十六話 初夜を成功させろ!
西暦二百四十四年。
那岐と磐余彦たちが共に暮らすようになって、八年の歳月が流れていた。
竹と浦は十六歳となり、二人とも美しい少女へと成長している。椎根津彦は十五歳、磐余彦、日臣、大久米は十四歳。幼かった子供たちも、今ではそれぞれ年頃の少年少女となっていた。
そして磐余彦の婚姻まで、あと七日。
その日の朝、館ではいつものように磐余彦たちが揃って朝食を取っていた。食事が進む中、磐余彦がふと思い出したように箸を止める。
「初夜って、どうすればいいの?」
あまりにも唐突な問いに、日臣の手が止まった。
「どうするって……初夜に限らず、やることは決まっているかと……」
「行為そのものは、なんとなく分かっているんだよ。でも、ほら。ちゃんとしたやり方って誰も教えてくれなかったから。初夜にも何か儀式とかあるのかな?」
磐余彦は至って真面目だった。
椎根津彦も少し考え込んでから答える。
「儀式は、さすがにないと思いますけれど……何分、私も詳しくありません。それに那岐様のところには、その手の指南書もありませんでしたから」
「そんな書物とかあんのかよ……」
日臣が呆れたように尋ねると、椎根津彦は頷いた。
「存在していることだけは知っています。私も実際に見たことはありませんが」
「だったら、とりあえず父上の鵜葺様に聞いてみたらどうです?」
日臣は磐余彦へ視線を向けた。
「そもそも今回の婚姻を言い出したのも鵜葺様でしょう。それに政略による婚姻も経験されているんですから、そのあたりも色々ご存じなんじゃないですか?」
「なるほど。父上なら知っているかもしれないね」
磐余彦は素直に頷いた。
「そうだね。訊いてくるよ」
鵜葺の館を訪れた磐余彦は、父と向かい合うなり、少し言いにくそうに本題を切り出した。
「父上。少しお訊きしたいことがあります」
「何だ?」
「その……初夜についてです」
「なに? 初夜だと?」
鵜葺は思わず聞き返した。
「はい。私の供回りは皆、そういった経験がありません。ですから父上なら、いろいろと指南していただけるのではないかと思いまして」
「…………」
「父上の初夜はいかがだったのでしょうか?」
磐余彦はいたって真面目だった。鵜葺はしばらく黙り込み、わずかに視線を泳がせた。
「……あー……昔すぎて忘れてしまったわ。ははは……」
明らかに不自然な笑いだった。しかし磐余彦は、その様子を特に疑うこともなく頷いた。
「そうですか。では、母上に訊けばよいのでしょうか?」
「訊くでない!」
鵜葺が突然、声を張り上げた。
磐余彦は驚いて目を瞬かせる。
「え?」
「いいか。絶対に母には訊くな。絶対だぞ」
「は、はあ……」
妙に切迫した父の表情を前に、磐余彦はそれ以上問い返すことができなかった。
磐余彦が館へ戻って父とのやり取りを話すと、日臣、大久米、椎根津彦の三人はそろって何ともいえない顔になった。
口には出さなかったものの、全員の胸中は同じだった。
『しくじってんじゃねーよ……』
「仕方ありませんね。でしたら、次は那岐様にお訊きされてはいかがでしょう?」
椎根津彦がそう提案すると、日臣もすぐに頷いた。
「それがいいと思います。ただ、できれば竹や浦がいない時を狙った方がいいですね。こんなことで悩んでいると知られたら、何を言われるかわかりませんから」
磐余彦もそれには強く同意した。
「わかった。二人がいない時を見計らって訊いてくるよ」
磐余彦は木の陰に身を隠し、そこから那岐の家を覗いていた。日臣から竹と浦がいない時を狙った方がいいと言われたからだが、それ以上に、初夜のことで悩んでいるなど双子には絶対に知られたくなかった。
しばらく様子を窺っていると、都合よく那岐が一人で家から出てきた。磐余彦は木の陰から半分だけ顔を出し、小さく手を振る。
いかにも怪しい。
那岐はそんな磐余彦を見つけて首を傾げたものの、人目を避けたい話なのだろうと察し、静かに歩み寄った。
「どうしたんだい? そんなところに隠れて」
「隠れてました……竹と浦には知られたくなくて……」
「はあ……それで、何かな?」
磐余彦は周囲に誰もいないことをもう一度確認してから、小声で話し始めた。
「その……婚姻が迫ってまして。私、まだ知らないのです」
「何を?」
「だから……初めてすることをです」
「ん? そりゃ婚姻は初めてだよね?」
磐余彦は黙って那岐を見つめた。
駄目だ。
たぶん、この人は駄目かもしれない。
半分ほど諦めながら、それでも他に頼れそうな相手はいない。磐余彦は意を決し、今度こそ誤解されないよう単刀直入に訊くことにした。
「初夜ですることです。私、女性と、その……経験がありませんから。どのようにしたらよいのでしょう?」
「ああ……」
ようやく意味が通じたらしい。那岐は少し考え込んだあと、何かを教えるような穏やかな顔になった。
「それはね、おしべとぉ、めし――」
「もう結構です!」
磐余彦は最後まで聞くことなく踵を返した。
「あれ?」
背後から那岐の声が聞こえたが、磐余彦は振り返らない。
この人に訊いた自分が間違っていた。そう確信しながら、そのまま足早に立ち去っていった。
館に戻った磐余彦は、那岐とのやり取りを日臣たちに報告した。話を聞き終えた三人は、揃って何とも言えない顔になった。
――役に立たない大人ばっかりだな。
誰も口には出さなかったが、全員が同じことを思っていた。しばらく沈黙していた大久米が、ぽつりと口を開く。
「衛兵には既婚者がいる」
一度言葉を切り、少し考えてから続けた。
「村人にも訊ける」
「ああ、そうか。館の衛兵なら既婚者もいるからな」
日臣も納得したように頷いた。
「村の人たちにも訊いてみましょう。何人かに話を聞けば、参考になることもあるはずです」
椎根津彦も賛成する。
「じゃあ、私も一緒に――」
「磐余彦様、さすがにそれは駄目です」
日臣がすぐに止めた。
「そうですね。御本人があちこちで初夜について訊いて回るのは、立場上、少々威厳にかかわります」
「ここは我らにお任せください」
日臣は妙に真剣な顔で胸を張った。
大久米も静かに頷く。
ただ、三人はそこで同時に大久米を見た。
普段から必要なことしか話さず、表情だけで意思を伝えようとする男である。
――大久米は、いったいどうやって訊くつもりなのだろう。
磐余彦たちは、そこだけが少し気になった。
「最初は男が威厳を見せるもんですぜ!」
聞き込みに応じた男が、さも当然のことのように胸を張った。
「お、おう。そうなのか?」
日臣は真剣な顔で頷いたものの、男はすぐに声を潜める。
「いや、ですがな。結局は家内の機嫌を損ねないようにせんと、失敗したことを一生言われますぞ」
「おう……大変なんだな……」
日臣は何とも言えない顔になった。別の男に話を聞けば、今度は身振り手振りを交えながら説明を始める。
「だから最初に、こうやって――ばぁーんとやって、それから、どぉーーんと――」
「もういい、次……」
日臣は途中で話を打ち切った。
人によって言うことは違う。威厳を見せろという者もいれば、妻に逆らうなという者もいる。妙に具体的な説明を始める者までいて、聞けば聞くほど何が正しいのか分からなくなっていった。
すっかり疲れて館へ戻った日臣は、そこで椎根津彦を見つけた。
椎根津彦は何枚もの木簡を前にして、聞き集めた話を熱心に書きまとめている。その横顔はいつになく真剣だった。日臣は何気なく木簡を覗き込み、そこに書かれた題を読み上げる。
「なになに……『初夜における男女の心理と実践について』……」
思わず日臣は顔を上げた。こいつは研究でも始めているのか。
「お前、新しい学問つくってないよな?」
「情報は整理した方が分かりやすいでしょう」
椎根津彦は至って真面目だった。その後も二人は数日かけて、既婚の衛兵や村人たちから話を聞いて回った。
一方、大久米も聞き込みに挑んでいたらしい。だが、大久米は相手をじっと見つめ、表情だけで問いかけようとするため、誰にも意図が伝わらなかった。結局、大久米だけはほとんど情報を集められずに戻ってきた。
こうして集めた話を整理すると、夜になるたび磐余彦の館で四人による初夜対策会議が開かれるようになった。男はどう振る舞うべきなのか。女性は何を不安に思い、何を望んでいるのか。
聞き集めた話には矛盾も多かったが、日臣と椎根津彦は一つずつ整理し、大久米も黙って耳を傾ける。そして磐余彦は、三人が苦労して集めてきた知識を必死になって頭へ叩き込むのだった。
そして迎えた婚姻の日。儀式も滞りなく終わり、夜が訪れた。
寝所では、寝間着に着替えた磐余彦と吾平津媛が向かい合って座っていた。だが、二人とも俯いたまま、なかなか口を開くことができない。
「…………」
「…………」
静かな寝所に、気まずい沈黙だけが流れていた。磐余彦は必死に頭を働かせていた。
今夜のために、最初に何を話すのか。それからどう話を続けるのか。近習たちと何度も相談し、それなりに段取りまで考えていたはずだった。
ところが、いざ吾平津媛と二人きりになってしまうと、そのすべてが頭から抜け落ちていた。このまま黙っているわけにもいかない。磐余彦は意を決して口を開いた。
「……実は、最初に何を言えばいいのか、ちゃんと決めていたのですが……緊張して全部忘れてしまいました」
「あら……」
吾平津媛が少し驚いたように顔を上げた。
「私の近習たちも誰も経験がなくて。それでも皆が色々な人に訊いて回ってくれたんです。作法というか……どうしたらよいのかを、色々と教えてくれまして」
そこまで話してから、磐余彦は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
吾平津媛も同じように頬を赤らめる。
「私も……母や侍女たちから色々と教わってまいりましたので、たぶん大丈夫……ですわ」
「大丈夫って……すごい。きちんと学んでこられたのですね」
磐余彦が素直に感心すると、吾平津媛は困ったように微笑んだ。
「教わったとは申しましても、聞いただけです」
そして少し間を置き、恥ずかしそうに俯く。
「私も……何をどうすればよいのか、本当はよく分かりません」
その言葉を聞いて、磐余彦はようやく少しだけ肩の力を抜いた。自分だけが何も分かっていないわけではない。
目の前にいる吾平津媛もまた、自分と同じように緊張し、不安を抱えてこの夜を迎えているのだと、そこで初めて気づいたのだった。
「姫」
磐余彦が静かに呼びかけると、吾平津媛は伏せていた顔をわずかに上げた。
「はい」
「私たちは、今日初めて会いましたね」
「そうですね」
「それなのに婚姻して、今夜から夫婦として一緒に生きていくことになりました」
吾平津媛は何も答えず、ただ磐余彦の言葉を待っていた。
磐余彦も少し黙った。皆から聞いた話も、何度も頭の中で練習した言葉も、いざ彼女を目の前にすると役に立たなかった。
「だから……いきなり私を好きになってほしいとは思っていません」
吾平津媛が意外そうに目を瞬かせた。
「今夜から少しずつでいいと思うんです。一緒に食事をして、話をして、お互いのことを知っていって……そういうものを長い年月をかけて積み重ねていけばいい。いつの間にか、私を好きになってくれていたら、それで十分です」
「今でなくても、よいのでしょうか?」
「もちろんです」
磐余彦は困ったように笑った。
「いきなりは私だって無理です。だって、今日会ったばかりですよ」
吾平津媛は一瞬きょとんとした後、口元を押さえて小さく笑った。
「ふふふ……たしかに、そうですわね」
その笑顔を見て、磐余彦の肩からようやく少し力が抜けた。
「だから、これからよろしくお願いします」
改めて頭を下げる磐余彦を見て、吾平津媛も柔らかな笑みを浮かべる。
「はい。喜んで」
翌朝、磐余彦が顔を洗おうと奥から出てくると、すぐに大久米が気づいた。大久米は何も言わず、水の入った桶と手拭いを用意して差し出す。
「ありがとう、大久米」
受け取った磐余彦だったが、大久米はその場を動かなかった。無言のまま、じっと磐余彦の顔を見ている。長年一緒にいるだけに、その表情が何を訊ねているのか磐余彦にはすぐ分かった。
『昨夜はいかがでしたか?』
そう顔に書いてある。磐余彦は少しだけ考えてから、照れくさそうに笑った。
「たぶん、合格点じゃないかな」
大久米がわずかに眉を上げる。
「満点とはいかなかったと思うけど……まあ、最初から満点じゃなくてもいいや」
これから少しずつ積み重ねていけばいい。昨夜、自分で吾平津媛にそう言ったばかりなのだから。
大久米は満足そうに頷くと、右手を軽く握りしめた。言葉こそなかったが、それは彼なりの祝福だった。




