十三話 遭難
西暦二百三十九年。
那岐が狭野たちと共に暮らし始めてから、三年の月日が流れていた。竹と浦は十一歳、椎根津彦は十歳。そして狭野、日臣、大久米は九歳になっている。
大陸から日向の地へ戻り、しばらくが経過したある日のことだった。
「村の集会があります」
いつものように皆で朝食を囲んでいると、那岐がそう話を切り出した。
「村で定期的な寄りあいがあるみたいで、参加しないといけません」
「お任せ下さい。留守の間は代わりに私が那岐様の代行をします」
竹が胸を張って答える。
「私が留守の間は、どうしましょうかね~」
那岐が皆を見回すと、すぐに日臣が口を開いた。
「武芸の稽古でいいのでは?」
「私は浜辺にいって釣りがしたいなぁ」
浦は早くも遊びに行く気である。
「座学でよいのでは? 一番那岐様も安心でしょうし」
椎根津彦が真面目に提案した。
その言葉を聞いた途端、狭野が慌てて口を挟んだ。
「この前、那岐様が山菜が無くなったとおっしゃってましたから、山菜採りにいきましょう」
「そうね。もうそろそろ取りに行かないとって思ってたものね」
竹も狭野の提案には賛成した。
「苦いのが多いから要らないよ……」
日臣が嫌そうな顔をする。その横では、大久米まで同意するように頷いていた。
「好き嫌い言わないの!」
すぐさま竹の叱責が飛ぶ。
「山菜採りですかぁ……うーん」
那岐は少し考えるように首を傾げた。
「大丈夫ですよ、那岐様。私達だけでも」
浦が明るく答えると、竹も続けた。
「しっかり見張っておきます」
「見張らなくていいから山菜採ってね」
狭野は不満そうに口を尖らせた。竹に一日中見張られると思うと、どうにも窮屈で仕方がない。
そんな子供たちを眺めた那岐は、少し困ったように笑った。
「山へ行くのなら、あまり奥まで入らないようにしてくださいね」
「はーい!」
子供たちは一斉に、元気よく返事をした。
子供たちはそれぞれ籠を持ち、遠足にでも出かけるような気分で山へ入ると、さっそく山菜採りを始めた。
「いいですかぁ。あまり遠くに行かないこと。それから、みんなから離れたら駄目だからね」
竹が念を押すように一同へ言い聞かせる。
「わかってるって」
浦は軽い調子で返事をした。
「いちいち言わなくてもわかってるって。細かい奴だなぁ」
日臣まで面倒そうに言うと、竹はじろりと睨んだ。
「皆さんは、食べられる草や芽の見分けはついているのですか?」
椎根津彦が心配そうに尋ねた。
「……なんとなく?」
狭野は自信なさそうに首を傾げる。
「いつも食べているんだろ? わかるぜ。たぶんだけど」
日臣も胸を張って答えたものの、最後の一言でまったく頼りにならなくなった。
「竹といつも料理しているから、なんとなくわかるよ」
浦もそう答えたが、大久米だけは黙って首を横に振った。どうやらまったく自信がないらしい。
「……後でちゃんと確認して、分けないといけないかもね」
竹は早くも自分の仕事が増えそうな予感に、少しため息をついた。
「じゃあ、誰が一番たくさん採れるか競争だぁ!」
狭野が籠を抱えて声を上げる。
「遊びじゃないんだから、真面目にしなさーい!」
竹の忠告など気にも留めず、子供たちは一斉に散らばり、それぞれ山菜を探し始めた。
ほどなくして全員が夢中になり、草むらを覗き込み、木々の根元へしゃがみ込んでは、見つけた若芽や山菜を次々と籠へ入れていった。
その中でも竹と椎根津彦は、自分の山菜を採りながら、ときおり皆の籠の中を確認していた。食べられない草が混じっていれば取り出し、その場で山へ戻していく。
「草は根まで取らないでください。次に生えなくなっては困りますから」
椎根津彦は山菜を採るたび、周囲にも声を掛けていた。
珍しく狭野も夢中になっていた。見つけては採り、また少し先へ進んでは新しい山菜を見つける。そうしているうちに、いつの間にか籠はいっぱいになっていた。
「ふぅ……いっぱい採れた」
満足して顔を上げた狭野は、そこでようやく異変に気づいた。
周囲に誰もいない。
「……あれ?」
夢中になるあまり、知らないうちに皆から離れてしまっていたらしい。
空を見上げると、山へ入った時には晴れていたはずなのに、いつの間にか雲が増えていた。日差しも弱まり、山の中は先ほどよりずっと涼しくなっている。そのおかげで疲れを感じにくく、随分と歩いてしまったのかもしれない。
籠もいっぱいになったことだし、少し休んでから皆のところへ戻ろう。そう思った狭野は、喉の渇きを覚えて水辺を探すことにした。しばらく一人で山の中を歩いていると、ぽつり、と頬に冷たいものが落ちた。
また一滴。やがて木々の葉を小さく叩く音が聞こえ始める。
「雨になるのかなぁ……。早く帰らないと。みんなどこにいるのかなぁ」
狭野は少し不安そうに周囲を見回しながら、水辺を求めて歩き続けた。
とりあえず早く水分を補給して、みんなのもとへ戻ろう。そう考えた狭野は、山を下りながら川を探した。歩いているうちに雨は少しずつ強くなっていった。足元の土も濡れ始め、狭野は滑らないよう注意しながら先へ進んでいく。
やがて木々の向こうから水の流れる音が聞こえてきた。
「あった、やっと見つけたぁ」
狭野は嬉しそうに川へ駆け寄ると、浅瀬に入り、両手ですくった水を何度も口へ運んだ。喉の渇きが収まると、歩き疲れていたこともあり、その場に座り込んで少し休むことにした。
その時だった。
それまで穏やかだった川の流れが、少しずつ変わり始めた。川幅が広がり、水位も目に見えて上がっていく。しかし狭野はまだ異変に気づかず、疲れた体を休めていた。やがて流れはさらに速くなり、水が足へ強くぶつかり始める。
「……あれ?」
ようやく異変に気づいて顔を上げると、上流の方から低い轟音が聞こえてきた。狭野は慌てて立ち上がり、川から出ようとした。
しかし、すでに流れは先ほどとは比べものにならないほど強くなっていた。足を踏み出しても水に押し戻され、思うように前へ進めない。澄んでいた川には枝や枯葉が次々と流れ込み、水も急速に濁っていった。
「え……ちょっと……」
水位はさらに上がっていく。狭野は必死に岸へ向かおうとしたが、強い流れに足を取られ、とうとう身動きができなくなった。流されそうになった瞬間、すぐ近くにあった岩へ必死にしがみつく。
だが、岩の上へ登ろうとしても、水の勢いに押されて体を持ち上げることができない。狭野は両腕に力を込め、ただ岩から離されないよう必死にしがみついた。
『どうしよう、動けない……』
「狭野ーーーー!」
激しい雨音を突き破るように、竹の声が響いた。姿の見えなくなった狭野をずっと探し続けていたのである。そのすぐ近くには浦の姿もあった。
「たけぇーー! うらぁーーー!」
岩に必死にしがみついていた狭野も、二人の姿を見つけて声を張り上げた。川はすでに濁流となり、水位も勢いも増している。狭野がしがみついている岩の周囲では、茶色く濁った水が激しく渦を巻いていた。
「狭野がしがみついている岩の上まで飛び越えていくよ!」
「うん!」
浦の言葉に竹が頷く。
二人は迷わなかった。濡れた岩の上を次々と飛び移り、増水する川を越えて狭野のしがみついている岩の上まで辿り着いた。
「手を掴んで!」
「う、うん……」
浦が岩の上から身を乗り出し、狭野へ手を伸ばす。狭野は片手だけで岩にしがみつきながら、もう片方の手を必死に伸ばした。そして浦の手を強く掴む。その瞬間、竹が浦の身体へ後ろから腕を回し、流れに引き込まれないようしっかりと支えた。
「引っ張るよ!」
浦が力いっぱい腕を引く。狭野の身体が濁流から少しずつ持ち上がり、ようやく岩の上へ引き上げられた。助かったと分かった途端、浦は狭野を強く抱きしめた。
「もう心配したじゃないかぁ~!」
「痛いよ浦、力が強すぎるー」
狭野が苦しそうに訴える。
その横へ来た竹は、狭野の頭を軽く叩いた。
「何言っているの……本当に心配したんだからね」
「……ごめんなさい」
いつものように言い返すこともなく、狭野は素直に謝った。
竹もそれ以上は責めなかった。周囲を見回し、さらに激しくなっていく雨と川の様子を確認する。
「急いで避難しましょ」
「わかった」
三人はすぐに川から離れ、少しでも高く安全な場所へ向かった。
ようやく濁流から十分な距離を取ったものの、三人とも頭から足の先までずぶ濡れだった。濡れた衣が身体へ張りつき、冷たい雨に打たれ続けたことで急速に体温が奪われていく。
「ずぶ濡れね。どこか雨から避難できる場所ないかしら?」
竹が辺りを見回す。
「そうだね……寒くなってきた」
狭野は濡れた身体を震わせながら、自分の腕を抱いた。
その時、浦が木々の向こうを指差した。
「あそこ! 小屋じゃない? とりあえず行ってみない?」
三人の視線の先に、小さな小屋らしきものが見えていた。このまま雨に打たれ続ければ、ますます身体が冷えてしまう。まずは雨をしのぎ、身体を温めなければならない。
「そ、そうね。行きましょう」
竹の言葉に狭野と浦も頷き、三人は身を寄せるようにして小屋へ向かった。
大雨になったことで、那岐は村の寄りあいを途中で切り上げ、急いで家へ戻ることにした。山菜採りへ出かけた子供たちのことが心配になったからである。
山手へ向かってしばらく進むと、雨の中を歩いてくる日臣、大久米、椎根津彦の三人を見つけた。
「那岐様!」
日臣が那岐の姿を見つけるなり駆け寄ってくる。
「三人は無事だね。よかった。他の子たちは?」
「それが、若様が行方不明になってしまって、みんなで探していたのですが……」
椎根津彦が不安そうに答えると、日臣も続けた。
「雨が酷くなって、竹と浦も見失ってしまいました。今、どこにいるのかわからないのです」
大久米は何も言わず、申し訳なさそうに俯いていた。
那岐は三人の様子を確認すると、静かに目を閉じた。そして深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。吐息が淡い青色に染まり、那岐の身体から静かに妖気が漂い始めた。雨音の中、那岐は意識を集中させる。
狭野、竹、浦。三人の気配を探っていく。しばらくして、那岐はゆっくりと目を開いた。遠くに三人の気配がある。詳しい状態まではわからない。だが、生きている。それだけは確かだった。
「三人は私が連れ戻します。あなたたちは家へ戻って、すぐに濡れた衣を着替えなさい。それから囲炉裏を温めておいてください。薪も絶やさないようにね。毛布もたくさん出して用意しておいて」
「わかりました!」
日臣がすぐに返事をする。
「申し訳ありません。こんなことになってしまって……」
椎根津彦が頭を下げた。
那岐は柔らかく首を横に振った。
「あなたたちのせいではありませんよ。気にしないで」
それでも大久米は俯いたままだった。
那岐はそんな大久米にも穏やかな声をかける。
「ほら、早く戻りなさい。後は私に任せて」
「はい!」
日臣が力強く答えると、三人は家へ向かって走り出した。
那岐はその姿を見送ることなく、すぐに三人の気配を感じた方角へ身体を向けた。
狭野と竹、浦の三人は小屋へ逃げ込み、互いの身体を抱き寄せるようにして身を寄せ合っていた。
小屋の中には囲炉裏があり、薪も残されていた。しかし肝心の火種がない。濡れた身体のままでは、冷えていく一方だった。
仕方なく三人は肩を寄せ、互いの体温で少しでも身体を温めようとしていた。
「竹、浦、大丈夫? 私は大丈夫だから、もっと寄って。二人まで身体が冷えちゃうよ」
狭野が心配そうに声をかけると、竹はすぐに言い返した。
「生意気言わないの」
「十分くっついているじゃない。もっとくっつきたいなら、素直にそう言えばいいのに」
浦がからかうように笑う。
「そ、そういう意味じゃないってば。二人が心配になっただけだよ」
狭野は顔を赤くしながら慌てて否定した。
「子供がそんな心配しなくていいの」
「竹だって、まだ子供じゃないか」
「あら、密着されて嬉しそうにしているのに、そんなこと言うんだぁ」
浦がさらに面白そうに言うと、狭野はますます顔を赤くした。
「だから……そんなんじゃ……」
だが、その声は途中から急に弱くなった。強い眠気が狭野を襲い、身体から力が抜けていく。まぶたが重くなり、意識が急速に遠ざかっていった。
「狭野?」
竹が異変に気づいて顔を覗き込む。
返事がない。
「え? 寝ちゃったの? 狭野、寝ちゃ駄目!」
浦の声から、それまでの軽さが消えた。
双子の表情が一瞬で変わる。
「狭野、目を開けて」
竹は狭野の頬へ顔を近づけ、必死に呼びかけた。
「もっと温めないと……!」
浦も狭野の身体を強く抱き寄せる。
二人は狭野を挟むようにして抱きしめ、少しでも自分たちの体温を分け与えようと、さらに身体を密着させるのだった。
その時、小屋の外から大きな物音がした。何かが地面へ落ちたような音に、竹と浦がそろって戸口へ顔を向ける。直後、小屋の戸が開き、一人の少年が姿を現した。
伊邪那岐だった。
「那岐様!」
竹が安堵したように声を上げる。
「狭野が眠ってしまって……」
「体温もまだ戻ってないの」
浦も不安そうに訴えた。
那岐はすぐに三人の様子を確認した。竹と浦もずぶ濡れで体を震わせているが、もっとも状態が悪いのは二人の間で意識を失っている狭野だった。
「大丈夫。そのままでいて」
那岐は落ち着いた声でそう告げると、囲炉裏へ向けて手をかざした。次の瞬間、火種すらなかった囲炉裏に炎が灯った。
「え……」
竹と浦が目を見開く。
さらに那岐が軽く指を動かすと、部屋の片隅に積まれていた薪がふわりと宙へ浮かび、次々と囲炉裏の中へ収まっていった。炎は勢いを増し、冷え切っていた小屋の中へ急速に暖かさが広がっていく。
竹と浦は目の前で使われた妖術に驚いていたが、那岐は気にする様子もなく三人の状態を確かめ続けた。
「濡れた衣を着たままではよくないね。竹、浦。衣を脱ぎなさい。二人とも体が冷えていますよ。狭野は私が脱がせますから」
「む、無理です!」
竹が顔を真っ赤にして即座に拒絶した。
「そ、そうよ! 駄目です!」
浦まで慌てて胸元を押さえる。
非常時だというのに、思春期を迎えた娘たちはこういうところだけは譲らないらしい。那岐は困ったように二人を見たあと、小さく息を吐いた。
「それなら仕方ないね。私は後ろを向いているから、一度衣を脱いで、しっかり水を絞りなさい。絞り終えたら着直して、こちらへおいで。まずは体を温めましょう」
そう言って那岐は二人へ背を向け、その間に狭野の濡れた衣を整えた。
しばらくして竹と浦も衣の水を絞り終え、那岐の傍へ戻ってきた。
燃え盛る囲炉裏の前で、那岐は狭野を胸元へ大切に抱きかかえていた。竹と浦もその両肩へ身体を寄せ、残った寒さを追い払うように身を寄せ合った。
しばらくすると、安心して緊張の糸が切れたのか、竹と浦も那岐の両肩に寄り添ったまま眠ってしまった。
それから半刻ほど経った頃、ようやく激しかった雨が上がった。だが、狭野も竹も浦も目を覚ます気配はなく、三人とも深く眠り込んだままである。
那岐は眠っている三人を見回し、仕方がないと小さく息をついた。
そのまま三人の身体を妖術でそっと浮かせ、小屋の外へ運び出す。そして眠ったままの三人を大切に抱きかかえると、自らも宙へ浮かび、日向の家へと戻っていった。
結局、山菜採りに使っていた籠は山の中へ置き去りになってしまった。
後日、取り損ねた山菜を補うため、那岐を含めた家族七人全員でもう一度山へ入り、改めて山菜採りをすることになるのだった。




