十七話 竹と浦の動揺
西暦二百四十四年。
竹と浦は十六歳、椎根津彦は十五歳、磐余彦、日臣、大久米は十四歳になっていた。
磐余彦たち四人が自立し、那岐の家を出てから一か月が過ぎている。磐余彦の館では新しい暮らしが始まり、慌ただしくも賑やかな日々が続いていた。
それとは対照的に、那岐の家はすっかり静かになっていた。竹と浦にも以前のような元気がない。何をしていても心ここにあらずで、食事の席でも二人の口数は少なかった。
かつて皆で暮らすために増築した家には、今では使われなくなった部屋が残されている。その空いた部屋を見るたびに、以前よりも家が広くなってしまったように感じられた。
ある日の食事中、浦がぽつりと呟いた。
「今頃、磐余彦達はどうしているのかなぁ」
竹は少し間を置いて答えた。
「賑やかみたいよ。新しい生活で忙しくしているようだし」
「そっか。寂しくなんて感じている暇もなさそうね」
「……そうね」
それきり会話は途切れ、また静けさが戻ってくる。そんな二人の様子を毎日のように見ていた那岐も、いい加減いたたまれない気持ちになっていた。
那岐は、沈んだままの二人を見ながら、ふと思いついたように声を掛けた。
「そうだ。そろそろ一か月経ったし、狭野の館へ農作物と米を持って、お祝いに行こうと思っているんだ。荷物運びを手伝ってくれないかい?」
「磐余彦の館に? 行きます!」
浦は顔を上げるなり、迷うことなく即答した。
竹も一瞬だけ戸惑った様子を見せたが、少し間を置いて静かに頷いた。
「はい。お手伝いします」
返事の仕方こそ違っていたが、二人の表情には、それまで失われていた明るさが少しだけ戻っていた。
翌日、那岐は竹と浦を連れ、農作物や米を積んだ荷車を引きながら磐余彦の館へ向かった。
館へ到着すると、庭先では日臣と大久米が武芸の稽古をしていた。二人は那岐たちの姿に気づくとすぐに稽古を止め、こちらへ駆け寄ってくる。
「那岐様、ようこそおいで下さいました。竹も浦も、よく来てくれたな」
日臣が嬉しそうに声を掛ける。
「元気そうじゃない」
竹がいつもの調子で言うと、日臣は少し首を傾げた。
「ん? 元気というか、忙しいんだよ」
「寂しくなさそうでよかったわ」
浦がぽつりと言った。
その言葉を聞いた大久米が、何も言わず日臣の肩へそっと手を置く。
「え?」
日臣は大久米を見る。大久米は無言のまま竹と浦へ視線を向けた。
そこで日臣も、ようやく二人の言葉の意味を察した。
「あ、ああ……寂しくないと言えば、そんなことはないぞ」
少し慌てたように言葉を継ぐ。
「ただ、ここの生活が忙しすぎるんだ。何せ新居だからな。何かと足りないものも多くて、毎日それどころじゃないというか……」
「……そっ」
竹はそれだけ答えた。
けれど先ほどより、その表情はほんの少しだけ柔らかくなっていた。
「ところで、荷車の荷物をお願いできるかな? それと、狭野にも会いたいのだけど」
那岐がそう頼むと、日臣はすぐに頭を下げた。
「あっ、申し訳ありません。椎根津彦ー!」
館の中へ向かって声を張ると、ほどなくして椎根津彦が姿を現した。
「那岐様ではありませんか。ご無沙汰しております」
「椎根津彦、那岐様たちを磐余彦様のところへ案内してくれ。大久米、俺たちは荷物を奥へ運ぶぞ」
日臣が手際よく指示を出すと、大久米は黙って頷き、すぐに荷車へ向かった。
新しい館へ移ってまだ一月ほどだというのに、日臣はすでに取り仕切り役として役目をきちんと果たしている。その姿を見つめながら、那岐は嬉しそうに目を細めた。
「では、こちらへ。ご案内いたします」
椎根津彦に促され、那岐たちは館の奥へと進んでいった。
奥へ案内された那岐たちは、しばらく待ったのち、磐余彦と吾平津媛を迎えた。
「那岐様、竹、浦。よく来てくれました。皆さん、元気にされていましたか?」
磐余彦が嬉しそうに声をかけると、那岐も柔らかな笑みを返した。
「元気だったよー。でも狭野たちがいなくなってから、家がずいぶん広く感じてね。少し寂しくもあったよ」
「う、うん。そうですか……。私も寂しく感じています。ずっと一緒にいましたからね」
磐余彦も少し照れくさそうに笑う。八年もの間、同じ家で暮らしてきたのだ。新しい生活が始まったからといって、すぐに以前の日々を忘れられるものではなかった。
那岐は続いて、磐余彦の隣に座る吾平津媛へ顔を向けた。
「吾平津媛はいかがですか? 少しは新しい生活に慣れましたか?」
「はい。磐余彦様も皆様も、とてもよくしてくださっています。まだ知らないことも多く、不束者ではございますが、これからもご指導のほどよろしくお願いいたします」
吾平津媛は丁寧に頭を下げた。その仕草を見た那岐は満足そうに何度か頷く。
「うんうん。狭野は良い奥さんを貰ったね」
那岐は幼い頃から変わらぬ呼び名で磐余彦をそう呼びながら、嬉しそうに微笑んだ。
竹と浦は口を開くこともなく、ただ磐余彦と吾平津媛の様子を静かに見つめていた。胸の奥には自分たちでもうまく言葉にできない感情が渦巻いており、何を話せばよいのか分からなかった。
そんな二人に気づいた吾平津媛が、柔らかな笑みを向けた。
「あの、そちらのお二人が竹様と浦様でしょうか?」
声を掛けられ、竹ははっと我に返った。
「あ、失礼いたしました。ご挨拶が遅れました。竹でございます」
浦も慌てて竹に続く。
「浦でございます、姫様」
吾平津媛は二人を交互に見ながら、嬉しそうに微笑んだ。
「お二人のお話は、以前からよく伺っております。とてもお強く、頼りになる方々だと。竹様はしっかりされた方で、浦様はとてもお優しい方だと聞いておりますわ」
「いえ。私たちなど、大したことはしておりません」
竹はそう答えて、静かに頭を下げた。
吾平津媛は柔らかく微笑む。
「これからも、夫をよろしくお願いいたします」
――夫。
その一言が、竹と浦の胸に深く刺さった。二人とも、すぐには返事ができなかった。
これまで胸の奥にあった寂しさも、磐余彦のことを考えるたびに感じていた落ち着かなさも、今になってようやく一つにつながった。
浦はわずかに視線を伏せる。
「は、はい……」
いつもの明るさは、その声にはなかった。
竹も表情を崩さないよう努めたが、返事までにほんの少し間が空いた。
「……承知いたしました」
その言葉を口にした瞬間、竹も理解してしまった。
自分たちはずっと、磐余彦をただの幼馴染や弟のような存在として見ていたわけではなかったのだと。
那岐は、その場に漂う妙な空気を感じ取った。竹も浦も先ほどからほとんど口を開かず、どこか居心地が悪そうに俯いている。このまま長居するのはよくないだろう。そう判断すると、那岐は穏やかに立ち上がった。
「それでは、私たちはこれで帰らせてもらうよ」
「もう帰られるのですか?」
磐余彦が少し意外そうな顔をする。
「うん。実はこのあと、少し寄るところがあってね。また今度、ゆっくりお邪魔させてもらうよ」
「そ、そうですか……」
磐余彦は何か引っかかったような表情を見せたものの、それ以上は尋ねなかった。
館を出たところで、日臣が駆け寄ってきた。
「早かったですね。荷車は空けましたが、持ち帰られますか?」
「いや、このあと少し寄るところがあってね。悪いけれど、大久米にでも後日届けさせてくれないかい?」
「はい。承知いたしました」
「では、また来るよ」
那岐がそう告げると、三人は館を後にした。
竹も浦も、館を出るまで一言も口を開かなかった。二人とも俯いたまま、ただ黙って那岐の後ろを歩いていた。
「那岐様、寄るところってどこかしら……?」
館を離れてしばらくしてから、浦がぽつりと尋ねた。那岐は少しだけ歩みを緩めると、二人の様子を見ながら静かに答えた。
「……今日は、もう帰ろうか」
「うん……」
浦はそれ以上、何も聞かなかった。竹も黙ったまま歩いている。
那岐が先ほど口にした「寄るところ」など、本当はなかったのだ。あの場にこれ以上いさせないために、那岐が口実を作ってくれたのだと、二人には分かっていた。
磐余彦と吾平津媛が並んでいる姿。穏やかに言葉を交わす二人。そして吾平津媛が口にした「夫」という言葉。その一言が、竹と浦の胸にずっと引っかかっていたものへ、はっきりと名前を与えてしまった。
寂しかった理由も、磐余彦の館へ行くと聞いた瞬間に胸が弾んだ理由も、吾平津媛の隣にいる磐余彦を見た時に胸の奥が苦しくなった理由も、ようやく分かった。
自分たちは、磐余彦に恋をしていたのだ。
けれど、そのことに気づくには遅すぎた。二人は並んで歩きながら、ずっとうつむいていた。何かを話そうとしても言葉にならず、口を開けばそのまま涙までこぼれてしまいそうだった。
しばらくして、浦の足が止まった。
「……うっ……」
小さく声が漏れたかと思うと、ぽろぽろと涙が頬を伝っていく。
「なんで……今頃……」
浦は慌てて袖で涙を拭ったが、一度こぼれ始めた涙は止まらなかった。
その姿を見た竹が何か言おうとする。
「浦……」
慰めようとしたのか、いつものように叱ろうとしたのか。けれど、その先の言葉は続かなかった。竹の顔がくしゃりと歪む。
「……っ」
ずっと堪えていたものが、一気に溢れた。浦よりも激しく、竹は声を押し殺すこともできずに泣き始めた。
「竹……」
浦が涙に濡れた顔を上げる。竹は何も答えられなかった。普段なら誰よりも気丈で、浦にも狭野にも弱音を見せない竹が、今は子供のように泣いていた。
那岐はそんな二人を見つめた。何か言葉を掛けようとして、やめた。今はどんな言葉も違う気がした。ただ二人の肩へ腕を回し、そっと抱き寄せる。
浦はそのまま那岐の肩へ顔を埋めた。竹も最初は堪えようとしていたが、やがて力を抜き、那岐へ身体を預けた。
那岐は何も言わなかった。慰めることも、励ますこともしない。ただ二人を抱き寄せたまま、泣き止むまで傍にいた。やがて三人は、ゆっくりと家への道を歩き始めた。竹と浦のすすり泣く声だけが、静かな帰り道にいつまでも続いていた。
那岐は、泣きじゃくる竹と浦の肩を抱き寄せながら、ゆっくりと帰り道を歩いていた。
――やはり、荷車を置いて帰ってよかった。
あれを引きながらでは、こうして二人を抱いてやることもできなかっただろう。
腕の中では、竹も浦も涙を止められずにいる。いつの間にか自分より背も伸び、護衛として十分に頼もしくなった二人だが、今ばかりは幼い頃と変わらない少女に見えた。
――月読……この子たちも、とうとう恋をするようになったよ。
八歳で自分のもとへやって来た双子が、十六歳になり、一人の男性を想って泣いている。その成長を嬉しく思う気持ちは確かにあった。
けれど、よりによって二人が好きになった相手は磐余彦である。
――でもね、好きになった相手が厄介だな……。
磐余彦はすでに吾平津媛を妻として迎えている。そして竹と浦にとっては、幼い頃から弟のように育ってきた相手でもあった。
四百五十年もの時を生きてきた那岐にも、こんな時に何を言ってやればいいのか分からなかった。励ますべきなのか。何も言わず、泣きたいだけ泣かせてやるべきなのか。
結局、那岐にできたのは二人を抱き寄せ、歩調を合わせて家へ帰ることだけだった。
――こんな時はどうしたらいいのかな……漣、那美。教えてほしいよ。
胸の内で呼んだのは、遥かな昔に那岐が愛した二人の女性の名だった。
数え切れないほどの知識を得て、いくつもの国の興亡を見届け、四百五十年を生きてもなお、恋に泣く少女たちへ何をしてやればよいのかだけは、那岐にも分からなかった。




