三話 宗像にて
宗像の社に到着した彦五瀬と磐余彦の一行は、神職に案内されて社の奥へと進み、航海安全の祭祀を司る市杵島姫と対面した。
彦五瀬は一礼すると、宇佐で受けた東征の命と、これから率いる船団の航海安全を祈願したい旨を伝えた。市杵島姫は静かに話を聞き終えると、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「承知いたしました。航海の安全を祈願させていただきます。東へ向かわれる皆様が、無事に目的の地へ到着されますよう、心を込めてお祈りいたしましょう」
「ありがたきお言葉、感謝いたします」
彦五瀬が深々と頭を下げると、市杵島姫はその隣に控えていた磐余彦へと視線を移した。しばらく顔を眺めていたが、幼い頃の面影を見つけたのか、懐かしそうに目を細める。
「久しぶりですね、磐余彦。大きくなられたものです。以前お会いした頃は、まだ幼い御子でしたのに、今では立派な若者になられて」
「こ、この度の航海安全の祈願、よろしくお願いいたします」
磐余彦は慌てて頭を下げたものの、どうしても市杵島姫と目を合わせることができなかった。というのも、幼い頃にこの社を訪れた際、あろうことか市杵島姫を「おばさん」と呼んでしまったことがあり、その失言を今でも鮮明に覚えていたからである。
当時は悪気などなかったのだが、後になって周囲の者たちから女性に対してそのような呼び方をするものではないと散々注意され、幼かった狭野は泣きそうになりながら謝ったものだった。
もちろん、市杵島姫も子供の言葉を本気で根に持っていたわけではない。むしろ、あの小さな御子がこれほど立派に成長したことを喜ばしく思っていたのだが、せっかく久しぶりに会えたのだから、昔の失言を少しくらい思い出させてやってもよいだろうという、ほんのわずかな悪戯心が湧いていた。
「ふふ、今日は眠たくはなさそうですね。儀式の最中に居眠りなどなさらないでくださいね」
その言葉を聞いた瞬間、磐余彦の背筋がぴんと伸びた。
――覚えていたのか……! もう忘れてくださいよ……!
幼い頃の磐余彦は、長い祭祀の最中に眠くなってしまい、こっくりこっくりと舟を漕いでいたことまであった。市杵島姫はどうやら、その時のこともしっかり覚えているらしい。
「も……もちろんでございます! この度は大切な航海安全の祭祀ですから、決してそのような失礼はいたしません!」
「あら、それは頼もしいこと。以前とは違って、すっかり大人になられたのですね」
にこやかに微笑む市杵島姫であったが、磐余彦にはその笑顔が妙に恐ろしく感じられた。こちらが幼い頃のことを覚えていると承知したうえで、わざわざ話題にしているのだから、今さら何を言っても逃げられそうになかった。
そんな弟の様子を不思議に思った彦五瀬は、隣から磐余彦の顔を覗き込んだ。
「どうした、磐余彦。先ほどから妙に顔が固いぞ。せっかく市杵島姫様が親しくお声をかけてくださっているのに、緊張しているのか?」
「い、いえ……その……」
「お前らしくないな。戦に出るときは、あれほど堂々としていたではないか」
磐余彦は困った。正直に昔の失言を話してしまえば、兄は間違いなく笑い出すだろうし、下手をすれば東征の間ずっとからかわれかねない。どうにかこの場を切り抜けようと必死に考えた末、ようやく一つの言い訳を思いついた。
「市杵島姫様の……あまりの美しさに、緊張してしまって……」
「なんだ、そういうことか! ははは、確かに市杵島姫様はお美しいからな。お前が緊張するのも無理はない!」
彦五瀬は何の疑いもなく納得すると、豪快に笑いながら弟の肩を叩いた。どうやら兄は、磐余彦が必死に取り繕っていることなど、少しも気づいていないらしい。
「まあ、おほほ。それは嬉しいことをおっしゃってくださいますね。磐余彦も、女性を喜ばせる言葉を覚えられたようで」
市杵島姫は袖で口元を隠し、上品に笑った。
その笑顔は実に美しく、彦五瀬も満足そうに頷いていたが、磐余彦だけは違った。市杵島姫の言葉の端々から、あの頃のことをまだ忘れていない気配がひしひしと伝わってきて、これ以上余計なことを口にすれば、さらに昔の失敗を持ち出されるのではないかと気が気ではなかった。
――お願いですから、もう勘弁してください……。
磐余彦は心の中で懇願しながら、ただひたすら恭しく頭を下げていた。
市杵島姫はそんな彼の様子を楽しげに眺めていたが、当の磐余彦は、最後までその笑顔をまともに見ることができなかった。
海を望む祭場には、朝早くから東征軍の将兵や宗像の海人たちが集まっていた。祭場の正面には青く広がる海が見え、沖合には出航を控えた船団が幾重にも連なっている。潮風に揺れる御旗の下、船団の代表として彦五瀬が三種の神器を奉じ、市杵島姫による航海安全の祭祀が執り行われることになった。
彦五瀬が祭壇の前に進み、三種の神器を丁重に奉納すると、白い祭服に身を包んだ市杵島姫が静かに姿を現した。市杵島姫は祭壇に向かって深く一礼し、木鈴の音色に合わせてゆっくりと巫女舞を始めた。その所作は優雅でありながら、一つ一つの動きに乱れがなく、広げた袖が潮風を受けて柔らかく揺れるたびに、見守る人々の視線が自然と引き寄せられていった。
舞が進むにつれて祭場は静まり返り、聞こえるのは木鈴の澄んだ音色と、遠くから寄せては返す波の音ばかりになった。市杵島姫は海へ向かって両手を広げ、東へ旅立つ船団の無事と、航海に携わるすべての者たちの安全を祈りながら、最後の舞を奉納した。
祭祀を終えると、今度は船団を清める儀式が行われた。市杵島姫が祭壇に供えられていた清めの水と酒を受け取り、船へ向かって振りかけると、船頭や海人たちは一斉に頭を下げ、これから始まる長い航海の無事を願った。彦五瀬と磐余彦も深く一礼し、宗像の海神へ祈りを捧げてから祭場を後にした。
儀式が終わると、港では東征軍の出航に向けた準備が本格的に始まった。宗像の各地から集められていた兵が続々と到着し、船には兵糧となる米や粟、飲み水を入れた甕、武具や矢などが次々と積み込まれていく。さらに、航海に必要な縄や帆布、船の修繕に用いる資材まで用意されており、宗像側が今回の遠征に向けて周到な準備を進めていたことがうかがえた。
彦五瀬と磐余彦は港を歩きながら、集結した兵と船団の様子を見て回っていた。日向から率いてきた兵に加え、宇佐や宗像からの増援まで合流したことで、東征軍の規模は出発した頃とは比べものにならないほど大きくなっていた。
「なかなかの兵が集まっているではないか。これほどの軍勢を率いることになるとはな!」
港を埋め尽くす兵士たちを眺めながら、彦五瀬は満足そうに笑った。その表情には、これから大軍を率いて東へ向かう武人としての高揚が隠しきれずに表れていた。
「兄上、これだけ兵が増えると、指揮を執るのも大変になりますね。部隊の編成を三輪山までに完了しておかないといけません」
「まあ、俺に任せておけ。これだけの兵数だ、心が躍るではないか! 航海の間にも部隊を整え、上陸する頃には立派な東征軍に仕上げてみせるぞ」
「承知いたしました。私も日臣たちと協力して、できる限りお支えいたします」
磐余彦はそう答えながらも、目の前に広がる軍勢の大きさに、改めて今回の遠征がこれまで経験してきた戦とは違うことを感じていた。港では兵たちが威勢のよい声を上げ、船頭たちは積み込まれた荷の重さを確かめながら、海人たちと出航の手順を確認している。沖合に目を向ければ、幾隻もの船が帆を畳んで停泊しており、これからさらに多くの兵と物資を乗せて東へ向かおうとしていた。
これほどの軍勢を動かすとなれば、兵の編成や食糧の確保だけでも容易なことではない。まして、目的地はこれまで大倭壱国が一度も征服できなかった三輪山であり、亡き邇芸速日が築き上げた東国の巨大勢力が待ち構えているのだ。
磐余彦は、港の向こうに広がる海を見つめながら、静かに息をついた。日向を旅立った時には、まだどこか実感のなかった出征命令が、今では目の前に集まった兵と船団によって、はっきりとした現実になっていた。
――本当に、東征が始まるのだ。
これから始まる長い旅路の先に、何が待ち受けているのかはわからない。それでも磐余彦は、傍らで意気揚々と船団を眺めている兄の姿を見て、今はその背中を支えながら、与えられた役目を精一杯果たそうと心に決めるのだった。
日向の地では、東征軍が宇佐を発ってから幾日かが過ぎていたが、その後の動向はまだ何一つ伝わっておらず、伊邪那岐は朝になるたびに使者が来ていないか気にするようになっていた。彦五瀬と磐余彦が兵を率いて東へ向かったことは承知しているものの、どこまで進んだのか、どのような状況にあるのかさえ分からないまま、ただ知らせを待つ日々が続いていたのである。
日向は穏やかで暮らしやすい土地だったが、遠征軍の動向を知るには、あまりにも遠かった。宇佐にいれば各地から使者や船が集まり、少なくとも日向にいるよりは早く知らせを受け取れるはずである。そう考えた那岐は、しばらく思案した末に、竹と浦へ相談してみることにした。
「竹、浦、実は少し考えていることがあるんだけれど、二人に相談してもいいかな?」
那岐が声をかけると、身の回りの片付けをしていた竹が手を止め、浦も興味を引かれたように顔を向けた。
「はい、なんでございましょうか。何かお困りのことでも?」
「相談ですか? もちろんいいですよ、那岐様」
「うん。磐余彦たちのことが気になっていてね。日向にいると、どうしても知らせが届くまでに時間がかかってしまうでしょう? だから、いっそのこと宇佐へ移り住もうかと考えているんだ。あの地なら月読もいるし、東征軍の動向も早く分かると思うんだけれど、二人はどうかな?」
「行きます! すぐに引っ越しの準備をしましょう!」
那岐が話し終えるや否や、竹が勢いよく立ち上がった。普段は生真面目で、何事にも慎重な竹が、相談の内容を吟味することもなく即答したのである。その隣では浦も満面の笑みを浮かべ、すでに荷物をまとめるつもりになっていた。
「私も賛成! 宇佐なら知らせも早く届くし、こんな古びた家にいつまでもいても仕方ないものね」
「……古びた家……」
那岐は思わず自分の家を見回した。確かに建ててから随分と年月が経っており、柱には傷もあれば、床板には何度も修繕した跡が残っている。それでも、自分なりに大切に手入れをしてきた家だっただけに、浦の何気ない一言が胸にちくりと刺さった。
「あれ、那岐様? どうかしました?」
「ううん、何でもないよ。そうだね、確かに古くなったものね……」
那岐は少し寂しそうに微笑んだが、浦はその微妙な表情の変化に気づく様子もなく、早くも竹と引っ越しの相談を始めていた。
「ねえ竹、荷物はどのくらいにまとめる? 宇佐まで運ぶんだから、あまり多いと大変よね」
「そうね。普段着と武具、それから必要な日用品くらいで十分じゃないかしら。運搬が大変だから、持っていくものはできるだけ減らしましょう」
「それなら宇佐で新しい衣装が欲しいなあ。昔と違って、今なら少しはいいものを買えるでしょう?」
「浦、遊びに行くわけじゃないんだからね。私たちは那岐様の護衛なんだし、まずは住む場所を整えてからよ」
「分かってるってば。でも、せっかく宇佐に行くんだから、少しくらい楽しみがあってもいいじゃない」
二人の話はすっかり引っ越すことを前提に進んでおり、那岐がいつ出発するのかを決める前から、持っていく衣服や武具の話で盛り上がっていた。つい先ほどまで相談に乗ってもらうつもりだった那岐は、もはや自分が口を挟む余地もないことに気づき、苦笑しながら二人のやり取りを眺めていた。
それにしても、こうもあっさりと決めてしまうものなのか。
那岐にとって、この家は十二年にわたって子供たちと暮らしてきた大切な場所だったが、竹と浦にとっては、これから先の人生の方がずっと大切なのだろう。二人ともまだ十九歳であり、これから経験することも、出会う人々も、数え切れないほどあるはずだった。まして、東へ向かった磐余彦のことが気になっているのなら、少しでも近くに行きたいと思うのは当然のことだった。
那岐はそんな二人の気持ちを察しながらも、自分だけが家に未練を残しているようで、少しばかり寂しく感じていた。
それから数日、三人は宇佐へ移るための準備を進めた。竹は持っていく武具や衣服を手際よくまとめ、浦は食糧や旅に必要な品を用意していたが、那岐は二人の作業を手伝いながらも、時折、家の中を見回しては懐かしい思い出に浸っていた。
そして、いよいよ日向を発つ朝がやってきた。
荷物をまとめ終えた竹と浦は、家の前で楽しそうに話しながら那岐を待っていたが、当の那岐はなかなか外へ出てこなかった。別に忘れ物をしたわけでも、旅立つ準備ができていないわけでもない。ただ、もう一度だけ家の中を見ておきたかったのである。
かつて、この家には六人の子供たちが暮らしていた。
狭野、日臣、大久米、椎根津彦、竹、浦。
皆がまだ幼く、那岐の周りで騒いでいた頃は、朝から晩まで誰かの声が聞こえていた。座学の時間になれば椎根津彦だけが嬉しそうに書物を開き、ほかの子供たちは露骨に嫌そうな顔をして、何とかして逃げ出そうとしていたものだった。
特に狭野は落ち着きがなく、ちょっと目を離した隙に庭へ逃げ出しては、竹に捕まって連れ戻されていた。大久米は黙って座っているものの、気づけばうとうとしており、浦に至っては竹の背中に隠れて居眠りをしている始末で、那岐は毎日のように苦笑しながら子供たちを教えていた。
春になれば皆で田へ出て、泥だらけになりながら苗を植えた。田仕事を嫌がる子供たちを何とか励まそうと、那岐が田植え歌を歌い始めると、浦が面白がって真似をして、やがて皆も一緒になって歌い出したものだった。もっとも、調子に乗って長々と田仕事を続けた結果、那岐自身が腰を痛めてしまい、竹から無理をしないようにと叱られたこともあった。
夕暮れには皆で食卓を囲み、その日の出来事を話しながら食事をした。浦が料理を手伝うと言い出した日は、なぜか決まって食卓に奇妙な味の料理が並び、皆が渋い顔をしながら食べることになった。本人だけは自信満々で感想を求めてくるものだから、誰もなかなか本当のことを言い出せず、最後には日臣や竹が我慢できなくなって注意するのがいつもの流れだった。
そして夜になると、疲れ果てた子供たちは驚くほど早く眠ってしまった。
寝相の悪い狭野が毛布を蹴飛ばし、日臣がその毛布を奪い、浦はいつの間にか竹に抱きついて眠っていた。大久米は寝返りを打つたびに隣の者を押しのけてしまうし、椎根津彦は夜遅くまで書物を読もうとして、那岐に灯りを消されていた。
そんな子供たちが風邪をひかないように、那岐は夜中に何度も起きては毛布をかけ直し、寝顔を確かめていたものだった。
今思えば、なんと騒がしく、なんと幸せな日々だったのだろう。
あの頃は皆が小さく、何をするにも那岐を頼ってくれた。狭野は泣きながら抱きついてきたし、浦は何かあるたびに甘えてきた。竹はいつも生意気なことを言いながらも、困ったときには必ず那岐のもとへ相談に来てくれた。
けれども、子供たちは成長した。
狭野は磐余彦と名を改め、妻を娶り、今では兵を率いて東へ向かっている。日臣も大久米も椎根津彦も、それぞれの才能を伸ばし、主君を支える立派な家臣になった。そして竹と浦も、もはや護衛見習いではなく、那岐が安心して背中を任せられるほどの武人に成長していた。
皆が自分の道を見つけ、那岐の手を離れて歩き始めている。
それは喜ばしいことであり、育ててきた者として誇らしくもあったが、同時に、もう二度とあの頃には戻れないのだという寂しさを、那岐はどうしても拭うことができなかった。
できることなら、ずっとあのままでいたかった。
皆で田仕事をして、勉強をして、食事をして、夜になれば子供たちの寝顔を確かめる。そんな何でもない日々が、もう少しだけ続いてくれたなら、どれほど幸せだっただろう。
「……本当に、みんな大きくなったね」
誰もいない家の中で、那岐は小さく呟いた。
返事はなかったが、使い込まれた食卓も、何度も修繕した床板も、子供たちが背丈を測るために刻んだ柱の傷も、何もかもが懐かしく、まるで昨日まで皆がここで暮らしていたかのようだった。
那岐はしばらく家の中を見回してから、最後にもう一度だけ部屋の奥へ目を向けた。そして、懐かしい思い出を胸にしまい込むように静かに息をつくと、ゆっくりと戸を閉めた。
「那岐様ー! そろそろ行きましょう!」
「荷物は全部まとめましたから、もう出発できますよ!」
外では竹と浦が笑顔で待っていた。二人とも新しい暮らしへの期待に胸を膨らませているようで、今にも先へ歩き出しそうな勢いだった。
「うん、お待たせ。では、行こうか」
那岐は二人に柔らかく微笑みかけると、荷物を手にして歩き始めたが、家から少し離れたところで、もう一度だけ振り返った。
子供たちの声が絶えることのなかった家は、今では静まり返っている。
その家を背にして、竹と浦はこれからの宇佐での暮らしや磐余彦たちの話を楽しそうに続けていたが、那岐だけはしばらく口数が少なく、二人の後ろをゆっくりと歩いていた。
嬉しそうな双子を眺めながら、那岐は自分だけが過ぎ去った日々に取り残されているような気がして、少し寂しそうに微笑んだのだった。




