二十三話 和平交渉
磐余彦への襲撃は、大倭壱国と曾於族の両軍に大きな緊張を走らせた。和平交渉の最中に起きた事件だけに、ようやく見え始めていた和解への道が、再び戦火によって閉ざされかねない事態となっていた。
磐余彦は、自らの無事を父に伝えるため、鵜葺のいる本陣へと足を運んだ。
「磐余彦! 無事であったか、よかったぞ!」
息子の姿を認めた鵜葺は、安堵の表情を浮かべて迎えた。襲撃の報せを受けて以来、息子の身を案じていたのだろう。その声には、いつもの落ち着いた口調とは違う、父親としての感情がにじんでいた。
「皆のおかげで命拾いしました。父上にはご心配をおかけいたしました」
磐余彦は深く頭を下げたが、その傍らに控えていた彦五瀬の表情は険しく、弟が無事に戻ったことへの安堵よりも、和平交渉中に襲撃を仕掛けられたことへの怒りが勝っているようだった。
「父上、再戦しましょう。曾於族の連中を、今度は我らが攻勢に出て蹴散らすのです!」
彦五瀬にとって、和平に向けて話し合いを重ねている最中に弟の命を狙われたことは、到底許せるものではなかった。たとえ一部の者による独断であったとしても、曾於族が襲撃を防げなかった事実に変わりはなく、このまま交渉を続けることには納得できなかったのである。
「まあ、待て。磐余彦が無事であったことは何よりだが、今ここで我らから兵を動かせば、せっかく進めてきた交渉も無駄になってしまう。まずは事の次第を見極めねばなるまい」
鵜葺は長男をなだめると、今度は磐余彦へ視線を向けた。すると、弟もまた兄の怒りを理解しながら、今回の襲撃を別の角度から捉えていた。
「父上、今回の襲撃は、曾於族の総意ではなく、一部の強硬派が独断で起こしたものと思われます。そうであれば、曾於族の中にも交渉を続けたいと考えている者がいるはずです。むしろ、この件を交渉材料にできないものでしょうか」
彦五瀬は意外そうに弟を見たが、鵜葺はその言葉に興味を示し、しばらく考え込んだ。確かに、曾於族の代表たちが襲撃を命じていないのであれば、彼らにも今回の事件について釈明し、責任を示す必要がある。交渉を破談にするよりも、相手が和平を望んでいることを確かめたうえで、これまで難航していた条件を改めて話し合う余地があるのだ。
「そこに気が付いたか。よい着眼点だ、磐余彦。確かに、今回の襲撃を曾於族が望んでいなかったのであれば、向こうも我らとの関係を修復せねばならぬ立場にある。ひょっとしたら、これで交渉が進展するやもしれんな」
鵜葺は早速、曾於族の陣へ使者を送り、和平交渉を再開する意思を伝えた。今回の襲撃によって双方の間には新たな緊張が生じていたが、だからといって交渉を打ち切れば、ようやく見え始めた和平への道が閉ざされてしまう。鵜葺は相手の返答を待つ間にも、交渉の場における警備を改めて確認し、万一の事態に備えていた。
「もう引き留めませんが、やはり不安ではあります。今度こそ交渉の場で襲撃してこないとも言えません」
彦五瀬はなおも警戒を解いていなかった。弟が命を狙われたばかりである以上、曾於族の説明をそのまま信用する気にはなれず、再び父や弟を危険にさらすことにも強い抵抗があった。
「わかっておる。油断はせぬよ。磐余彦、お前も付いてまいれ」
「はい、父上の身辺警護、務めさせていただきます」
磐余彦は父の命を受け、交渉の場に同行することになった。和平を望んでいるからこそ、今度こそ不測の事態を起こさせてはならないと考え、父の傍で警戒を怠らぬよう心に決めていた。
やがて曾於族側から交渉再開を受け入れるとの返答が届いたが、会談に先立って、まず今回の襲撃について正式な謝罪が行われた。
曾於族の代表によれば、襲撃は一部の強硬派が独断で引き起こしたものであり、族全体の意思でも、交渉を担う者たちの指示でもなかったという。しかし、和平を協議している最中に自軍の者が相手方の皇子を襲った事実は重く、その行動を事前に察知し、制止できなかった責任については弁解の余地がなかった。
鵜葺は相手の謝罪を受け入れたものの、再び同じことが起きれば交渉の継続そのものが困難になると告げ、曾於族側に強硬派の統制を徹底するよう求めた。必要以上に相手を責め立てることはせず、しかし今回の襲撃を曖昧に済ませることもなく、再発を許さぬ姿勢を明確にしたのである。
そのうえで、ようやく和平交渉が再開された。
曾於族の代表たちの態度は、前回までとは明らかに変わっていた。それまで互いの要求を譲らず、時には声を荒らげていた者たちも、今回は相手の言葉に耳を傾け、条件を一つずつ検討するようになっていた。襲撃事件によって交渉を継続できる立場そのものが危うくなったことを、曾於族側も十分に理解していたのである。
もっとも、態度が軟化したからといって、曾於族が抱える事情まで変わったわけではなかった。
彼らが求めていたのは、何よりも食糧であった。長引く食糧難によって民の暮らしは窮迫しており、このまま何の成果もなく兵を引けば、帰国したところで飢えに苦しむ者たちを救うことはできない。戦を続ければ犠牲が増えることは承知していても、食糧を確保できないまま和平に応じることもまた、彼らには受け入れ難い選択だった。
鵜葺はその事情を踏まえたうえで、備蓄している米や粟の一部を曾於族へ供与し、さらに南部の漁場についても、一年間に限って利用を認める案を提示した。食糧を直接渡すだけでなく、曾於族が自ら魚介を獲って民を養えるようにすることで、当面の飢えをしのぐ手立てを与えようとしたのである。
ただし、漁場の利用はあくまで期限付きとし、利用できる範囲や漁に出る者たちの扱いについても、双方で取り決めを交わすことになった。曾於族が無制限に南部の漁場へ進出できるわけではなく、既にその海で暮らしている者たちの生活も守らなければならなかったからである。
この提案に、曾於族側も強い関心を示した。米や粟の供与によって当座の食糧を確保できるだけでなく、漁場を利用できれば、帰国後も一定の食糧を得られる見通しが立つ。戦を続けて領地を奪うよりも、犠牲を増やさずに民を養えるという点で、彼らにとっても受け入れる価値のある条件だった。
一方、鵜葺としても、すべてを無償で差し出すわけにはいかなかった。日向の民が蓄えてきた食糧を他国へ渡す以上、その負担に見合う説明が必要であり、何より一方的な援助という形では、曾於族側の面目を損なうおそれもあった。
そこで曾於族側から、食糧や漁場の利用に対する返礼として、後日、領内の特産品や貴重な品々を贈ることが申し出られた。これによって今回の取り決めは、勝者が敗者へ施しを与えるものではなく、互いに必要とするものを交換する合意として体裁が整えられたのである。
返礼の品目や数量については今後の協議に委ねられたものの、双方とも大筋では異論を唱えず、ようやく和平成立への見通しが立つことになった。
もっとも、食糧の供与だけで両者の問題がすべて解決したわけではない。今後の交易をどのように拡大していくのか、商人や船の往来をどこまで認めるのか、また互いの領地へ兵を侵入させないために、どのような取り決めを交わすのかなど、協議すべき事柄はなお数多く残されていた。
特に相互不可侵の取り決めについては、今後再び食糧難が起きた場合にも今回と同じ争いを繰り返さぬよう、双方が守るべき約束を明確にしておく必要があった。
しかし、こうした細部を詰めるために、いつまでも大軍を対峙させておく必要はなかった。むしろ兵を留め続ければ、それだけで食糧を消費し、些細な衝突から再び戦が始まる危険も残ってしまう。
そこで双方の交渉代表と必要な随員だけを残し、残された条件については引き続き協議することとし、両軍はそれぞれ兵を引くことで合意した。
こうして、なお正式な取り決めを残しながらも、日向と曾於族の間で続いていた戦は、ひとまず終息へ向かうことになった。
和平交渉を終えた磐余彦は、自身の陣屋へと戻った。陣の周囲では兵たちが普段どおりの警戒を続けていたが、交渉が大筋でまとまったという知らせはすでに伝わっているらしく、張り詰めていた空気も幾分和らいでいるように感じられた。
陣屋の前では日臣と大久米が待ち受けており、磐余彦の姿を認めると、二人は揃って姿勢を正した。
「お帰りなさいませ、磐余彦様。交渉はいかがだったでしょうか?」
日臣が待ちかねたように尋ねると、その隣に立つ大久米も静かに頭を下げた。磐余彦は二人に軽く頷き、陣屋の中へ入りながら、安堵したように表情を緩めた。
「ほぼ私が望んでいた形になりそうだよ。父上の交渉は本当に粘り強かった。あの襲撃騒動で相手に非があることは確かだけれど、それを責め立てるだけではなく、こちらの望む条件を引き出すために上手く利用していたんだ。私も傍で見ていて、随分と勉強になったよ」
「ということは、双方とも兵を引くのですか?」
椎根津彦が身を乗り出すように尋ねると、磐余彦は嬉しそうに頷いた。
「うん。この陣も近いうちに引き払うことになるよ。まだ交易や漁場の利用について細かく決めなければならないことは多いみたいだけれど、双方の代表が残って交渉を続けることになったから、ひとまず戦は終わりだね」
「国と国との交渉というのは、随分と長くかかるものなのですね」
竹が感心したように呟くと、磐余彦は父の隣で見聞きした交渉の様子を思い返した。戦場では敵として槍を向け合っていた曾於族の代表たちも、交渉の場では自国の窮状を必死に訴え、一歩でも有利な条件を得ようと言葉を尽くしていたのである。
「今回、父上に同行させてもらって分かったのだけれど、曾於族の人たちも必死だったんだよ。食べる物が足りなくて、このままでは国の人たちが飢えてしまう。だからといって、私たちも自分たちの民が食べる分まで渡すわけにはいかないでしょう。お互いに背負っているものが大きいから、簡単には引き下がれないし、譲れないこともあるんだ」
「うわぁ……めんどくさそう……」
浦が思わず漏らした感想に、磐余彦は苦笑したものの、今回ばかりは自分も同じようなことを感じていた。双方が納得できる条件を探し出すまでには、戦場で兵を動かすのとはまた違った忍耐が必要なのだと、身をもって知ったのである。
「那岐様からいただいた兵書にも、戦わずして相手を屈することこそ上策だという教えがありました。今回の交渉を見ていると、その意味が少し分かったような気がします。兵を動かさずに目的を達することができるのなら、それに越したことはありませんから」
椎根津彦が感慨深そうに話す一方で、日臣は腕を組み、いささか納得しきれない様子で口を開いた。
「だが、いくら戦わない方がよいといっても、相手が兵を向けてくれば戦わなければならんだろう。こちらが戦を望まなければ済むというものでもあるまい」
「それはそうだけれど、だからこそ、戦わずに済ませられる機会を逃してはいけないのだと思うよ」
磐余彦は日臣の言葉を否定することなく応じた。自分自身、初陣を経験したばかりであり、戦場で敵を退けなければ味方が命を落とすことも、十分に理解しているつもりだった。
「今回の戦だって、父上が交渉をまとめてくださらなかったら、まだ戦い続けなければならなかったんだ。たとえ私たちが勝ち続けたとしても、兵は傷つくし、田畑は荒れるし、曾於族の人たちはますます食べる物を失ってしまう。それでは大倭壱国にとっても、何一つよいことはないでしょう。だったら、早く戦を鎮めて、互いの国で田を耕し、暮らしを立て直した方がずっとよいと私は思うんだ」
父の交渉を目の当たりにしたことで、磐余彦は戦場で勝つことと、国を守ることが必ずしも同じではないのだと感じ始めていた。敵を退ける力は必要であっても、それを振るうだけでは解決できないことがあり、兵を率いる立場にあるからこそ、戦を終わらせる道も考えなければならないのだろう。
その話を聞いていた大久米は、結局のところ何が正しいのか、自分にはまだよく分からなかった。戦となれば磐余彦を守り、命じられた相手と戦うことはできるが、国同士の利害を考え、双方が納得する道を探し出すなど、自分には到底できそうもない。それでも、磐余彦がそのような道を選ぶのであれば、自分はこれまでと変わらず、その傍で与えられた役目を果たせばよいのだと考えていた。
「そっかぁ……陣を引き払うのね……」
皆が和平の成立を喜ぶ中、浦がぽつりと呟いた。その声に、これまでの明るさとは違う寂しげな響きが混じっていることに気づいた竹は、妹の横顔を見つめ、すぐにその理由を察した。
戦が終われば、磐余彦は日向の主としての務めに戻り、自分たちもまた、伊邪那岐の護衛として那岐のもとへ帰らなければならない。今回の出陣では久しぶりに六人が揃い、幼い頃のように同じ陣屋で食事を取り、語り合うことができたが、それも今日で終わりになるのだろう。
もちろん、戦が無事に終わったことは喜ばしいし、磐余彦が傷つくことなく帰ってこられたことにも、心から安堵していた。それでも、明日からまた別々の暮らしに戻るのだと思うと、竹の胸にも、どうしようもない寂しさが込み上げてきた。
幼い頃には当たり前だった、朝から晩まで一緒に過ごせる日々が、今ではこんなにも貴重なものになってしまったのである。
「……浦、夕餉の支度をしましょう。皆も腹を空かせているでしょうから」
「うん……そうだね。せっかくだから、今夜は美味しいものを作ってあげようか」
浦はいつもの笑顔を取り戻そうとしながら立ち上がり、竹もまた、その後に続いた。
いつか、また共に暮らせる日が来るのだろうか。護衛としてでも、幼馴染としてでもなく、もっと近くで、あの人の傍にいられる日が来るのなら、それはどれほど嬉しいことだろう。
そんな願いを、まだ互いに口にすることもできないまま、双子は磐余彦たちと過ごす陣屋での最後の夕餉を作り始めるのだった。




