五話 吉備冠者
吉備の港に到着した彦五瀬と磐余彦の東征軍は、船団を停泊させると、吉備冠者の拠点である山城へと向かった。
大倭壱国からの使者があらかじめ訪問の意向を伝えていたため、多数の軍船が港に姿を現しても混乱は起こらず、街道の通行にも支障が出ないよう、吉備の者たちによって受け入れの手配が整えられていた。
山城でも二人の到着はすでに知らされており、彦五瀬と磐余彦は、案内役に導かれて城内の一室へと通された。そこには吉備冠者が待っていたが、部屋のしつらえを目にした彦五瀬は、席に着く前にわずかに眉を動かした。
用意されていた座席には、主人と客人の上下を示すような配置がなく、双方が向かい合って話せるよう、同じ高さに席が設けられていたのである。磐余彦も兄の視線を追ってその意図に気づき、吉備冠者が礼を尽くして迎えながらも、決して大倭壱国の従属国として振る舞うつもりはないのだと理解した。
やがて、二人が席に着くのを待っていた吉備冠者が、穏やかな表情を浮かべて口を開いた。
「はるばる宇佐からよくお越しくださいました。私が吉備冠者でございます」
「彦五瀬と申す、冠者殿。このたびは、我らを快く迎えていただき、感謝いたします」
「弟の磐余彦でございます。どうぞ、よろしくお願いいたします」
彦五瀬に続いて磐余彦が頭を下げると、吉備冠者も丁寧に礼を返した。その物腰には、訪れた相手を必要以上に持ち上げるところも、独立した国の主として威圧しようとするところもなく、二人が抱いていた警戒を和らげながら、対等な立場だけは崩さないという、静かな意思が感じられた。
「早速ですが、我らとの密約を守っていただき、感謝する」
彦五瀬がそう切り出すと、吉備冠者は、あらためて姿勢を正した。
「密約の件は、先代の吉備冠者から承知しております。先代が交わした約束であっても、吉備を預かる者として、私が受け継ぐべきものと心得ております」
現在の吉備冠者は二代目であり、その父である先代は、一代で勢力を築き上げて豪族の地位にまで上り詰めた人物だった。しかし、吉備を治める一族としての歴史はまだ浅く、先代個人の名声と存在感があまりにも大きかったため、その名を後継者が襲名することで、築き上げた権威を受け継いでいくことになったのである。
もっとも、二代目の吉備冠者は、父ほどの覇気や野心を持ち合わせているわけではなかった。自らの力で道を切り開くことを好んだ先代とは異なり、人々の意見に耳を傾け、利害が対立すれば双方の言い分を聞いたうえで折り合いを探ることに長けており、その穏やかで堅実な統治は、吉備の民からも広く慕われていた。
人々は、先代から受け継がれた名とは別に、親しみと敬意を込めて、二代目の吉備冠者を『温羅様』と呼んでいた。
「港も領地も、実に素晴らしい地でございました。吉備王国ありとは、まさにこのことでございますな」
磐余彦が感心したように述べると、吉備冠者は穏やかな笑みを浮かべ、いささか恐縮した様子で首を横に振った。
「王国などとは大袈裟でございます。父の代から少しずつ土地を整え、港を広げ、民が安心して暮らせるよう努めてきただけのこと。とはいえ、豊かな土地であるという自負はございますし、遠方よりお越しの皆様にそう仰っていただけるのは、何より嬉しゅうございます」
その言葉に磐余彦が頷く一方、彦五瀬は歓談が一段落したところで姿勢を正し、今回の訪問で最も重要な話題を切り出した。
「ところで冠者殿、我らの東征に際し、吉備からはどのような支援を受けさせていただけるのであろうか?」
「食糧をはじめ、武具、武器、矢、その他の必要な物資につきましても、できる限り提供させていただきます。ただし、今回の東征には、吉備の正規兵を参加させぬ方針でございます」
吉備冠者が申し訳なさそうに頭を下げると、彦五瀬はわずかに眉を寄せ、先ほどまでの和やかな表情を崩した。
「……兵は提供せぬと?」
「はい。吉備の兵は決して多くなく、この地を守るだけで精一杯でございます。仮に兵を東へ送り出し、その留守に領内で何か起これば、私は民に申し開きができませぬ。皆様の東征が重要であることは承知しておりますが、吉備を預かる者として、領地の守りを疎かにするわけにはまいらぬのです」
吉備冠者の説明には一応の道理があり、彦五瀬もそれを理解できぬわけではなかったが、物資の提供には応じながら兵を出さぬという判断に、どうしても別の思惑を感じずにはいられなかった。もし東征軍が三輪山に敗れたとしても、正規兵を差し出していなければ、吉備は東の勢力に対して言い訳が立つのではないかという疑念が、胸の内に生じていたのである。
そのような兄の表情を見ていた磐余彦は、しばらく考えたのち、二人の間に割って入るように口を開いた。
「兄上、それでしたら、阿岐国の時と同じく、この地で募兵を行うというのはいかがでしょう?」
「だがな、磐余彦。阿岐国にはもともと常駐兵がほとんどおらなんだゆえ、我らも募兵するほかなかったのだ。吉備には領地を守る兵がいるというではないか」
「ですが、冠者殿も、その兵だけでは吉備を守るので精一杯だと仰っておられました。であれば、吉備の兵をお借りするのではなく、我らの東征に加わりたいと望む者を、我ら自身で募ればよいのではありませんか?」
磐余彦の言葉を聞いた彦五瀬は、弟の顔を見つめたまましばし考え込み、やがて納得したように頷くと、改めて吉備冠者へ向き直った。
「……うむ、そうだな。冠者殿、吉備の兵を動かせぬという事情は承知したが、この地で我らが募兵を行うことまで差し障りがあるわけではあるまい。志願する者を東征軍に迎え入れても構わぬだろうか?」
吉備冠者はすぐには答えず、膝の上に置いた手をわずかに動かしながら思案した。吉備の正規兵を動かすとなれば、自ら東征に加担したことになるが、志願者が個人の意思で東征軍に加わるのであれば、吉備の守りを崩すことなく、彦五瀬の求めにも応じることができる。
「募兵であれば、差し支えありません。志ある者が皆様のもとへ馳せ参じることを、私が妨げる理由もございませぬゆえ、どうぞご随意になさってください」
吉備冠者がそう答えると、彦五瀬はようやく表情を和らげ、物資の提供と募兵の許可に対して礼を述べたが、吉備冠者の胸中にある考えまで読み取ることはできなかった。
吉備冠者にとって、大倭壱国の東征に協力することと、その運命を共にすることは、まったく別の話であった。物資を提供し、志願者の参加を認めることで西の大国との関係は保てる一方、吉備の正規兵を温存しておけば、東征の成否にかかわらず領地の守りを維持できるのであり、彼にとって何より大切なのは、吉備の利益と安定、そして父の代から築き上げてきた豊かな土地で暮らす民の生活だったのである。
倭国の覇者となるのが大倭壱国であろうと三輪山であろうと、その結果によって吉備の平穏が損なわれぬのであれば、吉備冠者にはどちらが勝者となるかなど、さほど重要なことではなかった。
交渉を終えた彦五瀬と磐余彦は、供の者たちを連れて港へと向かっていたが、二人の足取りは来たときほど軽くなく、吉備の主が浮かべていた人当たりのよい笑みを思い返すたびに、何とも言いようのない煙に巻かれた気分になるのだった。
「どうにも……俺は好きになれん」
しばらく黙って歩いていた彦五瀬が、とうとう堪えきれなくなったように口を開くと、隣を歩く磐余彦も苦笑を浮かべながら、先ほどの交渉を頭の中で振り返った。
「したたかな方でしたな。兵糧も船も融通してくださるというのに、兵は一人も出さず、我らが勝っても負けても吉備が困らぬよう、実にうまく話を運ばれていました」
「それだ。あやつ、三輪山との密約の一つや二つ、結んでいるのではないか? こちらには友好を約束しておきながら、向こうにも同じような顔を見せていそうで、どうにも信用ならん」
「あり得ない話ではありませんが、先代はもっと凄い方だったと聞きましたし、あのような方々を相手にするのが交渉というものなのでしょう。私には、まだまだ難しゅうございます」
磐余彦が素直にそう認めても、彦五瀬の不満は収まらなかったらしく、港へ続く道の向こうに目をやったまま、肩をすくめて吐き捨てるように言った。
「俺は武人だ。敵なら敵、味方なら味方とはっきりしてもらいたいし、ああいう二枚舌の男と腹を探り合う話など、気に入らん」
「ですが兄上、我らも日向では小さいながら領地を預かる身です。領主である以上、何より先に領民と領地のことを考えるのは当然ではありませんか。吉備の主にとっては、我らの東征に兵を出して国を危うくするより、どちらとも縁を切らずに済む道を選ぶほうが大切なのでしょうし、私とて同じ立場なら、そう簡単に兵を差し出すとは申せません」
思いがけず筋の通った答えが返ってきたため、彦五瀬は弟の顔をまじまじと見つめ、それから少しばかり考え込んで、ようやく納得したように頷いた。
「……それもそうだな。俺たちが戦に勝つことより、自分の民を飢えさせぬことのほうが、あやつには大事というわけか」
「ええ。それに、我らが負けたときまで考えておられるのは、腹立たしくとも責められることではありません。これも政治というものですよ」
磐余彦がいかにも分別のある領主らしく言い切ると、彦五瀬はしばし目を丸くしたのち、何か面白いものを見つけたかのように口元を緩め、弟の肩を軽く小突いた。
「ほう、一人前のようなことを言うようになったではないか、磐余彦。昔は俺が少し稽古をつけてやっただけで泣きだし、槍を放り出して逃げていたくせに、随分と偉くなったものだ」
「ちょっ……兄上、それは言わない約束でしょう! いつの話を持ち出すのですか!」
「いつの話も何も、毎日のことだったではないか。少し転べば泣き、打たれれば泣き、俺が稽古場に姿を見せただけで逃げようとするものだから、当時は本気で将来を心配していたのだぞ」
懐かしそうに笑う兄とは対照的に、磐余彦は耳まで赤くして抗議したが、彦五瀬はその様子がますます愉快になったらしく、弟が何か言い返そうとするたびに、幼い頃の失敗を思い出しては笑い声を大きくした。
「あれはぁー、いじめーでしたよ! 兄上が毎日のように追いかけ回して、私がもう嫌だと申しても稽古をやめてくださらなかったこと、しっかり覚えていますからね!」
「生意気なんだよ、お前は。昔から口だけは達者だったくせに、肝心の槍を持たせれば、すぐに泣きべそをかいていたではないか」
「その泣きべそをかいていた弟が、こうして兄上と一緒に東征に出ているのですから、少しは成長を認めてくださってもよいでしょう!」
むきになって言い返す磐余彦を見て、彦五瀬はまた声を上げて笑ったが、その目には先ほどまでの険しさはなく、いつの間にか二人の足取りも、港へ向かう往路のような軽さを取り戻していた。




