十九話 軍議の夜
日向の南に築かれた砦には、磐余彦の父である鵜葺が率いる大倭壱国の兵が続々と集結していた。
砦の広間では、迫りつつある曾於族への対応を決めるための軍議が開かれていた。中央には鵜葺が座し、その左右を息子である彦五瀬と磐余彦が固め、それぞれの後方には近習や将たちが控えている。磐余彦の背後には日臣と椎根津彦の姿があったが、大久米はこの場にはおらず、主の陣屋を守るため残されていた。
軍議で最も大きな問題となっていたのは、砦のさらに南で建設を進めている防御柵であった。
この砦そのものは日向南部を守るための拠点として十分な備えを持っているものの、その南側には防備らしい防備を持たない村々が数多く点在している。曾於族を砦まで自由に進ませれば、その途中にある村々が荒らされる可能性が高く、戦そのものに勝利したとしても、その後に残る被害は決して小さくない。
そこで鵜葺たちは、可能な限り南方に防御柵を築き、曾於族の進軍をそこで受け止めるつもりでいた。村々へ敵兵を近づけさせず、戦場そのものを人の暮らす場所から遠ざけるためである。
しかし、問題は時間だった。
防御柵はすでに建設を始めているものの、完成にはまだ相当の日数を必要としていた。それに対して曾於族の進軍は想定よりも早く、このままでは柵が完成する前に敵軍が到達してしまう。
砦より南に暮らす者たちには念のため避難を命じ、各地の倉に蓄えられていた食料についても、運び出せるものは可能な限り北へ移していた。それでも家屋や田畑まで持ち去ることはできず、曾於族がその一帯へ入り込めば、長い時間をかけて築いてきた村々が荒らされることは避けられない。
さらに鵜葺は、この争いを互いに引き返せなくなるほどの戦にすることも望んでいなかった。
曾於族を徹底的に打ち破ることだけが目的ではない。戦のどこかで相手にも退く余地を残し、いずれは和議へ持ち込み、双方が受け入れられる落としどころを探る必要がある。そのためにも、村を焼かれ、住民を殺され、互いの憎しみだけが積み重なるような状況はできるだけ避けたかった。
広げられた地図を見つめていた彦五瀬が、やがて難しい表情のまま口を開いた。
「父上、やはり南の防御柵は間に合わないのではありませんか」
鵜葺はすぐには答えず、地図の南側へ視線を落としたまま問い返した。
「曾於族は、今どこまで来ておる」
彦五瀬は、先ほど届いたばかりの斥候からの報告を思い返しながら答える。
「このままの速さで進んでくるのであれば、あと三日ほどもあれば南の村々へ姿を現すかと……」
その言葉を聞いた鵜葺は、しばらく黙ったまま指先で地図の上をなぞった。曾於族の現在地から南の村々、そして建設中の防御柵を経て、この砦へ至るまでの道筋を頭の中で確かめたあと、重く息を吐いた。
「防御柵をまともに使える形まで仕上げるには、あと十日は欲しいところだな……」
「おい、磐余彦。お前には何かよい案はないか?」
突然、彦五瀬から話を振られ、磐余彦はわずかに目を見開いた。
「わたしですか……うーん」
腕を組み、しばらく考え込んでみるものの、迫りつつある曾於族の進軍を遅らせ、その間に防御柵を完成させるような妙案は簡単には浮かんでこない。
磐余彦は考えながら何気なく後ろへ視線を向けた。
そこには近習として控えていた椎根津彦がいる。
二人の視線が重なった。
椎根津彦は何も言わなかったが、磐余彦を真っ直ぐ見返したあと、ほんのわずかに頷いてみせた。その仕草だけで、磐余彦には十分だった。
「椎根津彦、策を出しなさい」
「はっ」
名を呼ばれた椎根津彦は一歩前へ進み、居並ぶ者たちへ一礼してから口を開いた。
「必ず成功すると申し上げることはできませんが、策はございます。ただ、そのためにはどうしても必要なものがございます」
鵜葺は興味深そうに椎根津彦へ目を向けた。
「それは何かな?」
鵜葺も、日臣や椎根津彦のことは以前から聞いていた。息子である磐余彦の近習であり、幼い頃から伊邪那岐が直接手元に置いて教え込んだ若者たちである。とりわけ椎根津彦は知恵に秀でていると聞いていただけに、この状況でどのような策を示すのか、鵜葺自身にも少なからず興味があった。
椎根津彦は一度息を整えると、迷うことなく答えた。
「船をお借りしたくございます。戦船だけでなく、漁船や運搬船を含めても構いません。できれば三十隻、可能であれば五十隻ほど、お預けいただきたく存じます」
「は?」
彦五瀬は思わず聞き返し、怪訝そうに眉を寄せた。
「五十隻だと? そんな数の船を何に使うつもりだ。磐余彦が率いている兵は数百ほどであろう。それだけの兵を動かすのに、そこまで多くの船など必要あるまい」
「まあ、よいではないか」
問い詰めようとする彦五瀬を、鵜葺が穏やかな声で制した。
「ですが、父上。五十隻ともなれば、戦船だけでは足りません。漁船や荷を運ぶための船まで集めなければなりませんぞ」
「それほどの数を求めるのなら、何か考えがあってのことだろう。最初から全てを説明させてしまっては、手腕を見る楽しみもなくなってしまうではないか」
そう言ってから、鵜葺は改めて椎根津彦へ視線を向けた。
「よかろう。戦船だけでなく、漁船や運搬船を含めてもよいのなら、五十隻をそなたたちに預けよう。ただし、これだけの船を動かす以上、無駄にはできぬぞ」
「承知しております」
「ならば好きに使うがよい。伊邪那岐様が育てた者が、どのような策を見せてくれるのか、私にも見せてもらおうではないか」
その言葉を受け、椎根津彦は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。お預けいただいた船を決して無駄にはいたしません。ご期待に添えますよう、全力を尽くします」
軍議を終えた磐余彦たちが自分たちの陣屋へ戻ってくると、入口をくぐったところで、炊き上がった米と焼いた肉、それに煮炊きした野菜の香ばしい匂いが漂ってきた。
軍議へ向かう前にはなかった匂いに磐余彦が足を止めると、留守を任されていた大久米が奥から姿を現し、いつもの無表情のまま静かに一礼する。
「ご苦労様、大久米。竹と浦が来ているのかい?」
磐余彦が尋ねると、大久米は言葉を発する代わりに一度だけ大きく頷いた。その仕草だけで十分に事情を察した磐余彦は、日臣と椎根津彦を伴って陣屋の奥へと入っていった。
そこでは竹と浦が夕餉の支度をすっかり整え、器を並べながら三人の帰りを待っていた。
「遅かったわね。いつまで軍議しているのよ」
竹はそう言いながらも、本気で責めている様子はなく、帰ってきた三人の姿を確認すると、どこか安堵したように表情をわずかに緩めた。
「本当だよー。せっかく作った料理が冷めちゃうじゃない」
浦も頬を膨らませてみせながら鍋の蓋を開け、まだ十分に湯気が立っていることを確かめると、満足そうに笑った。
まるで自分たちの陣屋であるかのように振る舞っている二人を見ても、磐余彦たちには何の違和感もなかった。むしろ、竹と浦がこうして待っていてくれたことが嬉しく、軍議の間ずっと張り詰めていた空気が、ようやく少しだけ遠ざかったように感じられた。
幼い頃から、同じ屋根の下で学び、働き、食事をし、時には喧嘩までしてきた仲間たちである。この場に竹と浦がいることは、磐余彦たちにとってあまりにも自然なことであり、久しぶりに昔へ戻ったような懐かしささえあった。
磐余彦は並べられた料理を眺めながら、ふと幼い頃のことを思い出した。
竹も浦も、初めて那岐のもとへやって来た頃は、武芸のことばかり考えていて、炊事や裁縫などにはほとんど興味を示さなかった。それでも那岐に言われるまま毎日の仕事を覚え、失敗を繰り返しながら少しずつ上達し、今では誰かのためにこうして夕餉を用意できるほどになっている。
特に浦の料理には、ずいぶん振り回されたものだった。
教えられた通りに作ればよいものを、途中で思いついた何かを勝手に加え、そのたびに味を台無しにしてしまうことが時折あった。本人だけは「今度は美味しくなると思ったのに」と不思議そうな顔をしており、竹や日臣に叱られても、しばらくするとまた同じことを繰り返していた。
当時は夕餉を前にして皆で頭を抱えたものだが、それすら今となっては笑って思い返せる懐かしい出来事だった。
もう誰も、あの頃の子供ではない。
それでも、目の前で料理を並べながら言い合っている竹と浦の姿を見ていると、日向のあの家で皆と暮らしていた日々が、つい昨日のことのように思い出される。
磐余彦はしばらく二人を見つめたあと、自然と口元を緩めていた。
一同が食事を始める中、椎根津彦だけは軍議で決まった策に必要な物資や人員の手配を済ませるため、その場にはまだ姿を見せていなかった。
竹と浦が用意した料理を前にしても、磐余彦たちは椎根津彦を置いて先に箸をつけようとはせず、しばらく待っていると、ようやく陣屋の入口から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「椎根津彦、遅いわよ! みんな待っているんだから!」
入ってきた椎根津彦を見るなり、竹が少し苛立った声を飛ばすと、当の本人は悪びれた様子もなく自分の席へ向かいながら答えた。
「先に食べていていいのに。私のことまで待つ必要はなかったでしょう」
「何言っているのよ。みんなで一緒に食べないと美味しくないでしょ」
浦が当然のことのようにそう言って笑うと、椎根津彦もそれ以上は何も言わず、ようやく腰を下ろした。
磐余彦、日臣、大久米、椎根津彦、竹、浦。
六人全員がこうして同じ場所にそろい、一つの食事を囲むのはいつ以来のことだっただろうか。幼い頃には毎日のように繰り返していた光景だったはずなのに、それぞれが成長して立場を持ち、別々の役目を担うようになった今では、こうして全員が何の気兼ねもなく同じ膳を囲むだけでも、どこか懐かしいものに感じられた。
もっとも、そんな感慨に浸る暇を与えてくれるような面々でもない。
「ちょっと大久米! それ私の肉よ! 取っておいたのにー! あなた黙ってしれっとやりたい放題しすぎよ!」
浦が声を上げた時には、すでに大久米は問題の肉を口へ運んでいた。
抗議の声が聞こえていないわけではないはずなのだが、大久米はまったく気にした様子を見せず、そのまま黙々と食事を続けている。
幼い頃、親を失ったうえに村を追われ、飢えた末に道端で倒れていた経験が残っているのか、大久米は普段どれほど無口で遠慮深くとも、食事のこととなると妙に容赦がなかった。
「まあまあ。大久米の食いしん坊はいつものことじゃないか」
磐余彦が笑いながら仲裁すると、日臣も料理を口へ運びながら大久米をちらりと見たが、すぐに別のことが気になったのか、今度は向かいに座る竹と浦へ視線を向けた。
「だいたい、お前ら最近、余計なところに肉付きすぎじゃねえのか、護衛の役目ちゃんとできるのかよ」
一瞬、場が静まり返った。
日臣の言葉の意味を理解した竹と浦は、ほとんど同時に顔を真っ赤にすると、無意識に片腕で胸元を隠すような仕草を見せ、その一方でもう片方の手に握っていた箸へ力を込めた。
そして次の瞬間、右から竹、左から浦の箸が伸び、日臣の両腿を容赦なく突いた。
「いってぇぇぇええええええ! 何しやがる!」
悲鳴を上げて飛び上がりかける日臣を前にしても、竹は涼しい顔を崩さない。
「ちょこっと突いただけじゃない。かすり傷にもならないわよ、大げさね」
「本当ねぇ。こんなに強く突いたのに刺さらないものなのね。やっぱり箸は武器にはならないなぁ」
浦は自分の箸をしげしげと眺めながら、妙なところで納得したように頷いている。
「俺の太腿で試してんじゃねぇぇーーー!」
日臣が怒鳴ると、竹は眉一つ動かさずに言い返した。
「この程度もかわせないくせに、よく私たちの護衛の仕事へ文句をつけられたものね」
「上等だ! いつまでも姉貴風吹かせてんじゃねえぞ!」
「あら、日臣ったら、昔みたいにまた泣きべそをかきたいの? かわいいわねぇ」
「なんだとーーー!」
とうとう立ち上がろうとした日臣だったが、その肩を横から伸びてきた太い腕ががっちりと押さえ込んだ。
大久米である。
大久米は何も言わない。ただ日臣の動きを止めたまま、もう片方の手では何事もなかったように食事を続けている。
「おい大久米! 離せ! というかお前、止めるならあいつらの方だろ!」
当然、大久米は答えない。
その騒ぎを横目に、椎根津彦は小さく息を吐いた。
「やれやれ……騒々しいですね。もう少し静かに食事をしてください」
「お前がそれを言うのかよ」
日臣が呆れたように振り返ると、椎根津彦は食事をしながらも、視線だけはどこか遠くへ向いていた。
「船を五十隻として……人員を分けるなら……いや、夜のうちに動かすのであれば灯りは最小限にして……」
ぶつぶつと独り言を続けながら、椎根津彦は料理を口へ運んでは何かを考え、また小さく呟いている。
「椎根津彦、お前は飯の時くらい仕事を忘れろ」
「そうしたいのですが、思いついた時にまとめておかないと忘れてしまいますので」
「真面目すぎんだよ、お前は……」
日臣が呆れて肩を落とし、竹と浦はまだどこか不満そうな顔をし、大久米は変わらず料理を食べ続けている。
そんな昔とほとんど変わらない仲間たちの姿を見渡しながら、磐余彦は堪えきれなくなったように笑った。
「みんな、よく集まってくれた。明日からはきっと忙しくなるし、こんなふうにゆっくり顔を合わせて食事ができる時間も減るだろうから、今夜くらいは難しいことを考えずに楽しもう」
磐余彦がそう言って笑うと、それまで騒がしかった一同もどこか照れくさそうに笑い、竹は箸を持ったまま、しばらく黙って磐余彦の横顔を見つめていた。
自分が磐余彦に特別な想いを抱いていることを、竹はもう否定していなかった。幼い頃からずっと傍にいて、泣き虫だった狭野が少しずつ成長し、一人の男として立とうとしている姿を見続けるうちに芽生えた感情が何なのか、今でははっきり分かっている。
けれど、それを口にするつもりはなかった。
自分は伊邪那岐の護衛であり、磐余彦にとっては幼い頃から共に育ってきた仲間でもある。まして磐余彦にはすでに妻がおり、今さら自分の想いを伝えたところで、相手を困らせるだけなのではないかと竹は考えていた。
だから、今はそれでよかった。
同じ場所で食事をし、同じ戦を前にし、こうして目の前で笑っていてくれる。それだけで十分なのだと、自分に言い聞かせるように竹は静かに磐余彦を見つめていた。
その視線に気づいた浦は、何も言わず姉の横顔を見てから、今度は磐余彦へ目を向けた。
竹が何を考えているのか、双子の妹である浦にはなんとなく分かっていたし、それは自分も同じだった。
かつては弟のように思っていた狭野が、いつの間にか自分より背も伸び、一人の男として戦場へ向かおうとしている。その変化を意識するようになってから、自分の中にある感情まで以前とは違うものになってしまったことを、浦ももう理解している。
それでも今は、気持ちを伝えなくてもよかった。
姉もいて、日臣も、大久米も、椎根津彦もいて、そして磐余彦がいる。
幼い頃から共に笑い、喧嘩をし、学び、失敗を重ねてきた仲間たちが、こうして再び同じ場所に集まっているということが、浦には何より嬉しかった。
そんな皆の顔を見回しながら、磐余彦はふと思った。
――これで那岐様がいてくれたら、本当に全員そろうのにな。
幼い頃から何か困るたび、いつも傍には那岐がいた。
勉強が嫌になった時も、田仕事で弱音を吐いた時も、無茶をして叱られた時も、自分ではどうにもならないことが起きた時には、最後には必ず那岐がいてくれた。
だからなのか、今でも心のどこかでは、那岐が傍にいてくれれば大丈夫だと思ってしまう自分がいる。
けれど、そこまで考えたところで磐余彦は小さく笑った。
いつまでも那岐様に頼っているわけにはいかない。
自分たちはもう、あの家で叱られながら文字を習い、田仕事を嫌がり、食事の取り合いをしていた子供たちではないのだ。
日臣も、大久米も、椎根津彦も、それぞれ自分の役目を背負えるようになり、竹と浦も護衛として十分に頼れる武人へ成長した。そして自分自身もまた、いつまでも泣き虫だった狭野のままでいるわけにはいかなかった。
明日から始まる戦では、自分も誰かに守られるだけの御子ではなく、仲間たちと共に立ち、自分の判断で進まなければならない。
楽しそうに笑い合う仲間たちを見つめながら、磐余彦は胸の内で静かに覚悟を固めていた。




