四話 瀬戸内の旅
彦五瀬と磐余彦が率いる大倭壱国の東征軍は、宗像での航海安全の祈願を終えると、一路、瀬戸内海を目指して船を進めていた。大小さまざまな船が連なる船団は、宗像で兵や物資を補充したことでいっそう大きくなり、海上には白い帆が幾重にも並んでいたが、瀬戸内海へ入るまでの航路は波が高く、船が大きく揺れるたびに、慣れない兵たちの間から悲鳴にも似た声が上がっていた。
なかでも日臣の船酔いはひどく、普段の威勢のよさはどこへやら、船縁にしがみついたまま青い顔で海を見つめ、磐余彦が声をかけても、力なく片手を上げるのが精いっぱいという有様だった。ところが、船団が瀬戸内海へ入り、周囲を陸地や島々に囲まれた穏やかな海域へ差しかかると、それまで船を翻弄していた波は次第に収まり、日臣の顔色も驚くほどの速さで元に戻っていった。
「おっしゃー! いっちょやったるぞ!」
つい先ほどまで今にも倒れそうだった男が、何事もなかったかのように甲板の上で拳を突き上げたものだから、磐余彦は思わず呆れた顔を向けた。
「いや、まだ瀬戸内海に入っただけだし……」
「細けえことはいいんですよ! 足元が揺れねえってのは最高じゃねえですか!」
日臣は大きく胸を張って海風を吸い込み、ようやく自分の居場所を取り戻したとでも言いたげに笑った。その様子を見ていた椎根津彦は、船酔いで消耗していた兵たちもこれなら落ち着くだろうと、手元の航路を記した木簡に目を落とした。
「次は阿岐国の多祁理宮でございます。そこでしばらく滞在し、食糧や水の補給に加えて、現地での募兵を行う予定となっております」
※現在の広島県安芸郡府中町。
「多祁理宮か。そこでも兵が集まれば、船団はもっと大きくなるね」
磐余彦はそう答えながら船首の方へ歩き、視界の先に広がる海を眺めた。先ほどまで荒い波に隠れていた遠くの島影は、今では青く澄んだ空の下にはっきりと浮かび、海面には陽光が細かな光となって散っている。両岸の山々には濃い緑が広がり、時折、潮の香りを含んだ柔らかな風が頬を撫でていくため、長い航海の途中であることを忘れそうなほど心地よかった。
「それにしても瀬戸内は気持ちがいいね。気候も穏やかだし、波も静かで、こうして海を眺めているだけでも楽しいよ」
「最高だぜ! このままなら、どこまでだって船に乗っていられるな!」
「さっきまで、もう二度と船には乗らないって言ってなかった?」
「そんなこと言ったか? 覚えてねえな!」
磐余彦が苦笑すると、日臣は悪びれもせずに笑い返した。その傍らでは、大久米が甲板の陽当たりのよい場所に腰を下ろし、船縁に背を預けたまま、穏やかな日差しを浴びていた。二人の賑やかなやり取りにも特に反応せず、ただ気持ちよさそうに目を細めている姿は、まるでこの船の中で誰よりも瀬戸内の旅を満喫しているかのようだった。
穏やかな波に揺られる船の上で、椎根津彦はしばらく前方の船団を眺めていたが、やがて磐余彦に向き直ると、少しばかり声を落として話しかけた。
「そういえば、彦五瀬様はずいぶんと浮かれておられるようにお見受けしましたが、大丈夫でしょうか?」
「兄上が? どういうこと?」
「彦五瀬様は、我々よりも戦の経験が豊富な方でございますから、私などが案じるのも差し出がましいとは思うのですが……宗像で兵を補充して以来、率いる軍勢が大きくなったことを、たいそう喜んでおられるようでした。これから向かう阿岐国でも募兵を行う予定ですし、兵数はさらに増えることでしょう」
椎根津彦は、船首の向こうに連なる船影へ目を向けた。宗像を発ったときには、船団が大きくなったことを皆で喜んだものだが、彼にはその頼もしさが、どこか別の懸念と結びついているようだった。
「大軍を率いられるんだぞ? そりゃあ興奮して当然だろうがよ。俺だって、これだけの兵が集まったら腕が鳴るぜ!」
日臣は胸を張って笑ったが、椎根津彦はその勢いにつられることなく、考え込むように口を結んだ。
「椎根津彦、何を心配しているの?」
「自信を持たれるのは、もちろんよいことでございます。兵を率いる将が不安そうな顔をしていては、兵たちも安心して従えません。ただ、その自信が思わぬところで仇になりはしないかと、少々気にかかっているのでございます」
「なんだよ、彦五瀬様が慢心しているとでも言いたいのか?」
「そこまで申し上げるつもりはございません。彦五瀬様はお強い武人でございますし、ご自身の力だけでなく、兵を率いることにも長けておられます。ただ、真っ直ぐなご性格でいらっしゃいますから、大軍を率いて東へ向かうとなれば、高揚されるのも無理はないでしょう」
椎根津彦の言葉を聞きながら、磐余彦は兄が乗る船の方角を見つめた。今は互いに別の船に乗っているため、すぐに声をかけることはできないが、阿岐国に着けば落ち着いて話す機会もあるはずだった。
「わかった。今は船が別々だし、阿岐国に着いたときにでも、兄上に伝えてみるよ。相手を侮らず、油断されぬようにって」
「ありがとうございます。もっとも、私が心配しすぎているだけかもしれません。ただ、我々がこれから相手にするのは三輪山でございます。あの国は何十年もの間、戦で負けを知らぬ国でもありますから、兵の数が増えたというだけで安心するわけにはまいりません」
「けどよー、三輪山が負け知らずだったのは、邇芸速日が生きていた頃だろ? もう邇芸速日はいないんだぜ」
日臣はあっけらかんと言い放ったが、磐余彦はすぐに同意することができなかった。邇芸速日が亡くなったからといって、彼が長い年月をかけて築いてきた国や、そこで戦ってきた武人たちまで消えてしまうわけではないし、その跡を継いだ者たちが何を考えているのかも、まだ十分にはわかっていない。
それに、磐余彦には別のことも気にかかっていた。邇芸速日も、その後継者である宇摩志麻遅も、那岐の血を引く子孫である。そして自分たちもまた、那岐の子孫として東へ向かっている。戦になれば、那岐にとっては、どちらが勝っても大切な子孫が傷つくことになるのだ。
日向を発つとき、那岐はいつものように穏やかな顔で送り出してくれたが、その胸の内までは聞けなかった。磐余彦は遠くに連なる船団を見つめながら、今になって、あの笑顔の奥にどれほど複雑な思いがあったのだろうと考えずにはいられなかった。
――那岐様は今、どんな思いでいらっしゃるのだろうか……。
宇佐に到着した那岐は、竹と浦を伴って、真っ先に主祭殿へと向かった。長い旅を終えてようやくこの地にたどり着いたのだから、何よりも先に日巫女の顔を見たかったのだが、主祭殿の二階で面会できたのは月読だけであり、娘の居室へ通してほしいという願いは、今回も聞き入れられなかった。
「父上、せっかくお越しいただいたところ申し訳ありませんが、姉上には、お会いいただけません」
月読はそう告げると、滞在中に不自由のないよう住まいを手配すると約束し、那岐にも竹と浦にも、必要なものがあれば遠慮なく申しつけるようにと言い添えた。那岐は息子の気遣いに礼を述べたものの、肝心の娘に会えない理由については納得できず、もう一度だけ日巫女の様子を尋ねてみたが、月読は詳しいことを語ろうとしなかった。これ以上問い詰めても困らせるだけだと思い、那岐は静かに引き下がることにした。
月読が用意してくれた家は、三人で暮らすには十分な広さがあり、市にも主祭殿にも出向きやすい場所に建っていたため、竹と浦はさっそく荷を解いて新しい生活の支度を始めた。那岐も二人に手を貸しながら、ひとまず落ち着ける住まいが見つかったことに安堵したが、日向を離れれば東征軍の知らせが早く届くと考えていたのに、宇佐に来てからも心を占めているのは、会えない娘のことばかりだった。
それから数日が過ぎるうちに、那岐は市や往来で、日巫女についてのさまざまな噂を耳にするようになった。長く姿を見せないのは霊力を失って急に老いられたからだという者もいれば、すでに亡くなられているのに国が混乱することを恐れて訃報を隠しているのだと囁く者もおり、なかには、有力な豪族たちによって人知れず別の場所に幽閉されているのだと、まことしやかに語る者までいた。
どの話にも確かな裏付けはなく、那岐は人々の憶測に耳を傾けるべきではないと思いながらも、娘が人前に姿を見せず、自分との面会さえ許されないという事実が、噂を聞くたびに胸の奥へ重く沈んでいくのを感じていた。日巫女ならば、何か事情があって今は会えないのだろうと自分に言い聞かせ、よからぬ想像が浮かんでは打ち消したが、何度そうしても気持ちが晴れることはなかった。
那岐が望んでいたのは、国を治める女王から事情を聞き出すことでも、娘の政務に口を出すことでもなかった。ただ、久しく会っていない日巫女の顔を見て、元気にしているのかと尋ね、できることなら親子として少しばかり言葉を交わしたかった。それだけの願いが、今の那岐にはどうしてもかなわなかった。
ある日の昼下がり、浦が何かを思い出したように那岐のもとへやって来ると、少し弾んだ声で話しかけた。
「那岐様、私たちが宇佐にいた頃にはなかった社が、最近できたそうなんです。参拝する人も増えているみたいですし、よかったら一緒に行きませんか?」
「社ですか……何の神様をお祀りしているのでしょう?」
那岐が尋ねると、傍らで話を聞いていた竹が、聞き覚えのある話をたどるように答えた。
「たしか、植林の神様だったと思います。林業や建築に携わる人々が熱心に信仰していて、最近では倭国の各地に社が建てられているそうです」
植林の神様という言葉に、那岐はわずかな違和感を覚えたものの、詳しいことを知らないまま考えていても仕方がないと思い直し、双子の勧めに従って参拝に出かけることにした。三人は供物として穀物や果物を用意し、道行く人々に社の場所を尋ねながら、宇佐の街外れへと足を向けた。
やがてたどり着いた社は、浦が話していた評判の広まり具合から想像したものよりも、ずっと小さく質素な造りだった。まだ新しい木材で建てられた社殿の周囲には、植えられて間もない若木が何本も並び、根元には乾燥を防ぐための草が丁寧に敷かれている。華やかな飾りこそなかったが、参拝に訪れる人々が手入れを続けているらしく、境内には人の温もりが感じられた。
「あれ? 流行っているって聞いたわりには、ずいぶん小さい社なのね」
浦が周囲を見回しながら首を傾げると、竹も建物の様子を眺めてから、もっともらしい顔でうなずいた。
「植林や建築の神様だから、各地に社が建てられるほど信仰されていても、こういう場所は案外地味なのかもしれないね。木を植える人たちなら、立派な社殿を造るよりも、周りの木を育てることを大切にしそうだし」
「なるほどねえ。たしかに、ここの木はどれも大事にされているみたい」
二人はそんな話を交わしていたが、那岐はいつの間にか足を止めており、社の前に掲げられた神名を、身じろぎひとつせず見つめていた。
そこには、五十猛命と記されていた。
出雲の王、須佐之男の息子であり、那岐にとっては大切な孫の名だった。かつて戦場で槍を振るっていた大きな手で、晩年には小さな木の種を一粒ずつ土に埋め、倭国中を緑豊かな国にしたいと願っていた五十猛が、今はこうして人々に祀られている。
「那岐様?」
竹が呼びかけても返事がなかったため、浦も不思議そうに那岐の顔をのぞき込んだ。
「どうかしました? もしかして、この神様をご存じなんですか?」
那岐は二人の声でようやく我に返ると、社から目を離さないまま、小さくうなずいた。
「うん……知っているよ。五十猛は、出雲の王だった須佐之男の息子でね、とても強い武人だったんだ。でも、後年は戦から離れて、倭国中を歩きながら木の種を植えて回っていたんだよ。いつかこの国を、どこへ行っても緑に囲まれた豊かな土地にしたいって、そう願っていたんだ」
須佐之男の名が出た瞬間、竹と浦は顔を見合わせ、それ以上は軽々しく尋ねられないことを悟った。那岐にとって須佐之男がどのような存在なのかを知っていた二人には、その息子である五十猛が、ただの知人ではないこともわかったからだった。
那岐は社の周囲に植えられた若木へと視線を移し、まだ細い幹を風に揺らしている一本を眺めながら、懐かしそうに目を細めた。
「小さな頃の狭野が泣いていたときも、あの子はよく可愛がってくれたんだ。狭野のことをずいぶん気にかけていてね、私のところまで来て、あの子を導いてやってほしいって、熱心にお願いされたこともあったよ」
「磐余彦様とも、お知り合いだったのですか……?」
竹が驚いて聞き返すと、那岐は静かにうなずいた。浦も思いがけない縁に目を見開いたが、那岐の表情を見ているうちに、いつものように賑やかに問いを重ねることはできなくなった。
那岐の脳裏には、泣いてばかりいた幼い狭野を見守る五十猛の姿が浮かんでいた。戦場では誰よりも大きく見えた身体をかがめ、子供の目線に合わせて穏やかに語りかけていたあの孫が、今では自分の手の届かない場所にいる。それでも、あの子が植え続けた木々は各地で育ち、その願いを知った人々が、こうして新しい苗木を植えているのだった。
「そっか……神様になったのか……」
那岐はそうつぶやくと、持ってきた供物を社の前にそっと供え、しばらく手を合わせていた。やがて祈りを終えても、その場を離れようとはせず、小さな社を見つめたまま静かに肩を落としていた。
竹と浦は、そんな那岐に何を言えばよいのかわからなかった。立派な神様になったのだから喜ぶべきだと励ますことも、もう亡くなった人なのだから仕方がないと慰めることも、今の那岐にはふさわしくないように思えた。
結局、竹は那岐の右隣に、浦は左隣にそっと寄り添い、二人とも何も言わずにその背中を見守ることにした。社の周囲では、まだ若い木々が穏やかな風に葉を揺らしており、その小さな緑だけが、五十猛の願いが今もこの地に息づいていることを静かに伝えていた。




