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泣き虫皇子は仲間を集めて初代天皇になる!―神代の終焉と神武東征―  作者: 月見
一章 神武

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二十四話 五十猛と邇芸速日、巨星落ちる

 西暦二百四十六年。磐余彦が自立してから、二年の歳月が流れていた。


 近畿の三輪山、その麓に広がる纏向の宮に、ひとりの老いた大男が訪れていた。かつて須佐之男王の主力軍を率い、倭国大乱の戦場で名を馳せた五十猛である。今ではすっかり白髪となり、顔にも深い皺が刻まれていたが、七尺に迫る巨躯と、その穏やかな眼差しには、かつての面影が残っていた。


 宮の主である邇芸速日は、五十年以上も会うことのなかった兄を自ら出迎えた。


「兄上! よくぞおいでくださいました。まさか、またお会いできるとは思っておりませんでしたぞ」


「おお、邇芸速日! 随分と立派になったものじゃのう。いや、もう立派な爺さんと言うべきか。ほっほっほ!」


「兄上こそ、昔の面影がないほどお年を召されましたな。最初は誰が来たのかと思いましたぞ」


 二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。


挿絵(By みてみん)


 若い頃は父である須佐之男に従い、共に戦場を駆け巡った兄弟であったが、今ではそれぞれが異なる道を歩んでいた。邇芸速日は三輪山を中心とする東国の国々をまとめ、五十猛は戦を捨て、倭の山々に木を植えながら暮らしていたのである。


 久しぶりの再会を祝うため、邇芸速日は宮の広間に酒と料理を用意させた。二人は杯を交わしながら、幼い頃の出来事や、今は亡き親族たちの思い出を語り合った。


「そういえば兄上、四十年ほど前のことになりますが、那岐様が忍びでこの地においでになられたことがありましてな」


「ほう、おじい様が? それで、どうなされたのじゃ?」


「それが、巫女に化けておられたのですよ。衣装から化粧まで見事なもので、儀式も完璧にこなされましてな。儂以外、誰も那岐様だと気づかなんだ」


「なんと! それは見たかったのう!」


 五十猛は膝を叩いて笑い、昔、出雲で耳にしたという伊邪那岐の話を持ち出した。


「そういえば、遥か昔の八岐大蛇退治でも、おじい様が巫女舞を披露して父上を手伝われたと聞いたことがあるぞ。あのお方は昔から、そういうことがお得意だったのじゃな」


「まったくです。あの可愛らしいお顔に巫女の衣装を着られては、誰も疑いますまい。儂も最初は目を疑いましたが、あの方の妖気だけは見間違えようがありませんでした」


「ほっほっほ! おじい様は今でもお変わりないようじゃのう」


 酒が進むにつれて昔話は尽きなくなったが、二人とも倭国大乱についてだけは、意識して話題を避けていた。


 あの戦乱から長い年月が過ぎ、実際に戦場を知る者も、今ではほとんど残っていない。それでも、飢えに苦しむ人々や焼き払われた村々、幾度となく目にした戦場の惨状は、二人の記憶から消えることがなかった。


 まして、父である須佐之男の最期については、どちらも口にしようとしなかった。兄弟は互いに相手が何を思っているのか察しており、今さら傷を開くような話をする必要はなかったのである。


 やがて邇芸速日は杯を置き、改めて兄に尋ねた。


「ところで兄上、今回はどのようなご用向きで、この地までおいでになられたのですかな?」


「おお、そうじゃった。実はな、この辺りの山々にも木の種を植えて回りたくてのう。せっかく近畿まで来たのじゃから、三輪山にも入ってよいかと思っておったのじゃ」


「なんだ、そのようなことでしたか。もちろん構いませぬ。三輪山でも、その周辺でも、兄上のお好きなところへお出かけくだされ。必要なものがあれば、遠慮なく申しつけてくだされよ」


「ありがたい。しばらく世話になるぞ」


 五十猛は嬉しそうに杯を傾けたが、ふと弟の顔を見つめると、先ほどまでの笑顔を少し曇らせた。


「それにしても、お主、随分とやつれたのう。昔から身体は丈夫ではなかったが、今も病を患っておるのか?」


「ええ、もう随分と長い付き合いになりましてな。医師にも診せておりますが、近頃は身体が言うことを聞かなくなってきました。どうやら、そう長くはありますまい」


 邇芸速日は何でもないことのように答えたが、その頬は痩せ、かつての精悍な面影にも衰えが見えていた。若い頃から病弱であった身体は、長年にわたる政務と老いによって、少しずつ限界を迎えようとしていたのである。


「兄上こそ、そのお姿はどうされたのです? いくら年月を重ねたとはいえ、妖力をお持ちの兄上が、それほどお年を召されるとは……。随分と無理をなさっておられるのではありませんか?」


 五十猛は自分の大きな手を眺め、深い皺の刻まれた指をゆっくりと開いた。


「気にすることはない。儂はもう、妖術も長寿もいらぬのじゃ。木を育てるために使えるのなら、残った妖力など惜しくはないわい」


「しかし、それでは兄上の寿命が……」


「邇芸速日よ。儂は化け物でも神でもない。人間じゃ。人間として生き、人間として死にたい。それだけのことよ」


 五十猛の口調は穏やかであったが、その言葉には揺るぎない決意があった。


 邇芸速日はしばらく兄の顔を見つめ、それ以上、何も言えなくなった。


 かつての五十猛は、父である須佐之男だけを見て生きていた。父の強さに憧れ、その期待に応えるために身体を鍛え、戦場では誰よりも勇猛に戦った。兄にとって父の願いは、そのまま自分の願いでもあったのだろう。


 しかし、父を失った兄は戦を捨て、今では倭の国を緑豊かな大地にするため、ただひたすら木を植え続けている。


 その生き方が、長年の歳月を経て兄自身の選んだ道なのだと、邇芸速日はようやく理解した。


「……そこまでおっしゃるのなら、儂からはもう何も申しますまい。ただ、どうかお身体だけは大切になさってくだされ」


「ほっほっほ! お主も人のことは言えんじゃろう。お互い、もう若くはないのだからのう」


 二人は再び笑い合い、五十猛は思い出したように、日向で出会った一人の御子について話し始めた。


「そうじゃ、邇芸速日。日向の地に、なかなか聡明な御子がおってな。狭野(さの)という名なのじゃが、これが実に心の優しい子でのう」


「ほう、兄上がそれほど褒められるとは、よほどの御子なのでしょうな」


「うむ! 幼い頃から人を思いやる心があってのう。儂が木を植える理由を話してやったときも、目を輝かせて聞いておった。きっと将来は立派な人物になるぞ」


 五十猛は嬉しそうに磐余彦(いわれひこ)のことを語り続けた。泣いていた幼い御子に桜の花を咲かせて見せたことや、その後、祖父の伊邪那岐に引き合わせたことまで、昨日の出来事のように話すのである。


 邇芸速日は兄の話に相槌を打ちながら、そのあまりにも好意的な評価に、思わず笑みをこぼした。


 どうやら兄にとって、その御子は可愛くて仕方のない存在らしい。


 五十猛自身は気づいていなかったが、磐余彦のことを語る兄の姿は、かつて父に褒められたときの、少年時代の五十猛を思わせるものであった。




 それから五十猛は、纏向の宮にしばらく滞在することになった。


 朝になると木の種や道具を抱えて山へ入り、日が傾く頃には泥だらけになって宮へ戻ってくる。邇芸速日と食事を共にする夜もあれば、植林の途中で山小屋に泊まり、そのまま翌朝の作業を始めることもあった。


 五十猛の活動は三輪山だけにとどまらず、周辺の山々から、さらに南の海岸近くにまで広がっていった。山を歩いては木の種を植え、以前に植えた場所へ戻っては、芽吹いた苗木の周囲から雑草を取り除き、土の状態を確かめるのである。


 妖力を使えば、一本の木を瞬く間に大きく育てることもできたが、五十猛は何もかもを妖術で済ませようとはしなかった。木を植える場所を選び、土を整え、小さな種を一つずつ埋めていくこともまた、五十猛にとっては大切な仕事であった。


 やがて芽を出した苗木には、少しだけ妖力を分け与えて成長を助けてやる。


「ほれ、もう少しじゃ。しっかり根を張るのじゃぞ」


 老いた大男は地面に膝をつき、まだ頼りない苗木の根元へ丁寧に土を寄せた。かつて戦場で槍や剣を握り、幾人もの敵を討ち取ってきた巨大な手が、今では小さな苗木についた土を優しく払っている。


「大きく立派な木になれよ。お主が育てば、この山もきっと豊かになるからのう」


五十猛は満足そうに笑い、次の種を植える場所を探して、再び山道を歩き始めた。


 しかし、その身体は本人が思っている以上に衰えていた。


 長年にわたって植林のために妖力を使い続けたことで、老化は著しく進んでおり、以前なら休むことなく歩けた山道でも、近頃は息が上がるようになっていた。それでも五十猛は作業をやめようとはせず、疲れを感じれば少し休み、また歩き出すことを繰り返していたのである。


 その日も、五十猛は山の斜面に木の種を植えて回っていた。


 ひとしきり作業を終えたところで、近くにあった大きな岩へ腰を下ろし、しばらく休むことにした。額の汗を拭いながら顔を上げると、木々の間から柔らかな陽光が差し込み、植えたばかりの苗木を照らしていた。


「……よい場所じゃのう」


 五十猛は満足そうに呟き、ゆっくりと背中を岩に預けた。


 もう少し休んだら、あちらの斜面にも種を植えよう。まだ手を入れたい山はいくらでもあるし、弟の治めるこの地も、もっと緑豊かな場所にしてやりたい。


 そんなことを考えているうちに、心地よい眠気が訪れた。


 五十猛は静かに目を閉じた。


 山を渡る風が木々の梢を揺らし、遠くから鳥の声が聞こえてくる。植えたばかりの苗木の傍らで、老いた大男は穏やかな表情のまま眠り続け、そのまま二度と目を覚ますことはなかった。


挿絵(By みてみん)


 長年にわたる妖力の多用によって老化が進み、ついにその生命が尽きたのである。


 かつて須佐之男王に次ぐ猛将として、数多の戦場を駆け巡った五十猛は、最後まで誰とも争うことなく、木を植えた山の中で静かに生涯を閉じたのだった。


 数日後、山に入っていた者たちによって五十猛の亡骸が発見され、纏向の宮へと運び込まれた。


 兄の死を知らされた邇芸速日は、しばらく言葉を失っていた。


 つい先日まで共に酒を酌み交わし、昔話に花を咲かせていた兄が、もう二度と宮へ戻ってこないという現実を、すぐには受け入れられなかったのである。


 やがて安置された兄の傍らに座ると、邇芸速日はその穏やかな顔を見つめ、静かに口を開いた。


「……兄上。先に逝かれましたか」


 返事はなかったが、兄の顔には苦しんだ様子もなく、どこか満足そうな面影が残っていた。邇芸速日は、その表情を見て、ようやく小さく息をついた。


「まったく……儂より長生きしてくださってもよかったものを。まだ、あの山に植えたい木があると、おっしゃっていたではありませんか」


 五十猛の大きな手に触れながら、邇芸速日は兄が最後まで木を植えていたことを思った。


 父のために戦うことだけを考えていた兄が、父の死後、自らの生きる道を見つけ、半生をかけて倭の山々に木を植え続けた。兄の望んでいたものは、もはや戦場での勝利でも、長寿でもなく、自分が去った後も豊かに育ち続ける大地だったのだろう。


「……兄上らしい最期ですな」


 邇芸速日は兄の亡骸を丁重に葬り、その生涯を弔うとともに、五十猛を祀る社を建立することを決めた。


 若かりし頃は戦士として生き、長い後半生をひたすら木を植えることに捧げた兄を、戦の神としてではなく、木々を育て、大地を豊かにする神として祀りたかったのである。


 やがて社が完成すると、邇芸速日は政務の合間を見つけては参拝に訪れ、兄のために手を合わせるようになった。


「兄上、植えていただいた木々は、少しずつ大きくなっておりますぞ。あの山も、いずれ立派な森になることでしょう」


 邇芸速日は社の前に座り、まるで兄がそこにいるかのように語りかけた。


「儂も、そう長くはありますまい。近いうちにそちらへ参りますから、それまで、どうかお待ちくだされ」


 兄弟は生前、五十年以上もの長い歳月を別々の道で過ごしてきた。再会してから共に過ごせた時間は決して長くなかったが、邇芸速日にとって、兄と昔話を交わした日々は、晩年のかけがえのない思い出となったのである。


 五十猛が植えた木々は、その死後も人々の手によって守られ、やがて大きな森へと育っていった。


 そして五十猛命は、木の神、植林の神として、遥かな後世に至るまで、林業や木材を扱う人々の信仰を集めることになるのだった。




 西暦二百四十八年。年が明けて間もない頃、纒向の宮では、邇芸速日(にぎはやひ)が病の床に伏していた。


 長年にわたって患ってきた病は、すでに取り返しのつかないところまで進んでいた。かつて諸国の豪族を従え、三輪山を中心とする東国の繁栄を築き上げた男も、今では自ら身体を起こすことさえできず、寝床に横たわったまま静かに最期の時を迎えようとしていた。


 その枕辺には、息子の宇摩志麻遅(うましまじ)と、長年にわたって苦楽を共にしてきた安日彦(あびひこ)、長髄彦(ながすねひこ)の兄弟が控えていた。


「そろそろ儂の番のようですな」


 邇芸速日は三人を見渡し、穏やかな表情でそう告げた。すでに自らの死期を悟っているのだろう。その声には、迫り来る死への恐怖も、世に残していくものへの未練も感じられなかった。


 だが、長髄彦には、その言葉を受け入れることなどできなかった。


「何をおっしゃるのですか。この程度の病、治りますとも。今は十分にお休みになって、また元気なお姿をお見せくだされ」


 いつものように力強く言い切ろうとしたものの、その声には隠しきれない動揺が滲んでいた。


 長髄彦にとって、邇芸速日は単なる主君ではなかった。半世紀以上前、出雲軍の侵攻によって敵として出会い、戦に敗れて命を落としかけた自分たちを救ってくれたのが、まだ大年と名乗っていた邇芸速日だったのである。


 やがて妹を娶って親族となり、三輪山の統治を任されてからは、長髄彦も兄の安日彦も、その傍らで国造りに尽くしてきた。戦では自ら策を練って勝利へ導き、平時には農耕や産業を育て、民の暮らしを豊かにする。その姿を誰よりも近くで見続けてきた長髄彦にとって、邇芸速日は、いつしか主君という枠を超えた存在になっていた。


 その人が、今まさに自分の目の前で死を迎えようとしている。


「無茶を言うな、長髄彦。儂はもう、立つことすらできぬのだぞ」


「……そのようなことを、おっしゃらないでくだされ」


「ふふっ。そなたは昔から、こうと決めたら頑として譲らぬ男だったな」


 邇芸速日が懐かしそうに微笑むと、長髄彦は何かを言い返そうとしたものの、言葉が出てこなかった。いつもなら主君の軽口に応じるところだが、今は笑うことさえできなかったのである。


「長髄彦、宇摩志麻遅を頼む」


 その言葉を聞いた途端、長髄彦は顔を伏せた。


 主君が亡き後も三輪山を守り、その子に仕えることは、長髄彦にとって当然の務めであった。しかし、ここで返事をしてしまえば、邇芸速日の死を認めることになるような気がして、どうしても口を開くことができなかった。


 そんな長髄彦の様子をしばらく見つめていた邇芸速日は、無理に返事を求めることなく、傍らに控える安日彦へ視線を移した。


「安日彦……長く世話になった」


「とんでもございません。あなた様のような名君にお仕えできたことこそ、私の生涯の誇りでございます」


 安日彦は深々と頭を下げた。弟の長髄彦ほど感情を表に出すことはなかったが、その胸にある思いは少しも変わらなかった。


 かつて出雲軍に攻められた際には、敗北を悟って降伏し、窮地に陥っていた弟を説得した。その後、二人とも命を救われ、邇芸速日のもとで新たな国造りに参加することになったのである。


 政治を担う安日彦と、軍を率いる長髄彦。兄弟がそれぞれの役目を果たしながら、邇芸速日と共に歩んできた半世紀以上の年月は、安日彦にとっても、かけがえのない人生そのものだった。


「儂の方こそ、そなたたちには随分と助けられた。二人がおらなんだら、三輪山も今のようにはなっておらなんだろう」


「もったいないお言葉にございます……」


 安日彦はもう一度頭を下げたが、それ以上の言葉を続けることはできなかった。長髄彦もまた、顔を伏せたまま黙り込んでいた。


 邇芸速日は二人を見つめて小さく頷くと、今度は息子を呼んだ。


「宇摩志麻遅」


「はい、父上……」


 宇摩志麻遅は寝床の傍らに膝を寄せ、父の顔を見つめた。かつては誰よりも大きく、頼もしく感じられた父の身体が、病によってすっかり痩せ細っている。その姿を見るたびに胸が締めつけられたが、今は父の言葉を一つも聞き漏らすまいと、懸命に耳を傾けていた。


「そちは三輪山の当主だ。これからは、儂に遠慮することはない」


「当主とは申しても、所詮は父上の威光を借りているに過ぎません。私など、父上には到底及びませぬ」


「当主の座を渡して十年も経っておるというのに、まだそのようなことを言うのか」


 邇芸速日は呆れたように笑ったが、宇摩志麻遅は笑い返すことができなかった。


「父上がおられたからこそ、今の三輪山があるのです。私がこれまで政を行えたのも、父上が傍にいてくださったからでございます」


「なあ、宇摩志麻遅よ。儂は政治の考え方が違うゆえ、大倭壱国とは組まなんだ。日巫女様のもとへ下ることもなく、三輪山の独立を守り続けてきたが、それは儂が自分で考え、選んだ道なのだ」


 邇芸速日は一度言葉を切り、息を整えてから、息子の顔をまっすぐに見つめた。


「だが、そなたまで同じ道を歩む必要はない。儂の考えを守るために、そなた自身の道を狭めることはないのだよ」


「父上……」


「そなたも、もう十分によい年ではないか。いつまでも父親の顔色をうかがっておらず、自分で考え、自分の信じる道を進みなさい。それが儂の願いだ」


 宇摩志麻遅は唇を噛みしめた。父のようになりたいと願い、その背中を追い続けてきた自分に、父は最後まで同じ道を歩めとは言わなかった。


 父が築いたものを守りたいという思いは変わらない。しかし、その先へ進むためには、いつまでも父に頼っているわけにはいかないのだろう。


「……わかりました。父上には遠く及びませんが、三輪山の当主として、私なりに務めさせていただきます」


「うむ。それでよい」


 邇芸速日は満足そうに微笑むと、布団の中からゆっくりと右手を差し出した。


 宇摩志麻遅がその手を握ると、かつて自分を抱き上げ、文字を教え、幾度となく励ましてくれた父の手が、驚くほど細くなっていることに気づいた。思わず握る力を強めたが、父は何も言わず、ただ静かに息子の手を握り返してくれた。


 やがて邇芸速日は、反対側に控えている安日彦と長髄彦にも左手を差し出した。


 長髄彦はすかさずその手を両手で包み込むように握りしめた。その上から安日彦もそっと手を重ねると、邇芸速日は三人の顔を順番に見渡した。


「やれることは全てやった。随分と長く生きた。もう十分満足だ……」


挿絵(By みてみん)


 穏やかな声だった。


 三人に手を握られたまま、邇芸速日はゆっくりと目を閉じた。その表情には、長い人生を歩み終えた者の安らぎが浮かんでいた。


 宇摩志麻遅は父の手を握りながら、次の言葉を待っていた。長髄彦も、主君が再び目を開け、いつものように自分たちへ声をかけてくれることを信じようとしていた。


 しかし、邇芸速日の唇が再び動くことはなかった。


 やがて握り返していた手から力が抜け、かすかに続いていた呼吸も静かに途絶えた。


「……父上?」


 宇摩志麻遅が呼びかけても返事はなく、握りしめた手にも、もはや何の反応もなかった。


「父上……」


 宇摩志麻遅は父の手を額に押し当て、声を詰まらせた。安日彦も深く頭を垂れ、長年仕えてきた主君との別れを静かに受け止めようとしていた。


 ただ、長髄彦だけは、いつまでもその手を離そうとしなかった。


「……邇芸速日様」


 呼びかけても、主君は答えない。


 長髄彦は冷たくなっていく手を握りしめたまま、何度もその名を口にした。戦場で自分を打ち破った若き日の姿も、命を救ってくれた時の言葉も、共に国を豊かにしてきた歳月も、今なお鮮やかに思い出すことができた。


 その人が、もう二度と自分の名を呼んでくれない。


 長髄彦はうつむき、主君の手に額を寄せた。やがて、その大きな肩が小さく震え始めた。


 三輪山の偉大な為政者にして、纒向の宮の主、邇芸速日は、こうして静かに息を引き取った。


 その遺体は桧窪山に丁重に葬られ、死後、『大物主』という贈り名が贈られた。生前に築き上げた国と人々の暮らしを守り続けた功績を偲び、各地にはその霊を祀る社が建立されることになる。


 かつて一人の病弱な少年として生まれ、知恵と学問によって自らの道を切り拓いた男は、長い生涯を終え、今度は人々から神として仰がれる存在となったのである。




 邇芸速日が隠れたとの報せは、三輪山から各地へ伝わり、倭国中に大きな衝撃を与えた。


 西の大倭壱国連合と、三輪山を中心とする東国連合。倭国を二分する二大勢力は、長年にわたって互いを牽制しながらも、全面的な衝突には至らずにいた。


 その均衡を支えていたのは、ひとえに邇芸速日の存在であった。優れた兵法と統治の手腕を持ち、幾度もの戦で勝利を収めてきた彼が三輪山にいる限り、大倭壱国も容易には兵を進められなかったのである。


 だが、その邇芸速日が世を去った。東国連合の諸国では今後の動向を案じる声が広がり、西の大倭壱国では長年動かなかった情勢が、ついに変わろうとしていた。


 やがて、その訃報は宇佐の宮にも届けられた。


 主祭殿の最上階で報告を受けた日巫女は、しばらく何も言わず、静かに目を伏せた。


「……そう。あの子は逝ったのね」


 半世紀以上も昔、まだ大年と名乗っていた少年が、出雲からの使者として自分の前に現れた日のことを、日巫女は今でも鮮明に覚えていた。


 父の須佐之男とは似ても似つかぬ物腰でありながら、こちらの問いには一つとして臆することなく答え、政治の先行きまで見通してみせた聡明な少年。日巫女はその才覚を認め、養子に迎えて邇芸速日の名と十種神宝を授け、近畿の統治を委ねたのだった。


 しかし、彼は日巫女の思惑どおりに動く人物ではなかった。三輪山に拠点を定めてからは独自の政治を進め、やがて大倭壱国とは異なる道を歩み始めた。戦では無敗を重ね、治世においても諸国の信頼を集め、気がつけば倭国統一を目指す日巫女の前に、容易には越えられぬ巨大な壁として立ちはだかっていたのである。


 日巫女は、かつて自らの息子として迎えた男の生涯に思いを馳せたのち、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、先ほどまでの静かな哀惜に代わり、強い決意の光が宿っていた。


「惜しい人物でした。そして、今しかありません」


 傍らに控えていた月読も、その言葉が意味するところを理解していた。邇芸速日が生きている間は、いかに大軍を動員しようとも三輪山の攻略は容易ではなかったが、今はその軍事と政治の両面を支えてきた人物が失われ、息子の宇摩志麻遅が東国連合をまとめていかなければならない。


 日巫女が長年待ち続けてきた機会が、ついに訪れたのである。


「月読、伝令を出します」


「はい。どちらへ遣わしましょうか」


「日向の地へ。彦五瀬に伝えなさい。天孫降臨の時が来た、と」


 日巫女は、三輪山の支配を見据え、彦五瀬の婚姻をあえて控えさせていた。東国へ進出する際に、彼を中心として新たな統治体制を築くことも、かねてより構想していたのである。


「彦五瀬は、よき若者に育っております。兵を率いるにも不足はございますまい」


「ええ。それと、先の日向での戦で目覚ましい働きをした者がいましたね」


「磐余彦ですな。父上が大切に育てておられた、秘蔵っ子ともいうべき御子です」


「その磐余彦も呼び寄せましょう。彦五瀬とともに東へ向かわせます」


日巫女は月読へ向き直り、改めて命じた。


「両名に伝えなさい。兵を率い、速やかに宇佐へ参るように」


「承知いたしました。直ちに手配いたします」


 月読は深く一礼すると、伝令の手配を進めるべく主祭殿を後にした。


 日巫女はその背を見送ったのち、東の方角へ目を向けた。長年にわたり倭国統一を阻んできた邇芸速日は、もはやこの世にいない。彼が築いた三輪山の国を前に、今度は自らの子孫たちが、倭国の行く末を懸けて歩み出そうとしていた。


 こうして、倭国の二大勢力を隔てていた長い均衡は終わりを告げ、後世に神武東征と呼ばれることになる、新たな戦いの幕が上がろうとしていた。

磐余彦の成長と邇芸速日が去ったことで一章は終わりました。

次からはいよいよ神武東征編に入ります。

磐余彦と仲間たちの活躍を、応援してあげてください。

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