3:各務の夢想
駐車場に止めた愛車のドアに手をかけたその時、後ろから聞きたくなかった声が聞こえてきた。
「各務さーん!」
ギクリとして振り返ると、遠くから走ってくる帽子姿の早川が見えた。思った以上にシゲさんと話し込んで時間を食ってしまったらしい。オレは一瞬逃げ出そうかとも思ったが、だからといってアイツから逃げ切れるとも思えなかった。
仕方なく来るのを待っていると、アイツはオレの目の前で立ち止まり、乱れた息をわずかばかり整えただけですぐに顔を上げた。
「各務さんが乗り鞍譲ってくれたって聞いて、お礼が言いたくてすっ飛んできたんですよぉ。ありがとうございますー」
譲ったんじゃない。オレが乗れなくなったから、その代わりを頼んだだけだ。
お前に任せた馬は、乗り役がオレでなくてもよかった馬ばかりだ。特別強いってわけでもない。
別に礼とかそういう気持ちじゃない。お前がどこまでやれるか、見てみたくなっただけだ。ほんの少し、チャンスを分け与えてやっただけなんだ。
このチャンスをものにできるかどうか、それはお前の腕にかかってる。この先もこの世界で生きて行きたいのなら、ここでお前の持つ最大限の力ってヤツを見せてみろ──
……なんてことをコイツに直接言えるわけがない。何を勘違いされるかわからないからな。
お前を見つめたまま何も言わないオレを、早川はきょとんとした丸い瞳で見つめ返している。昨日のような切れ味の鋭い光は、今は見えない。その代わりに見える自分の姿に魅入って──オレは思わぬ言葉を口にしていた。
「お前は……なぜ騎手になろうと思ったんだ?」
なんでそんなことを聞いてしまったんだろう。そんなこと聞いたって何の得にもならないのに……
でも、聞いてみたい気持ちがずっとあったのも確かだ。何がそこまでお前を突き動かしたのか──オレへの憧れだけが、ここまでたどり着くだけの原動力になったとは信じがたい。
聞いてから後悔して迷うオレを笑うように、早川は口元を緩めた。
帽子を脱ぎ、クセだらけの髪を揺さぶる。髪の毛の栗色が光を反射してきらめいた。
もう一度オレを見つめた目は、光の届かない深海のような色をして、静かで、穏やかで、そして何より不気味だった。
「あの時も……」
ひどく落ち着いた声。早川らしくない。
「各務さん、泣いてたでしょ?」
あの時? いつのことだ?
「四年前のダービー。各務さんが初めて勝ったダービーですよ」
そんなバカな。あの時、オレは泣いてなんかいなかったはずだ。心にあったのは喜びでも悲しみでもない、ただ虚しさだけだった。
「インタビューでテレビに映ってた各務さん、泣いてましたよ。キレイな、透明な涙流してた……私にはその涙が見えましたよ。誰も信じてくれなかったけど」
お前には、お前にだけはそう見えていたと言うのか?
ああ……そうだったのかもしれない。
お前の言うとおり、オレはあの時泣いていたのかもしれないな。虚しさに押しつぶされそうになって悲鳴を上げた心が、由佳里の命と引き換えに手に入れたダービージョッキーの称号のその重みが、悲しむことを忘れた「フリ」をしていたオレに透明な涙を流させていたんだ、きっと。
「あんなキレイな涙流す人見たのは初めてでした。だから私、その人──各務さんのこと、もっと知りたいと思ったんです。それまでは競馬のこと全然知らなかったけど、あのダービーを見て、各務さんを知って、この人と一緒に馬に乗ってこんな大観衆の前を走ってみたいって……そう思ったから騎手になりました」
早川らしい答えだと思った。単純で、それでいて人の心を掴む言葉……ってなんでオレはこれに納得してるんだ? 魔女め……知らず知らずのうちに人を欺き、誑かすその手を二度と食うものか。
全く、侮れない女だな。あまりのバカっぷりに知識も思慮も浅い人間かと思っていたら、垣間見えた中身は意外にも、暗く先の見えない奥深さを感じさせる。
「各務さん」
由佳里とは似ても似つかない。容姿も声も話し方も何もかもが違うのに、瞳に宿る光だけはやはり由佳里を思い出す。初対面から感じていた不快感はこれが原因だったんだろう。正体がわかれば、怖がるほどのものでもない。
「私、ダービージョッキーになります!」
騎手なら誰でも口にする夢。誰もが目指す道だ。
そんな当たり前のことなのに……何故こんなにも心を揺さぶられるのだろう。
「各務さん。私がダービージョッキーになったら、私と結婚してくれますか?」
いつもなら即答してるだろう。「バカなことを言うな」と。
お前がダービーを勝てる確率は限りなくゼロに等しい。女性騎手がGIはおろか中央の重賞すら勝ったことのない現実を見ればそれは明白だ。
男にとっても簡単なことじゃない。一年に一回、ダービーに出られる馬が十八頭しかいないのと同じく、騎手だって出られるのは十八人しかいない。
ダービーに乗る──それだけでもお前にとっては至難の業だ。そしてそれに勝つとなったら、並外れた努力の上に、さらに並外れた運が必要になるだろう。努力だけでもダメ、運だけでもダメ。馬だけでも、人間だけでも勝てない。それが競馬なんだ。
だけど……
もし、万が一、お前がダービーに勝つなんていう奇跡が起きたとしたら──
『芝生の魔女』
それは後にあだ名される、早川の異名。
数々の番狂わせで超大穴万馬券を次々と生み出し、評論家と予想屋を震撼させ、穴党と観客を魅了する華やかな騎手の愛称。
後世に残る大偉業を成し遂げ、驚愕と畏怖をもって讃えられる名騎手の称号。
魔女は走る。青々と茂る芝生の上を、箒ならぬ美しきサラブレッドに跨って。
魔女は駆ける。眩しい初夏の日差しを一身に浴び、艶やかにたなびく栗毛の髪を翻して。
魔女は羽ばたく。府中の最後の直線、疾駆する馬を、ムチを手にただひたすらに追って。
魔女は吼える。勝利に沸き立つスタンドを煽るかのように、細い腕を高々と掲げて。
まるで芝生の上の歌劇だ。華やかな舞台、歓喜する聴衆。ウイニングランはさながらカーテンコールか。
劇が終わり、誰も彼もが口々に叫ぶ。勝者の名を、魔女の名を、舞台の主役を──
儚い夢──それは濃藍色の瞳が見せた、空しい幻だ。だが……
こんな夢も悪くないと思った。出来ることなら見てみたいとも思った。
もし、この夢が現実になるその時が来たら──そのときはオレのお前に対する感情も変わるかもしれないな。お前の起こす奇跡に心を動かされるかもしれない。
だから、今は否定も肯定もしない。それを答えにしよう。
オレの意図を汲んだのかどうかはわからないが、早川はペコリとお辞儀をし、そして背を向けて厩舎へと続く道を歩いていった。
朝日の当たる小さな背中。埃っぽい地面に短い影が差す。現役の中でも一番背が低いらしい。その背中に負う過去は誰よりも重く、辛いものだというのに……
なあ、早川──お前はその瞳に、どんな闇を映してきたんだ? その笑顔の下に、何を隠してる?
お前は何者なんだ?
心の中で問いかける。アイツに聞こえるはずなどない。
だが──早川は足を止めた。そしてゆっくりとこちらを振り返る。やっとお前を知り始めた、知りたいと思い始めたオレの想いに応えるかのように。
そして魔女は、妖しく微笑んだ。
長い話をお読みいただき、誠にありがとうございます。
数年前に書いて自サイトに置いてあった作品に、手をくわえながらこちらに載せさせていただきました。
このお話の主役は、あくまで萌黄だと私は考えています。
謎の女(笑)萌黄を、和弥、各務、シゲさんという三人の男の視点(一人称)で描くのがおもしろいんじゃないかと、当時は考えていたようですが……
視点コロコロ変わって読みづらいだけですよねorz
競馬という、ちょっと馴染みの薄い題材で恋愛モノ?という、誰得な作品ではありますが、読んでくださった皆さんが少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです。
作者としては、もちろん萌黄がダービージョッキーになるまでを書きたいと思っていますが、かなり先のことになりそうです。
今は他に書きたいものがたくさんあって、そこまで手が回っていなくて……
もし、この話の続きを書くことができたのなら、その時はまた皆さんに読んでいただけたらと思っています。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございましたm(_ _)m
12/19追加
8年後の世界を用いたクリスマスラブストーリー
「私の王子様」
http://ncode.syosetu.com/n6891bl/
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