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泣き虫皇子は仲間を集めて初代天皇になる!―神代の終焉と神武東征―  作者: 月見
一章 神武

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二十話 初陣

 早朝から、磐余彦(いわれひこ)の軍は出陣の準備に追われ、港では兵たちが慌ただしく行き交っていた。


 椎根津彦(しいねつひこ)が事前に用意させていた大量の物資が次々と運び込まれ、それらを港まで運び終えると、今度は船ごとに積み込む作業が始まった。荷の種類や量はあらかじめ細かく分けられており、兵たちは指示された場所へ運び込みながら、出航に備えて船内の配置を整えていく。


 すべての準備が一段落したところで、磐余彦をはじめとする主だった者たちは集められ、これから行う作戦について簡単な説明を受けた。全員が自分の役目と動きを改めて確認すると、それぞれの持ち場へと散っていき、船団は順次、港を離れて海へ出ていった。


 先頭を進む先鋒船団を任されたのは日臣(ひのおみ)だった。日臣は自ら先陣に立ち、後続する船の動きを確かめながら船団を率いていく。


 その後方を進む本隊には磐余彦が乗り込み、その傍らには作戦を立案した椎根津彦が控えていた。さらに竹と浦も磐余彦の護衛として左右から離れず、周囲の海と岸辺へ絶えず目を配りながら警戒を続けている。


 一方、大久米(おおくめ)の姿だけは船団の中になかった。


 大久米は椎根津彦から別の役目を託されており、本隊が出航するよりも早く、すでに一艘の小舟に乗って先行していたのである。




 船が沿岸を進む中、竹はふと思い出したように先行している船団の方角へ目を向けた。


「それにしても、日臣は船酔い大丈夫かしら?」


「あー、そういえば昔は吐きまくっていたわね。懐かしいなぁ」


 浦も以前のことを思い出したのか、楽しそうに笑いながら海の向こうへ視線を向ける。竹はそんな妹とは対照的に、少し心配そうな表情を浮かべていた。


「あれだけ船酔いが酷かったのに、先鋒の指揮なんて任せてよかったのかしら?」


「今は陸が見える沿岸を進んでいるだろう。それに本格的な外洋へ出ているわけでもないし、波もそこまで激しくないから、多少は大丈夫だと思うよ」


 磐余彦はそう答えてから、先頭を進んでいる船団を眺めて小さく笑った。


「それに日臣なら、たとえ船酔いしても吐きながら指揮くらいはするさ」


 その言葉を聞いた竹と浦は、青ざめた顔で船縁にしがみつきながら、それでも必死に兵へ号令を飛ばしている日臣の姿を想像してしまい、顔を見合わせながらくすくすと笑った。


 一方、その頃、先鋒船団を率いていた日臣は突然鼻がむず痒くなり、大きなくしゃみをした。


「へっぐしゅん!」


 鼻をすすりながら首を傾げると、なぜか背中に嫌な気配を感じる。


「……なんか、すっげぇ失礼なこと言われてる気がするんだが……」


 もちろん誰が何を話しているのかなど分かるはずもなかったが、長年付き合ってきた仲間たちの顔だけは、不思議なくらい鮮明に頭へ浮かんでいた。




 大久米は先行した小舟から海岸線を探り続け、やがて海辺を北へ進軍している曾於族の軍勢を発見した。椎根津彦から、敵軍は海岸沿いを進んでいるとの情報を事前に伝えられていたため、その存在自体は予想していたものの、実際に敵影を確認すると不用意に近づくことはせず、敵陣から少し北へ離れた場所へ小舟を寄せ、人目につきにくい場所を選んで身を潜めることにした。


 大久米に与えられていた役目は戦うことではなく、敵軍の正確な位置を確認したうえで、後から海上を進んでくる味方へその場所を知らせることであった。そのため、敵陣から炎を見つけられにくく、それでいて沖を進む船団からは確認できる地点を探し、日が沈んだあとに篝火を上げられるよう木材を集め、松明にもすぐ火を移せるよう準備を整えてから、ただ静かに時が来るのを待った。


 やがて日は完全に沈み、海岸も山々も闇に包まれていった。敵陣ではいくつもの火が灯され、兵たちの声が風に乗ってわずかに聞こえてくる一方で、大久米は息を潜めたまま北の海へ目を凝らし続けていた。


 しばらくすると、暗い海の向こうに小さな灯りが一つ、また一つと浮かび始め、それが少しずつ数を増やしながら南へ近づいてくるのが見えた。磐余彦率いる大倭壱国の船団が、予定どおりこちらへ向かってきたのである。


 大久米はすぐに用意していた篝火へ火を移し、炎が十分に高く上がったことを確認すると、さらに松明へ火を灯して大きく振り始めた。闇の中で揺れる炎は、ここに敵軍がいることを海上の仲間たちへ知らせる合図であり、大久米は決められていた手順を崩すことなく、何度も同じ動きを繰り返して確実に位置を伝えていった。


挿絵(By みてみん)


 やがて沖の船団が合図を受け取ったことを示すように動きを変えたのを見届けると、大久米はようやく松明を下ろした。自分に任された役目は、これで果たしたことになる。


 それでも大久米の胸には、わずかな物足りなさが残っていた。これから磐余彦や日臣、竹や浦たちは敵を前にして戦うことになるというのに、自分だけはその戦列に加わることができず、ただ遠くから成り行きを見守ることしかできないからである。


 だが、それもまた椎根津彦から託された大切な役目であり、自分が勝手に持ち場を離れれば仲間たちの策そのものを乱しかねないことを、大久米は誰よりもよく理解していた。


 だからこそ彼はその場を動かず、暗い海の向こうへ視線を向けたまま、これから戦いへ向かう仲間たちが無事に役目を果たし、再び全員で戻ってこられることを静かに願うのだった。




 椎根津彦は船上から海と陸を交互に見渡しながら、肌を撫でていく風の向きに神経を集中させていた。しばらく確かめた末、風は海から陸へ向かって吹いていると判断すると、今度は暗い海岸に目を凝らした。


 やがて北寄りの陸地に一つの篝火が灯り、その傍で松明の火が大きく振られるのが見えた。それは先行していた大久米からの合図であり、篝火のすぐ南に曾於族の陣があることを知らせるものだった。


「磐余彦様、大久米からの合図です。敵陣はあの篝火より南、予定していた場所から大きく外れておりません。それに風はこちらから陸へ吹いています」


 椎根津彦の報告を受けた磐余彦は、暗い海岸と大久米の篝火を見比べてから静かに頷いた。ここまで運んできた物資も、この風向きも、すべては今この瞬間のために準備してきたものである。


 磐余彦は振り返ると、周囲の兵たちへよく通る声で命じた。


「各自、事前に用意した布巻きの矢を出せ! 布へ油を染み込ませろ! それから各船の篝火を一斉に増やすんだ!」


 命令が次々と船から船へ伝わると、それまで静かに航行していた船団が一斉に慌ただしく動き始めた。兵たちは積荷の中から束ねてあった矢を取り出し、矢尻の近くへ巻かれた布へ油を十分に染み込ませる一方、別の者たちは積んできた薪を運び出して篝火へ次々と放り込んでいった。


 椎根津彦が事前に用意させていた大量の積荷、その多くは弓矢と薪、布、そして油で占められていた。兵たちの食糧や航海に必要な物資に加えてこれほどの量を運ばせた理由を、この作戦を知らされていなかった者たちもようやく理解し始めていた。


 ほどなくして海上の景色が一変した。


 小舟ですら二本以上の篝火が焚かれ、大きな戦船では十を超える炎が夜の海を照らし出す。それぞれの船が実際以上に大きく浮かび上がり、さらに暗闇の中では船と船の間隔すら判然としないため、陸から眺めれば数えることも難しいほどの大船団が海一面を埋め尽くしているように見えた。


 炎を増した船団は、そのまま沿岸へ近づいていく。


 先頭を進んでいた日臣は、敵陣との距離を測りながら弓兵たちが射程へ入るのを待っていた。やがて海岸の向こうに曾於族の陣屋がはっきり見え始めると、弓を握った兵たちへ視線を巡らせ、迷うことなく命令を下した。


「火をつけろ! 火矢を敵陣へ放て!」


 篝火から移された炎が、油を染み込ませた布へ次々と燃え移っていく。夜の船上に幾つもの小さな炎が並んだかと思えば、日臣が腕を振り下ろしたのを合図に弓弦が一斉に鳴り響き、無数の火矢が夜空へ放たれた。


 弧を描いて飛んだ炎の群れは暗い空を横切り、曾於族の陣屋へ次々と降り注いでいった。地面へ突き刺さるだけの矢もあれば、幕や天幕、積み上げられていた薪や藁へ突き刺さるものもあり、乾いたものへ火が燃え移ると、海から吹き込む風を受けて炎は瞬く間に広がり始めた。


 突然の攻撃に気づいた曾於族の兵たちも、慌てて武器を手にして迎撃しようとしたものの、すでに陣の各所から火の手が上がっていた。火を消そうと水を運ぶ者、弓を手に海岸へ走る者、まだ眠っている仲間を叩き起こす者が入り乱れ、誰が何をすべきなのかさえ分からないほど陣内は混乱していった。


 その間にも先鋒船団からの射撃は途切れることなく続き、日臣の船団に続いていた磐余彦の本隊も、やがて敵陣を十分に狙える距離へと入った。


 磐余彦は炎に照らされた海岸を見据えたまま右手を上げ、弓を構えて待っていた兵たちへ号令を発した。


「我らも続く! 火矢を放て!」


 再び無数の弓弦が鳴り響いた。


 今度は先鋒だけではなく、磐余彦率いる本隊からも大量の火矢が放たれ、夜空を埋める炎の雨となって曾於族の陣へ降り注いでいく。海から陸へ吹き続ける風に煽られた炎はさらに勢いを増し、迎撃態勢を整えようとしていた曾於族の兵たちは、敵と戦うより先に燃え広がる陣と混乱する味方への対応を強いられることになった。


 暗い海には無数の篝火を掲げた船団が浮かび、その船団からは絶え間なく火矢が放たれている。曾於族の兵たちには、夜の海そのものが炎に覆われ、大倭壱国の大軍が押し寄せてきたかのように見えていた。




 日臣は兵たちへ命を飛ばしながら、自らも油を染み込ませた布を巻いた矢を取り、篝火からその先端へ火を移すと、燃え上がる矢を弓につがえて敵陣へ向けた。船は波に揺れ、さらに海から陸へ吹きつける風もあったため、狙いを定めて放ったはずの矢は思っていたより大きく流されたが、それでも炎をまとった矢は曾於族の陣幕へ突き刺さった。


 火は瞬く間に布を舐めるように広がり、すぐ傍に積まれていた藁束へと燃え移っていく。赤々とした炎が夜の闇を押し退けるように勢いを増し、その向こうでは逃げ遅れた兵が倒れ、別の兵たちが必死になって火を消そうと走り回っていた。


 日臣は次の矢を取ろうとして、ほんの一瞬だけ手を止めた。


 これが戦なのだ。


 今、自分が放った一本の矢によって敵の陣が燃え、その炎の中で人が傷つき、命を落としている。それだけではない、自分が命じた兵たちも次々と火矢を放ち、その一つ一つが敵陣へ降り注いでは火を広げ、人を殺めているのだと理解した瞬間、胸の奥に言葉では表せない重さが沈んでいった。


 それでも日臣は指揮官であり、ここで自分が怯むわけにはいかなかった。


 ゆっくりと深く息を吸い込み、震えそうになる指へ力を込めると、再び矢をつがえて敵陣を見据えた。迷いを押し殺すように弦を引き絞り、日臣は二本目の火矢を夜空へ放った。


 少し離れた本隊の船上では、磐余彦が燃え上がる敵陣を黙って見つめていた。


 赤い炎が次々と広がり、その中を逃げ惑う人影が小さく揺れている。自分が命令を下したからこそ、あの火矢は放たれ、あの陣は燃えているのだという事実が、遅れて胸へ押し寄せてきた。


 初陣とは、もっと必死に戦うものだと思っていた。


 しかし実際には、自分は船の上から命を下しただけで、その一言によって何十、何百という兵が動き、遠く離れた場所で見知らぬ誰かが傷つき、死んでいく。その光景を前にすると、磐余彦は自分が想像していた戦と、目の前にある現実との違いに言葉を失い、ただ炎を見つめることしかできなかった。


 その時、闇の向こうから鋭い音を立てて一本の矢が飛来した。


 磐余彦が反応するより早く、左右から二枚の盾が突き出され、ほとんど同時にその正面を塞いだ。矢は激しい音を立てて盾へ突き刺さり、その衝撃に竹と浦の腕がわずかに揺れる。


「なに呆けているの! 今は戦の最中よ、しっかりしなさい!」


 竹は盾を構えたまま鋭く叱りつけ、浦も反対側から周囲を警戒しながら、いつもの調子を崩さず声をかけた。


「ホント、私達がいないと磐余彦は駄目なんだからぁ。しょうがないわね」


「す、すまない。助かった、これからは気を付ける」


挿絵(By みてみん)


 磐余彦がそう答えると、竹と浦はそれ以上何も言わず、互いに短く頷いただけで、すぐさま視線を敵陣へ戻した。先ほどまでの軽いやり取りが嘘のように二人の表情から笑みは消え、次に飛んでくる矢がないか、敵船が近づいてこないかと周囲へ鋭く目を配っている。


 その姿を見て、磐余彦もようやく我に返った。


「磐余彦様」


 傍らで戦況を見ていた椎根津彦が声をかける。


「敵陣はまだ混乱しております。あと少し撃ち続ければ、さらに大きな被害を与えられるでしょう」


 磐余彦は燃え上がる陣へ目を向けたまま、しばらく何も答えなかった。


 確かに、ここで攻撃を続ければ敵兵をさらに減らすことができるだろう。陣そのものを焼き尽くすことさえ不可能ではないかもしれない。しかし今回の目的は、曾於族をここで滅ぼすことではなく、南に残した村々を危惧させ、その主力を引き返させることにある。


 それ以上の犠牲を出す必要はなかった。


「いや、もういい」


 磐余彦は静かに言った。


「私達の目的は、敵を殺すことじゃない。曾於族を南へ戻らせることだ。これ以上は必要ない」


 椎根津彦は一瞬だけ磐余彦の横顔を見つめたが、反論することなく静かに頭を下げた。


「承知しました」


 磐余彦は一度だけ大きく息を吸い、燃え続ける敵陣から目を離すと、周囲の兵たちへ届くよう声を張り上げた。


「ここまでだ! 攻撃を止めろ、全船撤収する!」


 その号令が各船へ伝わると、火矢を放っていた兵たちは次々と弓を下ろし、船団はあらかじめ決めていた通り南へ向けて動き始めた。


 磐余彦は船が敵陣から離れていく間も、しばらく後方を振り返ったままだった。


 夜の海の向こうでは、なおも曾於族の陣が赤く燃えている。


 やがて距離が開き、炎も人影も少しずつ小さくなっていったが、磐余彦は完全に見えなくなるまで、一言も発することなく、その光景を黙って見つめ続けていた。




 曾於族は燃え広がった陣の消火を進めながら、ようやく混乱から立ち直り始め、海上の敵に対して迎撃するための態勢を整えていった。


 しかし、兵たちが弓を構えて海へ向かった頃には、大倭壱国の船団はすでに矢の届かないところまで離れており、矢を射返そうにも手遅れであった。


 曾於族の兵たちは、遠ざかっていく船団を睨みながら、当然そのまま北へ撤退していくものと思っていたが、やがて誰かが異変に気づいた。


 大倭壱国の船団は北へ戻ろうとはせず、そのまま海岸に沿って南へと進路を取り、曾於族の陣地から離れていったのである。


 しかも、夜の海には船ごとに焚かれた無数の篝火が浮かび、実際の船数以上に巨大な船団であるかのように見えていた。小舟にまで複数の火が灯され、大きな船にはいくつもの篝火が並べられていたため、暗闇の中から見れば、海一面を埋め尽くすほどの大軍が南へ移動しているようにしか見えなかった。


 その光景を見つめていた曾於族の兵たちの間に、次第に別の動揺が広がっていく。


 南には自分たちの村々があり、そこから戦える男たちの多くは、この北上軍へ加わるために連れ出されていた。残されているのは老人や女、そして子供たちがほとんどであり、大規模な軍勢に襲われればまともに抵抗することなどできない。


「南へ向かっているぞ! あいつら、このまま南へ下るつもりだ!」


「待て、村には兵なんてほとんど残っていないぞ! 年寄りと女子供ばかりだ!」


「まさか……俺たちの里を襲うつもりじゃないだろうな……!」


 誰かが口にしたその言葉は、瞬く間に兵たちの間へ広がっていった。


 燃えた陣地のことよりも、自分たちの故郷に残してきた家族の姿が頭に浮かび始め、兵たちの表情から怒りが消えていく代わりに、焦りと恐怖が濃くなっていった。


 もし大倭壱国軍がこのまま南下し、無防備な村々へ上陸すればどうなるのか。家族が殺されるかもしれない、家を焼かれるかもしれない、蓄えてきた僅かな食糧を奪われるかもしれないという不安は、戦場にいる兵たちにとって無視できるものではなかった。


 実際には、大倭壱国の船団に曾於族の村々を襲う意思などなかったが、曾於族の兵たちにそれを知る術はなく、暗い海を南へ進んでいく無数の篝火だけが、自分たちの故郷へ迫る巨大な脅威として映っていた。


 やがて曾於族は、このまま北上を続けることはできないと判断した。


 陣地を完全に放棄するわけにもいかないため、一部の兵をその場に残して防衛と消火を続けさせる一方、主力には急ぎ南へ戻るよう命令が下される。


 兵たちは一斉に進路を変え、先ほどまで北を目指していた軍勢は、自分たちの村と家族を守るため、海岸沿いを南へと走り始めた。


 その先には、夜の海をゆっくりと南へ進んでいく大倭壱国の船団と、闇の中に連なる無数の篝火が見えていた。




 翌朝、東の空が白み始めた頃、磐余彦は船団をいったん岸から離し、陸から姿を確認できない沖合まで進ませると、進路を北へと変えた。曾於族の追撃を避けるため、そのまま岸から距離を保ちながら航行を続け、一行は一路、日向の地を目指した。


 やがて日向の港に帰り着き、船団が次々と接岸すると、兵たちは物資の荷下ろしや船の係留に取りかかった。ところが、先鋒船団を率いていた日臣は、陸に足を踏み出した途端、その場に崩れ落ちてしまった。


 どうやら帰路で沖合に出た際、波が激しくなったことで船酔いを起こしてしまったらしい。戦闘中は何とか持ちこたえていたものの、帰路ではすっかり参ってしまい、ようやく陸に戻れたというのに、立ち上がる気力さえ残っていなかった。


「だらしがないわね……それでも指揮官なの?」


 竹が呆れたように見下ろすと、日臣は青ざめた顔を上げ、力のない声で言い返した。


「うるせぇ……戦闘も指揮もちゃんとやったわ。だが帰りがな……ううっ」


 最後まで言い切ることもできず、日臣は再び口元を押さえた。そんな側近の姿を見かねた磐余彦は、水の入った器を持って傍らにしゃがみ込んだ。


「ご苦労様、日臣。水を飲むかい?」


「おお……助かります、磐余彦様……」


 日臣はありがたそうに器を受け取り、少しずつ水を口に含んだ。竹は相変わらず呆れた顔をしていたが、戦闘では先鋒を率いて立派に役目を果たしたことも知っているため、それ以上は何も言わなかった。


 その時、港の方を眺めていた浦が、近づいてくる小舟に気づいて声を上げた。


「あっ、大久米だよ! 戻ってきたみたい!」


 別行動を取っていた大久米も、無事に帰還したのである。小舟が接岸すると、大久米は陸へ上がり、待っていた仲間たちのもとへ歩いてきた。


 椎根津彦は大久米の姿を見るなり、真っ先に作戦の結果を尋ねた。


「大久米、どうでした? 曾於族は南へ釣られましたか?」


 大久米はいつものように余計な言葉を口にすることなく、ただ黙って頷いた。その返答を確認した椎根津彦は、ようやく肩の力を抜き、安堵したようにわずかな笑みを浮かべた。


 敵軍の動きを誘導し、日向への北上を遅らせるという当初の目的は達成されたのである。自分の立てた策が思惑どおりに運び、仲間たちも無事に帰還できたことが、椎根津彦には何よりも嬉しかった。


 そして、この夜襲と船団の陽動によって曾於族の進軍は大きく乱され、日向への北上は十日どころか、二十日近くも遅れることになったのであった。

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