十話 大陸へ
月読の教えを受け終えた子供たちは、これまで自分たちが知らなかった大倭壱国の目的や大陸の情勢を聞かされ、驚きと衝撃を隠せないまま館を後にした。
外へ出てしばらく歩いたところで、日臣がふと思い出したように浦へ声をかける。
「なあ、お前のひい爺ちゃんさ、本当にひい爺ちゃんなのか?」
「そうよ。ひい爺ちゃんは昔、壱岐の主だった人で、今では社まで建てられて神様として祀られてるの。伊予でも主になったことがあるし、瀬戸内では知らない人の方が少ないくらい有名なんだよ」
「まじかよ……。だけど見た目がよー。今、何歳なんだ?」
「えっと……たぶん百歳くらいじゃない? 不老だもん」
「本当に神様っているんだな……」
日臣が感心したように呟くと、隣を歩いていた竹が口を挟んだ。
「九十歳前後だと思うわよ。年齢について詳しく教えていただいたことがないから、私も正確には分からないけれど。ひいおじい様は不老長寿なだけではなく、妖術も使えるのよ」
竹も浦も、月読のことを話す時だけはどこか誇らしげだった。命を救い、自分たちを守ってくれた曾祖父であり、今なお各地でその名を知られる人物なのだから無理もない。
「妖術なら那岐様も使われておりましたね。本当に摩訶不思議としか言いようがありません」
椎根津彦がそう言うと、狭野はすぐ近くを歩いていた那岐を見上げた。
「そういえば那岐様は、もっと長生きなんだよね。今、何歳なの?」
「え?」
突然尋ねられた那岐は足を止め、しばらく考えるように宙を見つめた。
「あーーーー……たぶん四百歳くらいかな? もう途中から数えていないから、よく分からないや。あはは」
「…………」
あまりにも軽い口調で返され、狭野たちは揃って言葉を失った。
百歳近い月読だけでも途方もない話だったというのに、その父である那岐は四百年ほど生きているという。子供たちには、もはや長生きという言葉だけでは理解できないほどの年月だった。
そんな一同の反応を見て、那岐はいつものように柔らかく笑っていた。けれど、那岐にとって不老長寿は決して祝福ではなかった。
長く生きるということは、それだけ多くの出会いを経験できるということでもある。だが同時に、自分だけが変わらぬ姿のまま、親しかった者たちが老い、やがて一人ずつ先に逝く姿を見送り続けることでもあった。
喜びよりも、別れの辛さと、残される孤独の方が強く心に残っている。それでも、そんなことを狭野たちへ話す必要はない。
「まあ、長く生きているだけだよ」
那岐は何でもないことのように笑った。今はただ、目の前で楽しそうに騒いでいる子供たちが、それぞれ自分の人生を精一杯歩いてくれればいい。
那岐はそれだけを願っていた。
貢物と人選が整うと、一行は海路の安全を祈願するため宗像へ向かい、社を訪れた。
「なんて素晴らしい社なんだろう」
日臣は境内を見回しながら、素直に感嘆の声を漏らした。
「たしかに、大倭壱国連合を代表する立派な社という話も頷けます」
椎根津彦も、整えられた社殿を興味深そうに眺めている。
「綺麗な社だよねー……」
狭野も同意したものの、その言葉の途中で大きな欠伸をした。移動の疲れが溜まっていたうえ、いつもの昼寝もできていなかったため、すっかり眠くなっていたのである。
足取りまで覚束なくなり、狭野はふらふらと竹へ寄りかかった。
「もう、しょうがないわね」
竹はため息をつきながらも狭野を突き放すことはなく、そのまま肩を貸して歩き出した。
狭野は半分眠ったような顔で竹に寄りかかりながら進み、一行はそのまま社の奥へと向かっていった。
社では、市杵島姫が巫女として一行の海運安全を祈願することになっていた。那岐や狭野たちが並び、厳かな空気の中で祓いの儀式が始まる。
しかし狭野は長旅の疲れもあり、先ほどからひどく眠そうだった。ぼんやりと市杵島姫の姿を眺めていた狭野は、思考がほとんど働いていないまま、ふと口を開いた。
「このおばさん、何をしているの?」
ピキッ――。
どこからともなく、何かがひび割れたような音がした。
一瞬で場が凍り付いた。
「若様、それはヤバいです……」
日臣が青ざめた顔で呟く。
「……終わった」
椎根津彦も小さく言った。
大久米は何も言わなかった。ただ、いつもの無表情のまま顔だけが青ざめている。
さすがの那岐まで顔色を失っていた。
竹と浦に至っては、すっと顔を横へ向けた。自分たちは何も聞いていない。何も知らない。そんな態度である。
市杵島姫は月読の三女であった。月読の血を強く受け継いだためか、長い年月を生きても外見の若さはほとんど衰えておらず、見た目だけなら十代後半の美しい少女にしか見えない。
だが実際には、すでに六十を超えている。そして本人は、その年齢をかなり気にしていた。祓いの手を止めた市杵島姫から、ゆらりと異様な妖気が立ち昇った。
那岐は慌てて狭野の口を手で塞いだ。
「市杵島姫! あのね、子供の言っていることだから気にしないでね。市杵島姫は可愛いよ。若いよ。美しいよ~」
「あら、おじい様。大丈夫ですわ」
市杵島姫はにこやかに微笑んだ。
「海運安全の儀式をしているだけですのよ。ホホホ」
笑顔だった。
しかし目がまったく笑っていない。
それどころか、周囲に漂う妖気は先ほどより明らかに濃くなっている。
那岐は狭野の口を塞いだまま、不安そうに市杵島姫を見つめた。
「いや、それ……呪いではないよね? 私たち、これから大陸に向かうんだよ? 本当に大丈夫?」
「大丈夫ですわ」
市杵島姫は美しい笑顔のまま答えた。恐ろしい妖気だけは、最後まで消えることがなかった。
一行は奴国、壱岐、対馬を経由し、魏の直轄領となった帯方郡を目指して海を渡っていた。
「すごーい、広いなぁ」
どこまでも続く海を前に、浦は船縁から身を乗り出すようにしてはしゃいでいる。その一方で、日臣は船縁にしがみつき、海へ向かって盛大に吐いていた。
「うぉぉぉえええええ……」
しばらくしてようやく顔を上げたものの、その顔色は青い。
「はぁ、はぁ……よくはしゃいでいられるな……」
「あんたがだらしないだけでしょ」
竹は呆れたように言った。那岐の護衛として同行している以上、船の上でも平静を保つべきだと考えているのか、揺れる船にも動じた様子はない。
大久米も船酔いには強いようで、静かに座ったまま皆の様子を眺めていた。
そんな中、椎根津彦だけは船頭の傍から離れようとしなかった。
「この帆は、風が横から吹いた時にはどう張るのですか?」
「風向きが変わった時は?」
「波が高くなった場合、船首はどちらへ向けるのがよいのでしょう?」
船の構造から帆の扱い、風の読み方まで、次々と質問を重ねていく。
椎根津彦はかつて海で遭難し、一人だけ生き残って家族を失っていた。本来ならば船や海を恐れても不思議ではない。しかし本人は、そう考えていなかった。
あの時、自分たちには海についての知識も経験も足りなかった。だから遭難したのだと受け止めている。無知は罪だ。知識と経験があれば、同じことを繰り返さずに済むかもしれない。だからこそ椎根津彦は、船について学べる今の機会を逃そうとはしなかった。
「なんで元気なんだよ、お前ら……おかしいだろ……うっ」
再び込み上げてきたものを堪えながら、日臣が恨めしそうに皆を見回す。
「まったく、しょうがないわね」
竹はため息をつきながら日臣の傍へ寄り、その背中をゆっくりさすってやった。
日臣としては竹に世話を焼かれるのが悔しかったが、今はそんな意地を張れる状態ではない。黙って介抱を受けるしかなかった。
どうやら日臣が船に弱いのは、簡単には治りそうになかった。
そんな仲間たちの騒ぎをよそに、狭野は船の先から広い海を見つめていた。見渡す限り続く青い海。その向こうには、自分がまだ見たこともない大陸がある。
狭野の胸は高鳴っていた。これからどんな土地へ行き、どんなものを見ることになるのだろう。狭野の心は、これから始まる冒険への期待でいっぱいだった。
魏の国の帯方郡に、伊邪那岐率いる大倭壱国の一行が到着した。一行はまず郡治へ向かい、魏への朝貢のために来訪したことを伝える。だが、すぐに洛陽へ向かえるわけではなく、郡治からは手続きに時間がかかるため、しばらく現地で待機するよう命じられた。
こうして一行は、帯方郡にしばらく滞在することになった。
船を降りた途端、それまで船酔いで苦しんでいた日臣は嘘のように元気を取り戻していた。初めて目にする大陸の街並みを見回しながら、興奮したように声を上げる。
「ここが魏か! すげーな! 見たことないのばっかじゃねーか!」
那岐は月読から余分に預かっていた貢物を売り、五銖銭へ換えようとした。しかし帯方郡では、銅の不足や長年の戦乱による経済の混乱がまだ尾を引いており、五銖銭の流通も十分には安定していなかった。貨幣そのものは再び使われるようになっていたが、地方では今なお穀物や絹を代金の代わりとする取引が根強く残っている。
那岐は商店を回りながら品々を眺め、かつて漢帝国がまだ大きく乱れる前の頃を思い出していた。昔と比べれば並ぶ品の数は少なく、品質も落ちている。大陸は魏によって再び秩序を取り戻しつつあるとはいえ、長く続いた戦乱の傷跡までは消えていないのだと実感する。
一方、そんな事情などまだよく分からない狭野たちは、見るものすべてが珍しくて仕方がなかった。倭では見たことのない品や建物、人々の服装に目を奪われ、商店を覗くたびに楽しそうに声を上げている。
那岐が大陸の変化を静かに見つめる傍らで、子供たちは初めて触れる異国の街に目を輝かせていた。
那岐はこれまでにも交易のため、帯方郡を何度か訪れたことがあった。しかし、その先にある魏の都・洛陽まで足を運ぶのは初めてである。
洛陽へ向かえると考えると、那岐は四百年以上も昔のことを思い出していた。
まだ何者でもなかった少年の頃、海の向こうにある秦帝国をこの目で見てみたいと願っていた。結局、その願いが叶うことはなく、秦は滅び、長い年月の果てに漢までもが滅びてしまった。
それでも今、国の名も時代も変わってしまった大陸で、かつて憧れた都へ向かおうとしている。
「ずいぶん遅くなったけど……ようやく行けるんだね」
那岐は少しだけ嬉しそうに呟いた。
だが、今回の旅は那岐個人の願いを叶えるためのものではない。大倭壱国が魏へ朝貢し、その権威を得るための旅でもある。もし魏から倭王として認められれば、大倭壱国の立場はこれまで以上に強くなるだろう。
その一方で、東では三輪山との関係が修復されないまま、今なお二つの勢力は対立を続けている。魏の権威を得ることが、この均衡にどのような影響を与えるのか。
そればかりは、那岐にも分からなかった。遠い洛陽へ思いを馳せながら、那岐は楽しみと同時に、ほんの少しの不安を抱いていた。




