一話 宇佐招聘
西暦二百四十八年初頭。磐余彦が自立してから、すでに三年の月日が流れていた。竹と浦は十九歳、椎根津彦は十八歳、そして磐余彦、日臣、大久米は十七歳になっていた。
その日、鵜葺の館には宇佐から使者が訪れていた。
鵜葺は使者から伝えられた要件を聞くと、静かに承諾した。やがて使者が館を去ると、鵜葺は二人の息子を呼び寄せることにした。
伝えられた命令は、二人の息子が兵を率いて宇佐へ赴き、出征に備えよというものだった。
彦五瀬については、鵜葺もいずれこのような日が来るだろうと予想していた。これまで婚姻を控えさせられていた以上、何か大きな役目が用意されているのだろうとは考えていたのである。
だが、磐余彦まで出征させることになるとは、鵜葺にとって決して望ましいことではなかった。
鵜葺は磐余彦をできる限り手元に置いておきたかった。いずれ自分の跡を継ぎ、この日向の地を治める者になってほしいと願っていたからである。
しかし、宇佐から正式に命が下った以上、逆らうことはできない。出征そのものは仕方がない。父として今できることは、ただ二人の息子が無事に役目を終え、再び日向へ帰ってくることを願うだけだった。
館には、兄の彦五瀬と弟の磐余彦が揃って参じてきた。鵜葺は二人の息子を前にすると、余計な前置きをせず本題を告げた。
「出征の話があった」
「出征? どこを攻めるのでしょうか?」
彦五瀬がすぐさま問い返した。しかし鵜葺は、ゆっくりと首を横に振った。
「知らされておらん。ただ出征命令なのだ」
「内容を詳しくお教えください」
今度は磐余彦が尋ねる。
「うむ。そなたら二名に兵を率いて宇佐の宮、つまり女王日巫女様の元に参じろとのことだ。ただ、出征先については教えられておらん」
「宇佐で正式な命令が下るのでしょうが……」
彦五瀬はそう呟きながら考え込んだ。
「そもそも何故、兄上と私なのでしょうか?」
磐余彦の疑問に、鵜葺は腕を組みながら答えた。
「近年、大きな戦もなかったからの。それに、そなたら兄弟は先の戦での活躍で、大倭壱国中に名が轟いておる。若き大倭壱国の英雄だとな」
その言葉を聞いた彦五瀬の表情が、わずかに険しくなった。
「ひょっとして……三輪山の邇芸速日が亡くなったという噂は、本当なのかもしれません」
「その噂は本当だ」
鵜葺は静かに答えた。
「三輪山の主、邇芸速日は病で亡くなったそうだ」
その名が出た瞬間、室内の空気が重くなる。
邇芸速日は三輪山を中心として東国諸国を束ね、大倭壱国連合に並ぶほどの巨大勢力を築き上げた主である。その死が事実ならば、東国の均衡そのものが大きく揺らぐことになる。
「それで出征すると?」
磐余彦が尋ねた。
「まだ確定はしておらんが、可能性は高いな」
鵜葺は二人を見据えた。
「それぞれ兵を集め、宇佐に向かえ。留守中は儂がそなたらの領地と館を管理しておく」
「はっ」
彦五瀬と磐余彦は、揃って力強く返事をした。
磐余彦の館では、宇佐から届いた出征命令について話し合いが行われていた。
「邇芸速日が亡くなった?」
日臣が驚いたように声を上げると、椎根津彦はしばらく考え込んだ後、静かに頷いた。
「なるほど。それで出征ですか……」
傍らで話を聞いていた吾平津媛は、聞き慣れない名に首を傾げた。
「その方はどのような方だったのでしょうか?」
「ああ……姫は知らないよね」
磐余彦は吾平津媛へ向き直ると、邇芸速日について説明した。
「邇芸速日は、三輪山を中心に東の諸国を束ねていた大勢力の主だった方だよ」
「生涯一度も戦で負けたことがなかったとか。戦の天才ときいてます」
日臣がそう付け加えると、椎根津彦は首を横に振った。
「戦以上に政治力の方が凄いですよ。東の豪族を束ねて、我ら大倭壱国連合に並ぶほどの勢力を作られておられた」
ただ戦に強かっただけではない。数多くの豪族がそれぞれの土地を治める東国を一つの大きな勢力としてまとめ上げ、大倭壱国連合と拮抗する存在へ育てた人物。それが三輪山の主、邇芸速日だった。
それまで黙って話を聞いていた大久米が、短く口を開いた。
「那岐様の孫でもあられる」
「そうだね……」
磐余彦の表情がわずかに曇った。
「もし、本当に三輪山への出征であれば、悲しまれるだろうな……」
幼い頃から自分たちを育て、見守ってくれた那岐にとって、邇芸速日は血を分けた孫である。その孫が亡くなった直後に、今度は自分たちがその遺した国へ兵を向けることになるかもしれない。
磐余彦はそのことを思うと、素直に喜べる出征ではなかった。
伊邪那岐と伊邪那美の間に生まれた三人の子供たちは、それぞれ異なる系統へと分かれ、その血筋は各地へ広がっていた。
一つは女王・日巫女の系統であり、大倭壱国の中核を成す一族である。磐余彦もまた、その系譜に連なる者だった。
二つ目は月読の系統で、壱岐や伊予を中心に多くの一族が広がっている。竹と浦も、この月読の血を引く者たちであった。
そして三つ目が須佐之男の系統である。その血筋は出雲や三輪山へと広がり、五十猛、邇芸速日、そして宇摩志麻遅らがその系譜に名を連ねていた。
だが磐余彦にとって伊邪那岐は、ただ一族の始祖というだけの存在ではない。幼い頃から磐余彦をはじめとする仲間たちを大切に育て、学問や武芸だけでなく、生き方そのものを教えてくれた人でもあった。血筋を遡れば遠い祖先でありながら、磐余彦たちにとっては育ての親と呼んでもよいほど身近な存在だったのである。
隠居して久しい那岐様ならば、きっと今回の出兵そのものに反対するだろう。まず争わずに済む道を探し、どうにかして話し合いで収める方法を模索するに違いない。
けれども、私は大倭壱国の王族だ。
自分が望んでいるかどうかだけで、命令を拒むことはできない。たとえその先に戦が待っているとしても、王族として命じられた以上、私は従わなければならなかった。
「いつ頃、お戻りになられるのでしょう?」
吾平津媛が不安そうに尋ねると、磐余彦は少し考えてから首を横に振った。
「分からない。兵を率いて宇佐に参じろとしか命じられてないから」
出征を命じられたとはいえ、行き先すら明らかにされていない。いつ戻れるのかなど、磐余彦にも答えようがなかった。
「いずれにしても兵の準備をいたします」
日臣がすぐに動こうとする一方、椎根津彦は冷静に状況を整理する。
「まだ三輪山と決まったわけではありませんから」
「そうだね。日臣には軍の編成を任せる」
「承知いたしました」
「椎根津彦は兵糧と装備等の準備をたのむ」
「心得ました」
「大久米は兵達の装備確認を頼む」
大久米は何も言わず、力強く頷いた。
行き先も戦の規模も分からない以上、今できることは出征に備えることだけだった。磐余彦はそれぞれに役目を任せると、最後に吾平津媛へ顔を向けた。
「姫、留守を頼みます」
「はい、無事のお帰りをお待ちしてます」
吾平津媛の言葉に、磐余彦は静かに頷いた。
かつて山の中で泣いてばかりいた狭野は、もういない。今の磐余彦は仲間たちにそれぞれの役目を任せ、自らも一軍を率いる立場にある。かつての泣き虫だった少年は、今では成人し、大倭壱国の王族として立派な成長を見せていた。
数日後、港には出征のために集められた兵たちが集結していた。岸辺には何隻もの船が並び、兵たちは武具や兵糧を次々と船へ積み込んでいく。慌ただしく人が行き交う中、彦五瀬と磐余彦もそれぞれの軍勢を率いて出立の準備を進めていた。
彦五瀬は港に集まった兵たちを眺めながら、隣に立つ弟へ声をかけた。
「今回の戦は長いかもしれんな。別れは済ませてきたか?」
「はい。でも、生きて戻るつもりですから」
磐余彦がそう答えると、彦五瀬は少し笑った。
「それはそうだ。俺はまだ嫁も貰ってないからな。お前が羨ましいぞ」
「兄上の婚姻は、日巫女様が差し止めていたと聞いたことがあります。今回の出征にも関係するのでしょうか?」
「わからない。いずれにしても、宇佐に行けばわかることだ」
まだ出征先すら知らされていない以上、ここで考えても答えは出ない。宇佐へ赴き、日巫女から正式な命令を受けるまでは、二人にできることは与えられた役目に備えることだけだった。
磐余彦は改めて兄へ向き直った。
「精一杯、お支えさせていただきます」
「頼りにしているぞ」
彦五瀬は力強く答えた。
やがて出立の時が訪れ、彦五瀬と磐余彦はそれぞれの軍を率いて港を離れ、宇佐へと向かった。
この時の彼らには、まだ知る由もなかった。
今回の出征が、後に神武東征と呼ばれる大遠征となることを。そして、この出征を境に、彼らが生涯二度と日向へ戻ることがないということを。
※本作は『【新説古事記】邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』の神武編を、神武天皇を主人公として再構成・再執筆した独立作品です。
本作単独でお読みいただけます。




