十四話 磐余彦の婚姻
西暦二百四十四年。
那岐が狭野や子供たちと暮らし始めてから、八年の歳月が流れていた。
竹と浦は十六歳となり、二人とも幼さを残しながらも美しい娘へと成長していた。椎根津彦は十五歳。狭野、日臣、大久米は十四歳となり、かつて無邪気に騒いでいた子供たちも、それぞれ年頃の少年少女となっていた。
そんなある日、狭野の父が那岐のもとを訪れた。
本来ならば、父親である自分が狭野を呼びつければ済む話である。だが、狭野を預けている相手は伊邪那岐だった。一族の祖ともいうべき存在を差し置いて息子だけを呼びつけるわけにもいかず、自ら足を運ぶことで礼を尽くしたのである。
もっとも、那岐は狭野の父の正式な名を呼ぶことを早々に諦めていた。
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)。
あまりにも長く、仰々しい。覚える気すら起きないほどで、とても会話のたびに呼んでいられなかった。そのため那岐は、以前から彼のことを単に鵜葺と呼んでいた。
その鵜葺が今回わざわざ訪ねてきたのは、狭野の将来について話があったからだった。
「狭野に縁談が来ている」
鵜葺から告げられた話は、狭野をこの機会に成人させ、そのまま婚姻させたいというものだった。
相手は吾平津媛。
狭野の大叔父にあたる火須勢理の娘であり、筑紫南部を治める豪族の姫でもあった。
単なる男女の縁談ではない。筑紫南部の諸勢力との関係を安定させるためにも、両家を婚姻によって結びつける意味は大きかった。
狭野もまた、一族に生まれた以上、そうした役目から逃れることのできない立場にあった。
「父上、私がもう婚姻ですか?」
突然持ち上がった話に、狭野は驚きを隠せなかった。
鵜葺はそんな息子を見ながら、落ち着いた口調で答える。
「お前も、もう十四歳になる。婚姻しても問題ない年齢だ。それに相手の姫とも年齢が近い」
「ですが、彦五瀬お兄様がおられるではありませんか?」
狭野には、自分より先に兄の彦五瀬が婚姻するものだと思えてならなかった。
だが鵜葺は小さく首を振った。
「あいつの婚姻は、女王日巫女様からまだ許されておらぬのだよ。どうやら日巫女様には、彦五瀬を娶わせたい相手に心当たりがあるようでな」
「それで、弟の私なのですね」
「うむ。それに、これを機に成人することもできる。何も問題はなかろう」
狭野はしばらく黙り込んだ。
その傍らで、那岐も何も言わず二人の話を聞いていた。
十四歳で婚姻すること自体は、この時代ではさほど珍しいことではない。まして政治が絡む婚姻ともなれば、さらに幼い年齢で夫婦となることすらあった。
狭野は一人の少年であると同時に、国を治める一族に生まれた御子でもある。婚姻もまた、その立場に伴う役目の一つだった。
すでに政治の表舞台から退いて久しい那岐にとって、口を挟むべき話でもなかった。
話はそのまま進み、狭野のために新たな館を建てることが決まった。館が完成すれば、まず成人の儀を行う。そして成人した狭野は、火須勢理の娘である吾平津媛を妻として迎え、二人で新しい館に暮らすことになる。
そうして狭野は、これまでの少年としての暮らしを終え、一人の成人した男として新たな生活へ踏み出すことになった。
その夜、家の中はいつになく静かだった。狭野の成人と婚姻は、本来ならば喜ぶべきことである。けれど誰もが素直に祝いきれず、食卓にはどこか妙な空気が漂っていた。
いつもなら食事の席で一番問題を起こすのは大久米だった。普段は寡黙なくせに、食べることになると遠慮がない。黙ったまま他人の分まで手を伸ばし、竹に叱られたり、食べ物を取られた浦から文句を言われたりするのが常だった。
ところが今夜の大久米は、自分の分だけを静かに食べている。それだけでも、いつもの食卓とはまるで違っていた。
「若様、良かったではありませんか。成人と婚姻ですよ。めでたいではありませんか」
日臣が努めて明るい声を出した。
「うん、そうだよね」
狭野も笑おうとしたが、その声にはどこか戸惑いが残っていた。
椎根津彦が続ける。
「若様が新しい館へ移られましたら、我らもお供いたします。我らの部屋など片隅で結構ですので、よろしくお願いいたします」
大久米も黙って頷いた。
「そうですね。若様の館ですから、我らも当然ついていきますぞ!」
日臣も力強く言った。
狭野、日臣、大久米、椎根津彦。少年たち四人は、新しく建てられる館へ揃って移ることになる。その話を聞きながら、竹と浦は黙って食事を続けていた。
八年だった。
この家で朝を迎え、一緒に食事をし、学び、働き、時には喧嘩をしながら暮らしてきた。けれど竹と浦は那岐の護衛である。狭野が自分の館を持ったからといって、二人まで一緒についていくわけにはいかなかった。
竹は俯いたまま黙々と食事を口へ運んでいる。
いつもなら誰よりもよく喋り、食卓を騒がしくする浦まで、今夜は何も言わなかった。
寂しい。
二人とも、まだその気持ちをうまく言葉にできなかった。
那岐もまた、そんな子供たちの姿を静かに見つめていた。八年前には、この家にいる全員がまだ幼い子供だった。
泣き虫だった狭野も、規律ばかり気にしていた日臣も、無口な大久米も、何にでも疑問を抱いた椎根津彦も、喧嘩ばかりしていた竹と浦も、いつの間にか大きくなった。
ずっと続くように思えていた暮らしも、同じ形ではいられない。家族のように皆で暮らしてきた日々が、もうすぐ終わろうとしている。それが成長というものなのだと分かっていても、那岐は少しだけ寂しかった。
夜更けになっても、狭野はなかなか眠ることができなかった。家を出て、ひとり静かに星空を見上げていると、しばらくして那岐がやってきた。
「眠れないのかい?」
「う、うん。まだ実感が湧かなくて……」
狭野は空を見上げたまま答えた。
もうすぐ成人し、見知らぬ姫と婚姻する。それが決まったというのに、どうにも自分のこととは思えなかった。
「そうだよねー。急に婚姻すると言われても、なかなか気持ちは追いつかないよね」
那岐は狭野の隣に立ち、同じように夜空を見上げた。
「でもね、だからといって婚姻相手の吾平津媛には優しくするんだよ」
「もちろんです。でも、どんな姫なのでしょうね。会ったこともないし……」
「そこが難しいところだね。普通なら好きになった相手と婚姻するものだけど、狭野の場合は婚姻してから、その人を好きになっていかないといけない」
狭野は少し考えてから、小さく頷いた。
「それが私の役目ですから」
「うん」
那岐はそれ以上、婚姻について何かを説こうとはしなかった。
狭野が王族として生まれ、その役目を受け入れようとしているのなら、自分が口を挟むことではない。ただ、これから始まる生活が少しでも穏やかなものになればいいと願うだけだった。
「……これからは、私は少し離れたところから見守っているよ。狭野も大人になるんだからね」
「はい!」
狭野は元気よく返事をしたものの、すぐに少し不安そうな顔になった。
「でも……困ったら相談しに来てもいいですか?」
「あはは。もちろんだよ」
那岐は柔らかく笑った。
「ただし、夫婦喧嘩の相談だけは御免だよ。それは二人でちゃんと話し合っておくれ」
「ええー、そこも相談に乗ってくださいよ」
「嫌だよ。そんなところまで私が間に入ったら、いつまで経っても夫婦になれないじゃないか」
「それもそうですね」
二人は顔を見合わせ、そのまま声を上げて笑った。
静かな夜空の下、狭野はこれから始まる新しい生活への不安を、ほんの少しだけ軽くすることができた。
数か月後、新しい館が完成すると、狭野の成人の儀が執り行われた。儀式を終えた狭野は幼名を捨て、磐余彦と名を改める。
そして成人の儀から十日後、婚姻相手となる吾平津媛が館へ到着し、二人の婚姻の儀も無事に執り行われた。
「姫、緊張しているのですか? 大丈夫ですよ。私がいますから、安心してください」
隣に立つ吾平津媛の緊張した様子に気づき、磐余彦は優しく声を掛けた。
「は、はい。ありがとうございます。とても心強いです」
吾平津媛も小さく頷く。
まだ互いのことをほとんど知らない二人である。言葉を交わす姿にもどこかぎこちなさが残っていたが、それでも互いを気遣おうとしていることだけは伝わってきた。
少し離れた場所では、日臣、大久米、椎根津彦が晴れ姿となった磐余彦を誇らしげに眺めていた。幼い頃から共に育ってきた主が成人し、妻を迎えたのである。
一方、磐余彦と吾平津媛が並んでいる姿を見つめる浦は、いつものような明るい笑顔を見せなかった。
竹も何も言わない。
ただ静かに二人を見つめている。
そんな双子の様子に那岐も気づいていたが、何も言わなかった。
那岐と竹と浦の三人は少し離れた場所に立ち、夫婦となった磐余彦と吾平津媛を、それぞれに複雑な思いを抱きながら静かに見つめていた。




