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泣き虫皇子は仲間を集めて初代天皇になる!―神代の終焉と神武東征―  作者: 月見
一章 神武

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二十一話 南方攻防戦

 軍議の場で、鵜葺(うがや)は息子の磐余彦(いわれひこ)を感心した様子で見つめていた。


 先の海上からの夜襲では、一隻の船も失うことなく曾於族の軍を一時的に後退させ、再び北上するまでに二十日もの時間を稼ぐことに成功していた。その間に南方の防御柵は無事完成し、現在も兵たちの手によって補強が進められている。


 伊邪那岐のもとで長年学んできたとはいえ、磐余彦たちがこれほどの成果を挙げるとは、鵜葺も予想していなかった。


「よくやってくれた、磐余彦。そなたたちのおかげで、守りを固めるための時間を十分に得られたぞ」


「ありがとうございます、父上。ですが、私一人の力ではありません。皆がそれぞれの役目を果たしてくれたおかげです」


 磐余彦がそう答えると、傍らにいた兄の彦五瀬(ひこいつせ)も感心したように頷いた。


「正直に言えば、私もお前がここまでやれるとは思っていなかった。大したものだ、磐余彦」


「ありがとうございます、兄上」


 兄からの思いがけない称賛に、磐余彦は嬉しそうに顔をほころばせた。

 そんな息子たちの様子を見ていた鵜葺だったが、やがて表情を引き締め、軍議の場に広げられた地図へ視線を戻した。


「だが、喜んでばかりもおれぬ。曾於族はすでに軍を立て直し、再び北上を始めておる。今度こそ、正面からの戦いは避けられまい」


 鵜葺の言葉に応じ、彦五瀬は力強く頷いた。


「ご安心ください、父上。防御柵はすでに完成しており、兵の配置も進めております。敵がいかほどの兵を率いてこようとも、必ず撃退してみせましょう」


「実は、父上にお願いしたいことがあります」


 軍議が一段落したところで、磐余彦が改めて口を開いた。鵜葺は息子に目を向け、続きを促した。


「うむ、申してみい」


「我らの兵は、本隊に比べれば少数です。防御柵に加わっても、大してお役には立てないでしょう。そこで、私の部隊を遊軍として、自由に行動させていただけないでしょうか」


「……ほう」


 鵜葺はすぐには答えず、しばらく考え込んだ。磐余彦が率いる兵は三百名ほどであり、本隊の兵数からすれば、その程度の兵を割いたところで防衛の大局に大きな影響はない。だが、わずか三百の兵で曾於族の大軍を相手に、いったい何をしようというのか。


 鵜葺は磐余彦の後ろに控えている椎根津彦(しいねつひこ)へ視線を移した。おそらく、この若者が何らかの策を献じたのであろう。先の戦では椎根津彦の策が見事に功を奏し、日臣も船団を率いて指揮官としての働きを示している。磐余彦の周囲には、それぞれに優れた才を持つ若者たちが集まっていた。


 しかし、前回の成功が今回も通用するとは限らない。まだ戦の経験が浅い者たちだけに、勝利によって慢心や過信が生じていないか、父としても軍を預かる者としても気掛かりであった。


 鵜葺は再び磐余彦を見つめたが、その表情に浮ついた様子はなく、ただ真剣に返答を待っている。少なくとも、先の勝利に気を大きくして無謀な戦を望んでいるようには見えなかった。


「よかろう。ただし、基本方針だけでも聞いておきたい。三百の兵を率いて、どのように動くつもりなのだ?」


「椎根津彦」


 磐余彦に促され、椎根津彦が姿勢を正して一礼した。


「はっ。我らは防御柵のさらに南西にある山々へ向かい、その裏側に陣を敷かせていただきます」


「山の裏とな? なぜそのような場所に陣を置くのだ?」


「はい。山中に陣を置いても、火を焚けば煙や明かりによって敵に見つかる恐れがあります。山の裏側であれば、敵から我らの陣を見通すことは難しく、伏兵の存在を悟られずに済みましょう」


「なるほど、伏兵ときたか」


 鵜葺は興味を示し、椎根津彦の説明に耳を傾けた。三百の兵で敵の大軍を正面から迎え撃つのではなく、姿を隠して戦局を見極めようというのである。


「我らは敵軍の動きをうかがい、機を見て攻勢に出ます。少数の兵であっても、攻める時機と場所を誤らなければ、十分に戦局へ貢献できると考えております」


 椎根津彦はそれ以上のことを語らず、一礼して後ろへ下がった。鵜葺も、戦場の状況によって取るべき行動が変わることは承知しており、今の段階で細かな手順まで問い詰めるつもりはなかった。


「たしかに、その策であれば面白いかもしれぬな。よい、やってみよ。ただし、無理はするなよ」


「ありがとうございます、父上。さっそく部隊を率いて現地へ向かわせていただきます」


 磐余彦が深く頭を下げると、鵜葺は満足そうに頷いた。その様子を傍らで見ていた彦五瀬も、弟とその配下の者たちに感心していた。


「磐余彦の配下には、知勇に秀でた者が多いですな。先の戦といい、実に頼もしい限りです」


「うむ。いずれ彦五瀬、お前が磐余彦を従えて出征することもあろう。そなたも今回の戦で経験を積み、兵を率いる者として、さらに成長しておくことだ」


「はっ」


 彦五瀬は父の言葉を受け、力強く頭を下げた。




 軍議を終えた磐余彦は、配下の三百の兵を率いて南西の山へと向かった。防御柵から離れ、山の裏側に陣を構えて身を潜め、敵の動きを見極めてから攻勢に出る。そのためには、曾於族に存在を悟られないことが何よりも重要だった。


「今回はあまり難しいことはありません。ただ隠れることと、動く時期を見極めること、それだけです」


 道中、椎根津彦が今回の作戦について改めて説明すると、日臣も納得したように頷いた。


「たしかにそうだな。俺たちは少数だ。曾於族の主力と正面からぶつかっても勝算なんてないし、下手に動けば逆に囲まれちまう」


 傍らを歩いていた大久米も黙って頷き、椎根津彦の話を聞いていた。今回の作戦では、敵に見つからずに待機することも大切な役目であり、普段のように武器を振るっていればよいというわけではなかった。


 そんな中、山道の先を眺めていた竹が、ふと気になることを口にした。


「……ねえ、この山には熊も出るのかしら?」


 何気ない質問のように聞こえたが、竹の表情にはわずかな不安が浮かんでいた。幼い頃、狭野たちと勝手に山へ入り、熊を討伐しようとして危うく命を落としかけたことがある。あの時、伊邪那岐に助けられなければ全員が無事では済まなかっただろう。それ以来、竹は熊を苦手としていた。


「そりゃ、どこかにはいるだろうな。これだけ山が広いんだから」


 日臣があっさり答えると、椎根津彦も周囲の木々を見回しながら付け加えた。


「熊だけではありませんよ。猪もいるやもしれませんし、山中で陣を構える以上、獣への警戒も必要でしょうね」


「えー、そんなところで寝泊まりするの? 夜中に熊が出てきたら嫌だなぁ」


 浦が露骨に顔をしかめると、日臣は呆れたように肩をすくめた。


「仕方ないだろ。これも作戦なんだから、多少の不便は我慢しろよ」


 すると、それまで楽しそうに話を聞いていた磐余彦が、何かを思いついたように顔を輝かせた。


「せっかくだし、山に入ったら獣狩りをしよう! 熊でも猪でも、仕留められたら皆で食べられるしね!」


 その言葉を聞いた竹は、思わず足を止めて磐余彦を見つめた。かつて自分たちが熊を退治しようと言い出した時のことを、まるで懲りずに繰り返そうとしているように聞こえたのである。


「いや……もう熊はいいわぁ……」


 普段は誰よりも勇ましく、磐余彦にも容赦なく説教する竹が、珍しく心底嫌そうな声を漏らした。その様子がおかしくて、浦が真っ先に吹き出し、日臣も堪えきれずに笑い始めた。


 磐余彦まで笑い出すと、竹は不服そうに眉を寄せたが、かつて共に熊と戦った仲間たちの笑い声を聞いているうちに、とうとう自分も小さく笑ってしまうのだった。




 二日後、曾於族の軍が南方の防御柵の前に姿を現した。前回の襲撃で北上を大幅に遅らされた曾於族は、今度こそ日向への侵攻を果たすべく、かなりの兵を動員していた。大軍をもって防御柵を強引に突破しようという構えであり、その布陣からも攻撃の意思は明らかであった。


 一方、磐余彦の率いる三百の部隊は、南西の山の裏側に設けた陣地を出発し、木々に身を隠しながら曾於族の後方へと回り込んでいた。椎根津彦が選んだ場所は、敵の動きを見渡せる一方で、こちらの姿は容易に見つからない位置にあった。磐余彦たちはそこで息を潜め、曾於族が攻勢に出る機会を待つことにした。


 曾於族は布陣を終えるや、躊躇なく防御柵に襲い掛かった。迎え撃つ大倭壱国軍も弓矢や槍をもって応戦し、たちまち柵の周辺は激しい戦闘の場となった。防御柵の最前線では、磐余彦の兄である彦五瀬が陣頭指揮を執り、次々と押し寄せる敵兵を食い止めていた。


 曾於族は甚大な被害を出しながらも攻撃の手を緩めず、兵を次々と前線へ送り込んでくる。大倭壱国軍も必死に防戦していたが、激しい攻撃を受け続けた防御柵の一部がついに破られ、敵兵が隙間から雪崩れ込んできた。


 彦五瀬は直ちに破られた箇所へ駆けつけ、周囲の兵をまとめて反撃に転じた。入り込んだ敵兵を押し返しながら後続の侵入を防ぎ、その間に補修の人員を集めて柵の修復を急がせる。彦五瀬自身が最前線に立ち続けたことで兵たちも踏みとどまり、崩れかけていた防衛線は少しずつ立て直されていった。


 山中からその様子を見つめていた磐余彦は、兄が危険な場所にいることに気が気ではなかった。


「兄上の支援をしなきゃ……椎根津彦、まだなの?」


「まだです。今は動いてはいけません」


 椎根津彦は敵軍の布陣から目を離さずに答えた。曾於族は前線に多くの兵を投入しているものの、後方にはまだ予備兵が控えており、こちらが姿を現せば迎撃に回される恐れがあった。


「磐余彦様、ここは彦五瀬様の手腕を信じて、我らは機会を待ちましょう」


 日臣もそう進言すると、椎根津彦は頷き、今ここで攻撃を仕掛ければ敵の予備兵に囲まれ、わずか三百の部隊はたちまち潰されてしまうと説明した。


「……わかった」


 磐余彦は返事をしながらも、なお防御柵の方へ目を向けていた。兄が苦戦している姿を見れば、すぐにでも駆けつけて助けたいと思う。しかし、自分が率いているのは三百もの兵であり、衝動に任せて動けば彼らの命まで危険にさらすことになる。磐余彦は逸る気持ちを抑え、椎根津彦と日臣の判断に従って待つことにした。


 やがて彦五瀬の指揮によって、破られた防御柵は修復され、敵兵の侵入も食い止められた。絶え間なく攻撃を受けながら兵をまとめ、補修作業まで成し遂げた兄の姿に、磐余彦は思わず感嘆の声を漏らした。


「兄上はすごいな。あんなに攻め込まれていたのに、もう立て直してしまった」


「ああ、あの状態からよく持ち直したな。兵の動かし方も見事だったぜ」


 日臣も彦五瀬の指揮ぶりに感心していた。防御柵が破られた時には、そこから一気に敵兵が押し寄せ、防衛線が崩壊する可能性もあった。それを最前線で食い止め、兵を立て直してみせたのである。


「それで椎根津彦、私たちの出番はまだかな?」


「敵の予備兵がまだ残っております。それに、あちらに見えるのがおそらく敵の本隊でしょう。あの部隊が無防備になるまでは動けませんので、もうしばらくのご辛抱をお願いします」


「うん、わかっているよ。今度はちゃんと待つから」


 磐余彦は落ち着いて頷き、再び敵軍の動きに目を向けた。先ほどまでは兄の窮地ばかりが気になっていたが、今は曾於族の兵がどこへ動き、どの部隊が後方に残されているのかを注意深く観察していた。


 しかし、待つ時間はそれほど長くはなかった。


 防御柵を修復され、突破の機会を失った曾於族は、さらに攻撃を強める決断を下した。前線で戦っていた兵に加え、それまで後方に控えていた予備兵を投入し、間を置かずに攻撃を繰り返す波状攻撃に出たのである。


 それでも防御柵を突破できないと見るや、曾於族はさらに後方の部隊まで前線へ送り込み、力ずくで大倭壱国軍の防衛線を押し潰そうとした。前線の兵力は膨れ上がり、防御柵への攻撃は一段と激しさを増したが、その代償として、本隊の周囲を守る兵は次々と減っていった。


 そして、敵の後方に潜んでいた磐余彦たちの前に、ついに無防備となった曾於族の本隊が姿をさらしたのであった。


「今です。攻勢に出ましょう」


 曾於族が予備兵まで防御柵の攻撃に投入し、後方の本隊が手薄になったのを見届けた椎根津彦は、磐余彦に進言した。


「わかった。いくぞ!」


「待ちわびたぜ! 承知!」


 日臣が勇んで応じると、大久米は黙って槍を握りしめ、誰よりも早く敵陣へ向かって駆け出した。日臣もすぐさま部隊を率いてその後を追い、磐余彦は竹と浦を護衛に従え、少し後方から進軍を開始した。


 山の木々に身を隠していた三百の兵が、一斉に曾於族の後方へ襲い掛かったのである。


 真っ先に敵陣へ突入したのは大久米だった。長い槍を振りかざして敵兵を突き伏せ、左右から迫る者を薙ぎ払いながら、凄まじい勢いで敵陣の奥へと斬り込んでいく。その猛進ぶりは、後に続く味方の兵でさえ追いつくのが難しいほどであった。


挿絵(By みてみん)


「待て、大久米! 突出しすぎだ、少しは待て!」


 日臣の怒鳴り声が戦場に響いた。


 大久米はその声に反応してわずかに歩みを緩めたものの、目の前に敵兵が現れると再び槍を突き出し、日臣たちを待つ間もなく前進を続けてしまう。日臣も負けじと槍を振るい、配下の兵を鼓舞しながら大久米の後を追った。


 あいつ、前回は斥候を務めていたから、まともな戦闘に加わるのは今回が初めてのはずだろう。それなのに、どうしてあれほど迷いなく敵陣へ斬り込めるんだ。


 日臣は槍を振るいながら、前方を進む大久米の背中を見つめていた。普段は無口で、自分から何かを主張することも滅多にない男だが、一度決めたことを最後までやり遂げようとする意思の強さは、幼い頃から誰よりも際立っていた。今、その強い意思が戦場での凄まじい勇猛さとなって現れていることに、日臣は改めて驚かされていた。


 大久米の猛進によって敵陣の一角が崩れると、そこへ日臣の率いる兵が雪崩れ込み、抵抗しようとする敵兵を次々と押し返していった。


 曾於族の本隊にとって、後方からの襲撃はまったく想定していない事態であった。主力も予備兵も防御柵への攻撃に投入していたため、突然現れた大倭壱国軍を迎え撃つ備えが整っておらず、指揮官たちは混乱する兵を立て直そうとするものの、矢継ぎ早に迫る攻撃への対応に追われて命令すら十分に伝えられない。


 その間にも大久米は敵兵を押し退けて進み、日臣の部隊が後に続いて敵陣を切り崩していく。後方から敵に襲われたという知らせは瞬く間に広がり、誰が指揮を執っているのかさえ分からなくなった曾於族の兵たちは、ついに恐怖に駆られて逃走を始めた。


 一人が逃げ出すと周囲の兵もそれに続き、崩れた隊列はもはや立て直すことができなかった。大久米と日臣の突撃は、曾於族本隊の指揮系統を短時間で崩壊させ、組織的な抵抗を続ける力を奪ってしまったのである。


 敵の大将と思われる人物には混乱に乗じて逃げられてしまったものの、本隊の崩壊が戦局に与えた影響は絶大であった。




 大久米はようやく足を止めた。全身には無数の切り傷が刻まれ、衣のあちこちが血に染まっていたが、それでもつい先ほどまで敵を追い、槍を振るい続けていたのである。


 後方から駆けつけた竹と浦は、その姿を見るなり慌てて大久米のもとへ駆け寄り、傷の具合を確かめながら手当てを始めた。


「なんて無茶をしているの、あなたは! 命がいくつあっても足りないわよ!」


 竹は叱りつけながらも手を休めず、傷口を確かめては丁寧に処置を施していく。その隣では浦が大久米の腕を取り、血を拭いながら一つずつ傷の深さを確認していた。


「でも、どの傷も浅いから大丈夫よ。ちゃんと手当てしてあげるから、しばらくじっとしていてね」


 大久米は何も言わず、ただ直立したまま二人の手当てを受けていた。竹に叱られても言い返すことはなく、浦が傷口に触れても顔色一つ変えず、黙って二人に身を任せている。


挿絵(By みてみん)


 大久米は竹と浦が大好きだった。自分のように言葉で思いを伝えることが苦手な人間にも、二人は昔から分け隔てなく接してくれた。竹は何かと厳しく叱ってくるが、困っている時には必ず手を貸してくれるし、浦はいつも明るく話しかけ、こちらが黙っていても気にせず笑ってくれる。大久米にとって二人は、幼い頃から自分を見守ってくれた、本当の姉のような存在だった。


 そして、その姉たちが磐余彦に特別な想いを抱いていることも、大久米は気づいていた。二人ともまだ本人には伝えていないようだったが、いつかその想いが実り、幸せになってくれたらいい。そんなことを考えながら、竹に叱られ、浦に傷の手当てをしてもらう時間を、どこか心地よく感じていた。


 ようやく戦で貢献できたという喜びもあった。前回の戦では椎根津彦から特命を受け、敵軍の位置を知らせる大切な役目を果たした。それが勝利につながったことは理解しているし、任された役目に不満があったわけでもない。それでも、武芸を鍛え続けてきた大久米には、自分の槍で敵を退け、主君のために道を切り開きたいという願いがあった。


 今回は、その願いをようやく果たすことができた。自分が先頭に立って敵陣へ突入し、日臣と兵たちがその後に続いたことで、敵の本隊を崩すことができたのだ。全身に刻まれた傷は痛んだが、それ以上に、自分の力で磐余彦の役に立てたことが嬉しかった。


 これからも命ある限り、皆を守り続けよう。磐余彦様も、竹も浦も、日臣も椎根津彦も、自分にとっては誰一人として失いたくない大切な存在だった。行き倒れていた自分を拾い、居場所を与えてくれた人たちであり、幼い頃から同じ屋根の下で暮らし、ともに学び、笑い合いながら成長してきた家族なのだ。


 自分は言葉で気持ちを伝えることが得意ではないし、これからも皆のように上手く話せるようにはならないかもしれない。それでも構わなかった。自分には槍がある。誰かが危険にさらされれば真っ先に駆けつけ、この身をもって守り抜けばいい。


 大久米は、今も自分の傷を心配してくれている二人の姉を静かに見つめながら、これからも言葉ではなく行動と結果で、その想いを示し続けようと心に誓うのだった。




 日臣は、竹と浦から手当てを受けている大久米を見つめていた。先ほどの突進は、指揮官として見れば無茶が過ぎるものだったが、あれは決して恐怖を知らぬ者の動きではなかった。


 大久米とて戦の恐ろしさも、命を落とす危険も理解しているはずであり、それでも仲間を守りたいという一心で恐怖を押し殺し、誰よりも先に敵陣へ飛び込んだのだろう。あの勇猛さは、死を恐れぬ無謀さから生まれたものではなく、恐怖を知りながらも前へ進むことのできる、鋼のような意志に支えられていた。


 だが、あのまま突出を続ければ、いずれ命を落としかねない。大久米には、その勇猛さを損なうことなく、必要な時には踏みとどまらせる者が必要なのだ。そして、それこそが自分の役目なのだと日臣は考えた。


 あいつを死なせず、その力を最大限に生かしてこそ、磐余彦様に仕える将としての務めを果たせる。日臣は、これからも共に戦う仲間の姿を見つめながら、指揮官として負うべき責任を改めて胸に刻んだ。


「磐余彦様、このまま追撃されますか?」


 日臣が指示を仰ぐと、磐余彦は逃走する敵兵の姿を見つめ、静かに首を横に振った。


「追わなくていい。これ以上の殺生は必要ない」


 その言葉を聞いた椎根津彦も、黙って頷いた。敵の本隊を崩したとはいえ、こちらはわずか三百の兵に過ぎず、逃げる敵を深追いしたところで、態勢を立て直した敵軍に反転されれば、今度はこちらが包囲される危険がある。


 すでに敵の指揮系統を崩し、防御柵への攻撃を断念させるという目的は達せられつつあり、これ以上の戦果を求めて兵を危険にさらす必要はなかった。


 一方、防御柵の最前線で戦っていた曾於族の主力部隊にも、後方の本隊が崩壊したという報せが届いていた。指揮を執る本隊が失われたことで兵たちの間には動揺が広がり、それまで激しく攻め立てていた部隊も次第に足並みを乱し、ついには攻撃を中断して撤退を始めた。


 彦五瀬はその変化を見逃さず、直ちに兵を前へ進めて敵を押し返し、防御柵の周辺に残っていた曾於族の兵を退けていった。後方の本隊を失い、前線でも押し返された曾於族には、もはや攻勢を続ける余力はなく、軍全体が南へ向けて撤退を始めたことで、激しかった南方の攻防戦はようやく終結を迎えた。


 敵の本隊が崩れ、曾於族の主力も撤退に転じたことを確認した磐余彦は、直ちに部隊を西へ転進させた。敗走する敵軍との接触を避けながら戦場を離れ、十分な距離を取ったところで進路を北へ変えると、兵を率いて大倭壱国の本隊が布陣する防御柵へ向かい、無事に合流を果たしたのだった。

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