二話 東征命令
彦五瀬と磐余彦が軍を率いて宇佐へ向かった頃、その話は那岐の耳にも届いていた。
磐余彦が兵を率いて宇佐へ向かった――ただそれだけで、何のための出征なのかまでは分からない。事情が気になった那岐は、竹と浦を伴って鵜葺の館を訪ねることにした。
「よくおいでくださりました。那岐様、ささ、こちらに」
鵜葺はそう言って上座を勧めたが、那岐は穏やかに首を振った。
「私はとっくに隠居した身、このままでいいよ」
「左様で……それで、どのようなご用件で」
「磐余彦が兵を率いて宇佐に向かったと聞いてね。事情が知りたくなったのだよ。一体何があったの?」
那岐が尋ねると、鵜葺は少し困ったような表情を浮かべた。
「それが、出征とは聞いているのですが、行き先を知らされておらんのです」
「兵を率いている以上、どこか戦を仕掛けるのでしょうけれど……そうですか」
那岐は考え込むように視線を落とした。すると鵜葺が、あくまで推測だと前置きするように言葉を続けた。
「ただ、予想の範疇を出ないのですが、おそらく三輪山に戦を仕掛けるのではと」
「え? でも三輪山には邇芸速日がいるのに……」
思わず那岐は聞き返した。
那岐も知っていた。三輪山に邇芸速日がいること、それ自体が大きな抑止力となり、大倭壱国連合が容易に戦を仕掛けることができなかったことを。
だが、鵜葺の次の言葉は、那岐が思いもしなかったものだった。
「その邇芸速日は、先月亡くなったとのことです」
その言葉を聞いた瞬間、那岐の表情が止まった。まるで時間まで止まってしまったかのように、何の反応も返さない。
傍らに控えていた竹と浦は、すぐにその異変に気づいた。
「そ、そうですか……ありがとう。教えてくれて……」
ようやく那岐の口から出た声は、わずかに震えていた。
家に戻ってから、那岐は一言も口をきかなかった。いつものように食事だけは済ませたものの、そのまま自室へ入り、戸を閉めてしまった。
あまりにも様子がおかしい。
心配になった竹と浦は、しばらく時間を置いてから那岐の自室を訪ねた。声をかけても返事がないため、そっと中へ入る。
すると那岐は、寝床の上で眠っていた。
ただ眠っているだけではなかった。閉じられた目の端には涙の跡が残り、頬にもまだ乾ききっていない雫が伝っている。
その姿を見た竹と浦は顔を見合わせると、何も言わず那岐のそばへ身を寄せた。
それからしばらくして、那岐はゆっくりと目を覚ました。
「……ん……」
ぼんやりと目を開き、いつもとは違う感触に気づく。
なぜか自分の頭は浦の膝の上に乗せられていた。浦は何も言わず、長い黒髪を優しく撫で続けている。そしてすぐ目の前には、竹が心配そうな表情を浮かべて座っていた。
那岐は二人の顔を交互に眺め、ようやく事情を察した。
「……心配させてしまったかな」
竹は少し困ったように眉を寄せた。
「あからさまに落ち込まれていましたから……」
浦は那岐の髪を撫でながら、少しだけ微笑む。
「膝枕はお嫌ですか?」
「そんなことないよ」
那岐は浦の膝に頭を預けたまま、穏やかに目を細めた。
「ありがとう」
「邇芸速日様は、那岐様のお孫だと聞いています。どのような方だったのですか?」
竹に尋ねられ、那岐は少しだけ懐かしむように目を細めた。
「ん? あの子はね……幼い頃は体力がなくて、妖力も不老長寿の能力もなかった。ただの普通の人間だったんだ。そのことをずっと気にしていてね。一族の中では、自分は落ちこぼれなんだって悩んでいたよ」
「でも、三輪山では凄い方だったと聞いていますけど……」
浦が不思議そうに首を傾げると、那岐は穏やかに頷いた。
「うん。ある時、父親の須佐之男から頼まれて、私があの子の面倒を見ることになったんだ。でも、接してみてすぐに分かったよ。あの子は、とても優秀な子だった」
那岐の声には、孫を誇るような柔らかな響きがあった。
「一度読んだ書物の内容をほとんど覚えてしまう。それだけじゃない。書いてある意味を深く理解して、自分なりに考えて、もっと良い方法に改めようとするんだ。教えたことを覚えるだけじゃなくて、その先まで考えてしまう子だったよ」
「すごいですね……」
竹が素直に感心すると、浦は何か思い当たったように言った。
「椎根津彦みたい」
「ふふ、少し似ているかもしれないね」
那岐は小さく笑った。
「兵法にも興味を持ってね。もっと学びたいから兵法書が欲しいって頼まれたんだ。あの頃は手に入れるだけでも大変でね。随分苦労して探したものだよ」
そう語る那岐の表情は、悲しげでありながらも、どこか嬉しそうだった。
「あの子は、生まれ持った力に恵まれていたわけじゃない。だからこそ学んで、考えて、努力して、自分で自分の道を切り開いたんだよ」
那岐は静かに目を伏せた。
「……立派な子でした」
「那岐様、私達だって玄孫ですのよ」
竹がそう口にすると、浦も那岐の顔を覗き込みながら続けた。
「私達が死んだら、泣いていただけるのかしら?」
その問いに、那岐はすぐには答えなかった。黙ったまま二人を見つめ、やがて竹と浦の手をそれぞれ握りしめる。
「……死ぬなんて言わないで欲しい」
静かな声だった。しかし、握られた手に込められた力が、那岐の気持ちを何よりも雄弁に伝えていた。
竹と浦は顔を見合わせる。軽い気持ちで口にした言葉が那岐を悲しませてしまったことを後悔した。それでも同時に、自分たちを失うことをこれほどまでに恐れてくれていることが、少しだけ嬉しくもあった。
宇佐に到着した彦五瀬と磐余彦は、そのまま宇佐の宮へと出向いた。
主祭殿の二階にある広間では、月読が二人を待っていた。
「彦五瀬、磐余彦、よく参った」
「はっ」
「はっ」
二人が揃って頭を下げると、月読は静かに口を開いた。
「この度、そなたらに来てもらったのは、大きな戦になる可能性を想定してのこと」
「それで相手はどこでしょう」
彦五瀬の問いに、月読は短く答えた。
「三輪山だ」
しかし彦五瀬も磐余彦も、さほど驚かなかった。宇佐へ兵を率いて呼び出された時点で、ある程度は予想していたからである。
「まずこれを渡す、彦五瀬」
月読は傍らに置かれていた宝物を手に取り、彦五瀬へと差し出した。
「……これは」
「三種の神器だ」
受け取った彦五瀬が思わず息を呑む。その隣では、磐余彦も目を見開いていた。
「これが噂の……」
「三種の神器を持ち東に赴き、三輪山の一族の娘と婚姻をし、主になるべし」
その言葉の意味を理解した磐余彦が、兄へ視線を向ける。
「つまり兄上が天孫降臨をされると」
「その通りだ」
天孫降臨とは、文字通り天から神が降りてくることではない。
男系の者がその地へ赴き、現地を治める豪族の娘と婚姻を結ぶことで、その一族との血縁を作り、新たな主として土地を治める。それがこの時代における天孫降臨であり、武力だけで相手を屈服させるよりも比較的平和的な支配の方法でもあった。
月読は彦五瀬と磐余彦を見据えながら、これからの進路を告げた。
「まずは宗像にある社に向かい、航海安全の祈願の儀式を行うように。当地には兵を集結させておる。その兵と合流し、東征軍を編成するのだ。阿岐国と吉備国を経由して、三輪山に向かいなさい」
その言葉を聞き、彦五瀬がわずかに眉を寄せた。
「しかし吉備国は大倭壱国連合ではございません。兵を率いて向かって大丈夫なのでしょうか? 戦になるのでは?」
「吉備国は大倭壱国連合である」
月読が当然のことのように答えると、今度は磐余彦が驚いた。
「そんな話は聞いたことがありません」
「そういう密約であった。この日の為に仕掛けたからくりである」
表向きには大倭壱国連合へ加わっていない吉備国も、実際には以前から密かに話がついていたのである。
彦五瀬は月読の言葉の意味を確かめるように尋ねた。
「つまり兵を率いて向かえば、吉備国は大倭壱国連合として参加すると?」
月読は静かに頷いた。
「彦五瀬、三輪山には定期的に使者を送り、戦を回避して天孫降臨を目指すよう。戦は出来るだけ避けよ」
「承知いたしました」
彦五瀬が頭を下げると、月読は隣に座る磐余彦へ視線を移した。
「磐余彦、そなたも兄を支え、この度の大役を果たせ」
「承知いたしました」
「それと、この旗も持っていくがよい」
月読の合図を受け、二本の旗が彦五瀬と磐余彦の前へ運ばれてきた。
一方には金色の円が大きく描かれ、もう一方には銀色の円が描かれている。どちらも遠くからでも一目で分かるほど鮮やかな旗であった。
「日之御旗と月之御旗だ」
彦五瀬は二本の旗を見上げた。
「見事な御旗です」
磐余彦も旗を見つめながら、その意味をすぐに理解した。
「日之御旗は日巫女様を、月之御旗は月読様ですね」
「うむ。儂の軍旗も授ける。頼んだぞ」
彦五瀬と磐余彦は姿勢を正し、同時に深く頭を下げた。
「はっ」
主祭殿を出た彦五瀬と磐余彦は、並んで廊下を歩きながら、先ほど月読から告げられた命令の重さを改めて噛み締めていた。三輪山への東征、三種の神器、そして天孫降臨。ある程度は予想していたとはいえ、実際に命を受けてみれば、二人の胸には驚きと緊張が入り交じっていた。
「今回の出征は長くなりそうですね」
磐余彦が呟くと、彦五瀬は腕を組みながら考え込む。
「宗像には兵を用意して頂くとか。どのくらい集まっているのか」
「我らの兵を合わせれば、相当な数になるでしょう」
日向から率いてきた兵だけではない。宗像に集められている兵まで加われば、東征軍はかなりの規模になるはずだった。
彦五瀬は少し歩いたところで口を開いた。
「月読様は使者を定期的に送れと申されていたが、おそらく交渉だけでは難しいだろうな」
「使者を送らないおつもりですか?」
「いや、使者は送る。だが、結局は背景の武力が無ければ交渉になるまい。だからこその大軍での東征であろう」
彦五瀬は、戦そのものを望んでいるわけではなかった。しかし相手に要求を受け入れさせるには、言葉だけでは足りない場合がある。こちらに戦うだけの力があると示してこそ、初めて交渉の場に着かせることができる。今回集められる大軍には、そうした意味もあるのだろう。
「大戦にならないよう願うばかりです」
磐余彦がそう答えると、彦五瀬も小さく頷いた。
しばらく二人は黙って歩いていたが、不意に彦五瀬が何かに気付いたように顔を上げた。
「それはそうと、俺の嫁とりがこなかったのは、今回の東征を想定してのことだったのか……」
これまで自分だけ婚姻の話が進まなかった理由を、ようやく理解したらしい。
磐余彦は兄の顔を見上げ、少し楽しそうに笑った。
「そのようで、美人だといいですね」
「こいつ、からかうな」
彦五瀬は苦笑しながら、磐余彦の頭を軽く小突いた。




