十五話 少年たちの失恋
西暦二百四十四年。
那岐と狭野、そして子供たちが共に暮らし始めてから、八年の歳月が流れていた。
竹と浦は十六歳となり、二人とも幼い頃の面影を残しながら、美しい娘へと成長していた。椎根津彦は十五歳。狭野、日臣、大久米は十四歳となり、かつて無邪気に駆け回っていた少年少女たちも、それぞれ年頃を迎えていた。
話は、狭野の婚姻を十日後に控えた頃まで遡る。
この頃、狭野のための新たな館が完成していた。それまで那岐のもとで暮らしていた狭野は、日臣、椎根津彦、大久米の三人を伴い、新しい館へと移り住むことになった。
しかし、新しい生活をゆっくり楽しむ暇はなかった。館への引っ越しを終えた直後には、成人の儀式が待っていたからである。準備に追われる慌ただしい日々を過ごし、ようやく儀式の日を迎えた。
そして成人の儀式を終えた狭野は、幼名を離れ、新たに磐余彦と名乗ることになった。その儀式には那岐も姿を見せ、竹と浦も磐余彦の門出を見届けていた。
儀式を終えた磐余彦に、竹はいつもの厳しい調子で言った。
「もう大人なのだから、大人らしい振る舞いをしなさい」
成人したその日でさえ、竹の態度は昔とほとんど変わらない。
一方の浦は楽しそうに笑いながら、
「寂しくなっても泣かないのよ~」
と、幼い頃の泣き虫だった狭野を思い出させるようにからかった。
「もう泣かないよ」
磐余彦は少し不満そうに言い返した。
そんな三人の様子を、那岐は少し離れたところから静かに眺めていた。特別な言葉を掛けることはなかった。褒めることも、何かを言い聞かせることもない。
ただ、幼い頃から見守ってきた狭野が一つの節目を迎えた姿を、穏やかな表情で見つめていた。
その夜、成人の儀式を終えた磐余彦たちは、ようやく肩の力を抜くことができた。十日後には吾平津媛が館を訪れ、そのまま婚姻の儀が控えている。明日からは再び慌ただしくなるだろう。だからこそ、今夜くらいは四人で静かに過ごしたかった。
「大人かぁ……まだ実感がわかないなぁ」
磐余彦がぼんやりと呟くと、日臣が苦笑した。
「そのうち実感も湧きますって」
「儀式というものは、気持ちを切り替えるために行うものなのかもしれませんね」
椎根津彦も穏やかに続けた。
磐余彦は三人の顔を順番に眺めて、ふと思い出したように笑った。
「そういえば、四人だけでこうして話すことって、今まであまりなかったね」
「一人、ほとんど喋らない奴がいますけどね」
日臣の視線が大久米へ向く。
大久米は何も言わず、いつもの無表情で日臣を見返した。
「大久米はちゃんと喋ってくれてるじゃないか。顔に書いてあるし」
「たしかに。長く一緒にいますからね。顔を見れば大体わかります」
椎根津彦まで当然のように頷いた。
「お前ら、大久米の顔芸を普通に読めるようになってたのかよ……」
日臣が呆れると、大久米はわずかに顎を上げ、どこか得意げな表情を浮かべた。
「そこ、どやるところじゃねーから」
その一言で堪えきれなくなり、四人は一斉に笑い声を上げた。新しい館に、少年時代から変わらない笑い声がしばらく響いていた。
「次は十日後に婚姻だよ。会ったこともない相手なのに、全然実感が湧かないや」
磐余彦がそう言うと、その場にいた三人は黙り込んだ。
相手の顔すら知らないまま婚姻する。それでも磐余彦のような王族にとって、婚姻は自分の意思だけで決められるものではない。家や国のために果たさなければならない役目でもあった。
しばらく沈黙が続いたあと、磐余彦は少し迷うように口を開いた。
「……あのね。実は私、竹と浦が好きなんだ。いや……好きだった、かな」
「だった?」
日臣が聞き返す。
「うん。いつからだったのかなぁ。たぶん、ずっと前からなんだと思う。最初からだったのかもしれない」
磐余彦は自分でもよく分からないというように、困った顔で笑った。
「ちゃんと二人を好きなんだって自覚した時期も、はっきり覚えてないんだ。小さい頃からずっと一緒に暮らしてきて、家族みたいなものだっただろう? だから気がついたら……なんとなく二人のことを好きになってたんだと思う」
「では、なぜ……」
日臣の問いに、磐余彦は少し困ったように笑った。
「だって、竹と浦は結局、私のことを弟としか見ていないじゃないか。小さい頃からずっと護衛として傍にいてくれて、今では二人とも立派に自立した女性だよ。それに比べたら、私は今でも家族の中で一番手のかかる子供みたいな扱いだ」
磐余彦はそこで一度言葉を切り、静かに息を吐いた。
「それに、私はもう妻を娶る。いつまでも二人を好きなままではいられないよ。ちゃんと気持ちに区切りをつけないといけないんだ」
椎根津彦は少し迷ったあと、静かに口を開いた。
「わかるような気がします。若様が……いえ、磐余彦様がそうおっしゃるのでしたら、私も話しておきましょう。実は私も、浦に惹かれておりました」
「浦に?」
日臣が意外そうに聞き返す。
「はい。浦は明るくて、人との距離を縮めるのが上手で、何事にも臆せず飛び込んでいく。私にはないものをたくさん持っていました。昔から、そんな姿がとても眩しかった」
「眩しかった、か」
「ええ。ただ、想いを伝えようと思ったことはありません。ずっと前に諦めましたし、今ではもう心の整理もできています」
「日臣は?」
磐余彦に問われ、日臣はしばらく黙り込んだ。だが、やがて観念したように頭を掻く。
「俺は……ええい、もう言いますよ。俺は竹が好きだ。好きだった。いや……今も未練がある!」
「ああ……」
椎根津彦が何かを思い出したように頷いた。
「そういえば昔、船酔いで竹に吐き掛けて、自分のものだと主張していましたね」
「あれは違うわ!」
日臣が即座に怒鳴る。
「船酔いで吐いただけだ! どんな主張だよ!」
磐余彦は二人のやり取りに笑いながらも、ふと不思議そうに首を傾げた。
「でも、どうして未練なんだい? 日臣はまだ竹に想いを伝えてもいないのでしょう?」
「……見ていればわかるもんですよ」
先ほどまで声を荒らげていた日臣が、今度は少しだけ寂しそうに笑った。
「竹が誰を見ているのかくらい、ずっと一緒にいれば嫌でもわかります」
それ以上は口にせず、日臣は小さく息を吐いた。
「それに俺には、まだ先にやらなきゃならないことがあります。若様……いや、磐余彦様に仕える者として、もっと強くならなきゃならない。もっと役に立てる男になりたい」
日臣は少し照れ臭そうに鼻を擦った。
「だから恋だの嫁だのは、その後でいいんです。今の俺には、まだ早いですよ」
「おれは……竹と浦が好きだ」
大久米がぽつりと口を開いた。
珍しく自分から話したことに、三人は驚いて一斉に大久米を見る。
「けれど……姉として、家族として好きだ。だから二人には、いつか幸せになってほしい……それだけだ」
大久米にしては驚くほど長い言葉だった。これまで一緒に生きてきた中でも、これほど続けて話したことはなかったかもしれない。
三人はしばらく何も言えず、大久米を見つめていた。
「お、おおう……」
ようやく日臣が、戸惑ったようにそれだけ返した。
「磐余彦様、明日からは婚礼の準備があります。もうそろそろお休みになってください。護衛は私たちが交代で務めますので」
椎根津彦はそう告げると、日臣と大久米へそっと視線を送った。二人もその意図を察したらしく、すぐに応じる。
「そうですね。後のことは俺たちに任せてください」
日臣が続けると、大久米も黙って頷いた。
「そ、そうかい……わかったよ。じゃあ、先に失礼するね。警護もいいけど、あまり無理はしないこと。おやすみ」
磐余彦はそう言い残して立ち上がった。三人は揃って頭を下げ、そのまま主が去っていくのを静かに見送った。
奥の戸が閉まる音を確認してから、日臣が口を開いた。
「で、なんだよ」
大久米が無言のまま顔を近づける。椎根津彦は少し声を落とした。
「磐余彦様……まったく気が付かれていない様子でしたから」
「ああ。全然気が付いてないな」
「竹と浦は、あれだけ分かりやすく磐余彦様に惹かれているというのに」
日臣は呆れたように息を吐いた。
「知らぬは本人たちばかりってやつだな。双子の方も、自分たちの気持ちには気が付いてないみたいだし」
大久米も大きく頷いた。
「しかも磐余彦様は十日後に婚姻を控えています。それで竹と浦への想いにも、けじめをつけようとなされているのでしょう」
「この時期に恋だなんだって話を持ち出すのはまずいよな。十日後には婚姻だぜ」
三人が難しい顔をする中、大久米がぽつりと言った。
「なら、四人で初夜をすればいい」
「…………」
日臣と椎根津彦はそろって固まった。
「ねーよ!」
二人の声が綺麗に重なる。
「お前、さっきまでいいこと言ってたのに、なんで急にそうなるんだよ!」
大久米は真顔のままだった。
日臣は頭を抱えながらため息をつく。
「とにかく今はそっとしておこう。磐余彦様にも、竹にも浦にもだ」
「そうですね。時間が解決してくれることを願いましょう」
椎根津彦の言葉に、大久米も頷いた。
しばらく沈黙が続いたあと、日臣が苦笑する。
「それにしても……結局、みんなあの双子が好きなんじゃねーかよ」
三人は互いの顔を見た。誰も否定できない。
やがて揃ってうつむき、少しだけ寂しそうに笑った。




