十八話 曾於族侵攻
西暦二百四十五年。磐余彦が自立してから、一年が経過していた。
竹と浦は十七歳となり、二人ともすっかり美しい娘へと成長していた。椎根津彦は十六歳、磐余彦、日臣、大久米は十五歳になっている。
ここ数年で、竹と浦の身体つきにも大きな変化があった。幼い頃には気にも留めなかった髪型や衣の着こなしを意識するようになり、互いの身なりを確かめ合うことも増えている。
とりわけ、磐余彦が婚姻してから、その傾向は強くなっていた。吾平津媛という正妻の存在を目の前にして、二人は否応なく自分たちも一人の女なのだと意識するようになったのである。
武芸なら負けるつもりはない。幼い頃から鍛え続けてきた槍も剣も弓も、自分たちの誇りだった。けれど、それだけでは駄目なのではないか――。
そんな思いもあって、二人は以前より自分たちの容姿を気にするようになっていた。髪や衣の着こなしだけでなく、成長とともに変わっていく身体つきや胸の大きさにも自然と意識が向くようになっていた。
那岐は護衛として仕えてくれている竹と浦に、給金の代わりとして交易で手に入れた品々を与えていた。上質な布の反や、綺麗な小物などである。
二人はもともと服の仕立てや裁縫を得意としていたわけではない。むしろ幼い頃は苦手としていたほどだった。しかし、美しい布を自分の好きな形に仕立てて着られるとなれば話は別だった。二人は那岐から貰った様々な布を使い、自分たちの衣を仕立てるようになっていった。
特に二人が好んだのは、かつて豊穣祈願の際に身につけた巫女服を思わせる意匠だった。ただし、あくまで二人は那岐の護衛である。華やかさだけを求めるのではなく、走ることも武器を振るうこともできるよう、動きやすさを重視して仕立てていた。巫女服の美しさを残しながら、護衛として実用に耐える衣装へと工夫していったのである。
好きな服を自分たちの手で作りたいという思いは強く、以前は苦手だった裁縫にも自然と熱が入った。何着も仕立てていくうちに針仕事にも慣れ、竹と浦の仕立てと裁縫の腕前はみるみる上達していった。
この年、海流に何らかの異変が起きたのか、その理由は定かではなかったが、沿岸では海の幸が大きく減り、不漁が続いていた。
日向でも漁の不振は問題となったものの、もともと米作りを生活の中心としていたため、ただちに人々の暮らしを脅かすほどの事態には至らなかった。
しかし、南に隣接する曾於族の支配地域では事情が大きく異なっていた。
曾於族の住む土地には火砕流によって形成された台地が広がり、土には砂が多く、稲作には決して恵まれた環境ではなかった。そのため人々は獣を狩り、海から魚介を得ることで食を支えていた。
その海から得られる恵みが失われたのである。不漁が長引けば、蓄えていた食糧もいずれ尽きる。このままでは多くの者が飢え、生き延びることすら難しくなることは明らかだった。
曾於族に残された選択肢は多くなかった。食べさせる者を減らすため口減らしを行うか。それとも、まだ食糧を持つ他国から奪うか。曾於族が選んだのは後者だった。
やがて曾於族の者たちは意図的に北へ進出し、日向の漁場へ入り込んでは魚介を奪うようになった。最初は小さな船や少人数によるものだったが、次第にその規模は大きくなっていった。
日向を治める大倭壱国側も、これを放置することはできなかった。漁場を荒らす曾於族を追い払うため兵が送られ、沿岸では幾度か小規模な衝突が起こった。双方に大きな被害こそ出なかったものの、争いが収まる気配はない。
むしろ、曾於族の動きは日に日に激しくなっていた。そして幾度かの小競り合いを経たある日、日向の地へ急報が届いた。
曾於族の大部隊が北上してきたとの急報を受け、日向の地の長である鵜葺は、ただちに領内全域へ兵の召集を命じた。各地の豪族や邑から兵が集められる中、磐余彦も自らの館に三百名ほどの兵を集め、父である鵜葺のもとへ参陣することになった。
磐余彦だけではない。日臣、大久米、椎根津彦にとっても、これが初めて経験する本格的な戦であった。
「やっと初陣を飾れるぜ。この日を待っていた!」
日臣は高揚を隠そうともせず、腰に佩いた剣へ手を添えた。その隣では大久米も鼻息を荒くし、いつになく気合いの入った様子を見せている。
「そんなに待ち遠しかったの?」
磐余彦が呆れたように尋ねると、日臣は当然だと言わんばかりに胸を張った。
「そりゃそうですよ。戦の経験もない武人なんて、格好つかないですからね」
対照的に椎根津彦は浮かれることもなく、少し離れた場所で何事かをぶつぶつ呟きながら考え込んでいた。すでに頭の中では、曾於族の進路や周辺の地形、兵の動きについて何度も思案を巡らせているらしい。
磐余彦はそんな椎根津彦の要望を受け、足が速く、山道にも長けた者を何人か預けていた。椎根津彦によれば、敵の位置や進路を把握するためには、何より情報を早く集めることが重要なのだという。
「戦かぁ……できることなら、早く終わってほしいな」
磐余彦は小さく呟いた。
日臣や大久米のような高揚は、自分の中にはなかった。戦など、できることなら避けて通りたい。たとえ戦わなければならないとしても、できるだけ人が死なずに済む形で終わらせたいと思っている。
もちろん、自分自身だって死にたくはない。
だが、そんなことばかり考えていて、本当に戦場で兵を率いることができるのだろうか。恐怖に呑まれ、判断を誤ってしまうのではないだろうか。
初めて向かう戦場を前に、磐余彦の胸には高揚よりも、不安と緊張の方が大きく広がっていた。
一方、那岐の家にも曾於族侵攻の知らせは届いていた。磐余彦が自ら兵を率い、父の鵜葺のもとへ参陣したこともすぐに伝わってきた。しかも、磐余彦にとって今回が初陣である。
その知らせを聞いてからというもの、竹と浦の様子は明らかにおかしかった。二人とも普段と変わらないよう振る舞っているつもりらしいが、何をしていてもどこか落ち着かない。ふとした拍子に外へ目を向けたり、会話が途切れると黙り込んだりしている。
夕食の席でも同じだった。竹は黙々と食事を進めているものの、いつもより箸が遅い。浦も普段なら何かしら話題を見つけて喋っているのに、今日は妙に静かだった。
那岐はそんな二人を横目で眺めていたが、しばらくして小さくため息をついた。
「ごほん。曾於族が攻めてきて、狭野が兵を率いて戦場へ向かったという話は知っているかい?」
竹がすぐに顔を上げた。
「はい。伺っています」
「うん。もう村中でその話をしているから、私も知ってるよ」
浦も何でもないことのように答えた。
那岐は二人の顔を交互に見た。
「だけど、狭野たちにとっては初陣なんだよね。大丈夫かな?」
途端に竹も浦も黙り込んだ。
竹は少し間を置いてから、努めて平静な声を出した。
「だ、大丈夫です。日臣だっておりますし、大久米だって一緒です」
「そうそう。それに椎根津彦だっているよ。あの子、昔とは比べものにならないくらい賢くなったし、誰よりもたくさん勉強してきたんだから」
浦も竹に続いた。
二人とも磐余彦なら大丈夫だと言い聞かせるように、次々と理由を並べている。
那岐はその様子を見ながら、少しだけ意地悪そうに微笑んだ。
「でも狭野は、きっと不安だと思うなぁ」
「…………」
「…………」
「だって、ずっと自分を守ってくれていたお姉さんたちが、今は傍にいないんだからねぇ」
竹の手が止まった。浦も何も言えなくなり、視線を落とす。食卓には、しばらく何ともいえない沈黙が流れていた。
竹も浦も、何かを言いたそうにしながら口を開こうとはしない。
そんな二人を見つめていた那岐は、やがて静かに口を開いた。
「竹、浦。しばらく私の護衛の役目を解除します」
「……え?」
竹が顔を上げる。浦も驚いたように那岐を見つめた。
那岐は二人へ穏やかに告げた。
「そして新しい役目を命じます。狭野の軍に合流して、狭野の護衛をしてあげなさい」
「!?」
竹が目を見開いた。
「いいのですか!」
浦は思わず身を乗り出した。
だが竹はすぐに我に返り、ためらうように口を開いた。
「で、でも……私たちの役目は、伊邪那岐様の護衛です」
「うん。そうだね」
那岐は柔らかく笑った。
「でも狭野を守ることだって、立派な役目だよ。それに、ずっと一緒に暮らしてきた仲じゃないか。初めての戦で不安に思っているかもしれない。助けに行ってあげなさい」
竹と浦は互いの顔を見つめた。言葉は必要なかった。二人とも、同じことを考えていたからだ。やがて二人は揃って那岐へ向き直った。
「承知いたしました!」
声がきれいに重なった。
那岐はその姿を見ながら、小さく笑った。本当は送り出したくはなかった。戦場なのだ。何が起こるかなど誰にも分からない。
竹も浦も、那岐にとっては長い年月を共に暮らしてきた娘同然の存在だった。できることなら、自分の傍に置いておきたい。
それでも――。
もし磐余彦に万が一のことがあれば、この二人はきっと一生後悔する。それならば、行かせてやるべきなのだろう。
「二人とも、しっかり役目を果たしておいで」
「はい!」
先ほどまで沈んでいた二人の顔に、久しぶりに生気が戻った。
竹はすぐに立ち上がると、自分の長槍を手に取った。穂先から柄まで丁寧に確かめ、続いて弓と矢筒の状態を確認していく。
浦も負けじと剣や短剣を確かめると、必要な荷をまとめ始めた。
「浦、矢は多めに持っていきなさい」
「分かってるって。竹こそ荷物を増やしすぎないでよ」
「戦場へ行くのよ。必要な物を揃えているだけでしょう」
「はいはい」
二人は慌ただしく準備を進めていった。その動きは驚くほど軽い。ここ一年ほど、磐余彦のことになるとどこか沈みがちだった二人からは想像できないほどだった。
那岐はそんな二人の姿を、何も言わず静かに見守っていた。
翌朝、竹と浦はまだ朝の空気が冷たいうちに旅支度を整えた。槍や弓、必要な荷を確かめ終えると、二人は家の前で那岐へ向き直った。
「それでは、行ってまいります」
竹がきちんと頭を下げる。その隣で浦も元気よく手を振った。
「那岐様、行ってきます!」
「うん。二人とも気をつけてね。無茶はしないように」
「はい」
二人は顔を見合わせると、すぐに磐余彦の軍が向かった方角へ歩き出した。最初こそ普通に歩いていたものの、家から少し離れたところで浦が振り返る。
「竹、急ごう!」
「わかっているわよ!」
二人はそのまま小走りになった。
那岐は家の前に立ったまま、その背中を見送っていた。十七歳になった二人の姿は、もう幼い頃とはまるで違う。武器を携えて駆けていく姿は、誰かに守られる子供ではなく、自分の役目を背負って進む一人前の護衛そのものだった。
やがて二人の姿が道の向こうへ消える。那岐はしばらくそこに立っていたが、誰もいなくなった家へゆっくりと戻った。
いつもなら竹の小言が聞こえ、浦の笑い声が響いている。以前は狭野や日臣、大久米、椎根津彦までいて、食事一つするだけでも騒がしかった。
今は、不思議なくらい静かだった。那岐は部屋を見回してから、小さく息を吐いた。
「巣立つのがみんな早いよ。寂しいじゃないかい」
那岐はもう一度だけ二人が消えていった道へ目を向けると、どこか名残惜しそうな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと一人きりになった家の中へ戻っていった。




