
寝所の外から家臣の声がしたが、長髄彦は掛け布を胸元まで引き上げたまま、顔を向けようともしなかった。
「……なんだ」
「纏向の宮へ向かう使者を見つけましたので、念のため、こちらへ連れてまいりました」
「そうか。用件を聞いておけ」
それだけ答えると、長髄彦は再び目を閉じた。邇芸速日を失って以来、軍務にも政にも心が向かず、使者がどこから来ようと、何を訴えようと、もはや関心を抱けなくなっていたのである。
「それが……使者は大倭壱国から参った者にございます。出雲のときと同じく、国譲りを迫るつもりではないかと、家臣たちの間でも懸念が広がっております」
「……大倭壱国だと?」
閉じていた長髄彦の目が、わずかに開いた。
「はっ。すでに大倭壱国の船団が吉備にまで迫っているとの報せも届いております。かなりの兵を乗せているようで、このまま東へ進めば、我らの領内に入るのも時間の問題かと」
その言葉を聞いた瞬間、長髄彦の胸の奥で、消えかけていた炎が一気に燃え上がった。邇芸速日が亡くなって、まだ間もないというのに、大倭壱国は軍勢を率いて東へ進んできたのである。あの方が築き、自分たちが人生の大半を費やして守り抜いてきた国を、今度は奪おうというのか。
「吉備だと!? 吉備冠者は、大倭壱国の軍勢を通したのか!」
突然の怒声に、家臣は肩を震わせた。
「お、表向きは中立を保っているようにございますが、以前から大倭壱国と裏で繋がっていたのではないかとの噂も……」
「あの曲者めが……!」
長髄彦は歯を食いしばり、寝台の上で拳を握り締めた。邇芸速日のいない世に生き続けたところで、何が残されているのかと、幾度となく考えてきた。主君のもとへ行けるものなら、いっそ自分も逝ってしまいたいとさえ願っていたが、あの方の遺した国が奪われようとしているのならば、話は別だった。
――まだ、儂にはやるべきことがある。
長髄彦は掛け布を勢いよく跳ね除けると、寝台の縁に両足を下ろした。長く床に伏していた脚にはこわばりが残り、立ち上がろうとした瞬間には膝がわずかに揺れたものの、床を強く踏み締めると、六尺を優に超える巨体を一息に起こしたのである。
寝所に控えていた家臣たちは、思わず息を呑んだ。つい先ほどまで生きる気力さえ失っていた老人の眼に、かつて幾多の戦場で敵を退け、邇芸速日の片腕として兵を率いていた武人の鋭い光が戻っていた。
「邇芸速日様が築かれた国を、奴らに渡してなるものか!」
寝所を震わせるほどの怒声に、家臣たちは反射的に背筋を伸ばした。それは、主君を失ってから久しく聞くことのなかった、兵を叱咤する長髄彦の声だった。
長髄彦は寝台の傍らに置かれていた剣を掴むと、鞘ごと腰に差し、戸口へ向かって大股に歩き始めた。
「使者はどこだ」
「べ、別室に控えさせておりますが……」
「案内せい!」
家臣がそれ以上の言葉を口にする間もなく、長髄彦は寝所を出た。廊下には重々しい足音が響き、慌てて後を追う家臣たちを振り返ることもなく、使者を待たせている部屋へと向かっていった。
やがて長髄彦が戸を開け放つと、室内にいた使者は驚いて立ち上がり、名乗りを上げようとした。しかし、その口から用件が語られることはなかった。
「消えろ、盗人が!」
長髄彦は抜き放った剣を、ためらいなく振り下ろした。使者が身を引くよりも早く刃がその身体を捉え、男は言葉を発する間もなく床へ崩れ落ちた。
「な、なんと……!」
「長髄彦様、いきなり何をなさるのですか!」
「使者を斬ってはまずうございます! 相手が大倭壱国とあっては、今後の交渉にも関わりますぞ!」
家臣たちが口々に制止と諫言を重ねても、長髄彦は聞く耳を持たなかった。血の付いた剣を握ったまま、床に倒れた使者を一瞥すると、周囲の者たちを睨みつけた。
「使者など無用! どうせ国取りが目的であろうが。大倭壱国の使者など、見つけ次第、斬り捨てい!」
しばらくして、兄の安日彦が登美の館を訪れた。すでに隠居して久しく、館に顔を出すこともほとんどなかったが、弟が大倭壱国の使者を斬ったと聞いては、黙っているわけにもいかなかった。
「長髄彦……。使者を斬れば、今後の交渉にどれほど悪影響を及ぼすか、わからぬお前ではあるまい」
「兄者、大倭壱国のやり口は、出雲の末路を見ればわかるであろう。あの者どもに、この国を渡してなるものか。交渉など、こちらを欺くための方便にすぎぬ!」
長髄彦は剣を傍らに置いたまま、兄を鋭く睨みつけた。その眼には、先ほどまで床に伏していた老人とは思えぬほどの闘志が宿っていた。
「お前の気持ちはわかる。儂とて、邇芸速日様が築かれた国を奪われたいわけではない。だが、だからこそ使者を斬るべきではなかったのだ。相手の言い分も聞かずに刃を向けては、戦を避ける道まで失ってしまうぞ」
「もはや言葉など無用。奴らが軍を率いて来るというのなら、こちらも軍をもって迎え撃つまでよ」
安日彦は深く息をついた。弟は昔から一度こうと決めれば容易に考えを変えぬ男だったが、年を重ね、その頑固さはいっそう強くなっていた。
「とにかく、こちらから弁明の使者を出し、今回の件を収める。お前はもう使者を斬るでない。よいな」
「必要ない。奴らは儂が潰す。この土地には、一歩たりとも踏み入らせぬ!」
安日彦は静かに目を閉じた。今の弟に何を言っても届かぬことは、その表情を見れば明らかだった。邇芸速日への忠誠は、長髄彦が生涯をかけて守り抜いてきたものだったが、主君を失った今、その想いは弟を戦へと駆り立てていた。
兄の制止も聞かず、長髄彦はただちに兵の召集を命じた。登美の兵のみならず、周辺の豪族たちにも使いを走らせ、大倭壱国の軍勢を迎え撃つための備えを進めていく。
かつての覇気を取り戻した老将の眼には、高齢を感じさせぬ鋭い光が燃えていた。邇芸速日が築き、自らも人生の大半を費やして守ってきた三輪山の国。その国だけは、何があろうと奪わせぬと、長髄彦は固く誓った。
長髄彦が大倭壱国の使者を斬り捨てたとの報せは、ほどなく纏向の宮にいる宇摩志麻遅のもとにも届いた。
「なに、長髄彦叔父上が!?」
宇摩志麻遅は思わず立ち上がった。報告に訪れたのは、宇陀の豪族の弟であり、現在は宇摩志麻遅の側近として仕える弟宇迦斯であった。
「はい。纏向へ向かっていた大倭壱国の使者を登美の館へ連行したところ、要件も問わず、いきなり斬り捨てられたそうです」
「なんと早まったことを……」
宇摩志麻遅は額に手を当てた。使者を殺めれば、相手に兵を進める口実を与えるばかりか、今後の交渉も難しくなる。だが、弟宇迦斯はそれほど深刻には受け止めていない様子だった。
「しかし、大倭壱国ごとき、何ほどのこともないでしょう。我らが迎え撃てば、追い返せるはずです」
「何を言うか! 大倭壱国は諸国の連合体だぞ。一つや二つの軍を撃退したところで、戦が終わるわけではない。下手をすれば、倭国大乱の再来となる!」
普段は穏やかな宇摩志麻遅が声を荒らげると、弟宇迦斯は驚いたように目を見開いた。それでも、納得できない様子で言葉を返した。
「ですが、我らとて東の諸国との結びつきを深めてきた連合体ではありませんか。兵を集めれば、十分に対抗できるかと」
「それは父上がご存命であればこそだ。私に、父上ほどの影響力があるとは考えにくい。仮に東の諸国が兵を集めたとしても、西の連合と正面からぶつかればどうなる。筑紫で起きた倭国大乱を上回る戦になるやもしれぬのだぞ」
宇摩志麻遅は声を落とし、宮の外へ目を向けた。父が長い歳月をかけて治めてきた土地も、そこに暮らす人々も、ひとたび大軍同士が衝突すれば無事では済まない。
「そんなことになれば、倭国そのものが滅びかねぬ。なんとしても、三輪山が火の海になる前に手を考えねば……」
しかし、そのためには長髄彦の軍を抑えなければならなかった。父の死後、誰よりも深く悲しみに沈んでいた叔父が、今度は誰よりも激しく戦を望んでいる。身内である長髄彦すら止められぬ自分の力のなさが、宇摩志麻遅には歯がゆくてならなかった。
翌日、長髄彦は登美の地に建立した大物主の社を訪れていた。社の前に膝をつき、亡き主君へ静かに祈りを捧げていると、背後から家臣が足早に近づいてきた。
「長髄彦様。ご報告申し上げます。やはり大倭壱国の軍勢は吉備まで達しておりました。どうやら行く先は、我らが三輪山のようです」
「……そうか。偵察を出せ」
「はっ。して、どちらへ向かわせましょう?」
「全域だ。全ての方角に目を光らせよ。奴らがどの道を通ろうと、いち早く居場所を突き止めるのだ」
「承知いたしました!」
家臣が駆け去ると、長髄彦はゆっくりと社を見上げた。かつて邇芸速日とともに戦い、治め、守り抜いてきた国が、今まさに奪われようとしている。衰えていた身体には、久しく忘れていた闘志が満ちていた。
「大倭壱国の連中を、この地へ一歩たりとも踏み入らせてなるものか……」
長髄彦は深く頭を垂れ、社に祀られた大物主――亡き邇芸速日へ、すがるように祈った。
「邇芸速日様。どうか我らにご加護を。あなた様が築かれた国を守るため、侵略者に打ち勝つ力をお与えくださいませ……」




