第7章 二つの鍵
眠れなかった。
壁の数字は、まばたきするたび同じところにいた。百四十九。百九。百六十九。天井のパイプは幹のように走って、静かに、何も語らなかった。
カイは起きあがり、根へ降りた。低い振動が足の裏から迎える。工具箱から真鍮のスパナを取った。
弁を回す。抵抗を確かめて、戻す。夜にやるのは初めてだった。夜の手は、朝より多く訊いてくる。
――この弁は、いったい何を、バイパスしているのか。
カイは管を手のひらで辿った。弁の先は断熱材に包まれ、壁の中へ消えている。壁の向こうで、指先が冷たさに当たった。霜の匂いがした。燃料だ。
点検口の蓋を開ける。二年ぶりのことだった。
古いタンクがあった。圧力計の針は、生きていた。燃料系統図のどこにも、そのタンクは描かれていなかった。
タンクの足元に、油の染みた手帳が一冊、鎖で結ばれていた。
親父の字だった。
『点検。予備、異常なし』
同じ行が何年分も続き、あいだに短い文がはさまっていた。
『浮いた分はここへ回す。台帳に載せれば、計画が減速のぶんとして飲み込む』
『この弁は二本で開く。大事な弁を一人に開けさせるな――親父の言いつけだ』
最後の頁は、嵐の前日だった。
『晴れたら、カイに見せる。あいつはもう、弁を覚えた』
カイは手帳を握った。紙は、油のぶんだけ重かった。
端末に数字を並べる。計上された燃料の残りに、予備の十二パーセント。そこへ、親父のタンクを足す。航法の答えは単純だった。全燃焼、常時一点二G、燃焼約五十日。到達は百四十五日目。窓は百四十日目から百五十日目まで。
五日ぶんの隙間が、初めて開いた。熟れる前に着く。着いてから、熟れる。
手帳の裏表紙には、『種の降ろしかたは要綱の採取篇を見ろ』とあった。
幹に戻り、要綱の採取篇を開いた。
『採取は、適合因子保有者の生体神経接続(案内糸)による誘導を要す。接続の間、代行者の両手指の微細感覚は不可逆に失われる』
代行者の名簿。灰谷ミチル――失効。灰谷カイ――未登録。残ったのは一つ。
彼女の体から銀を引っぱり出すために、この手が感覚を払う。
双鍵コンソールは幹の中心にあった。全燃焼への切替項目を開くと、画面は定型どおりに返した。
『全燃料燃焼への移行には、承認資格者二名の同時承認を要す』
『現在有効な認証ID、二件』
二件。機械に乗員と貨物の区別はない。鍵は、ただ二本要る。
◇
翌日、カイはゆりかごの扉の前に立った。
扉は開いていた。ミオは恒温槽の縁を布で拭っていた。視線だけが、こちらへ来た。
「親父の日誌を見つけた」カイは言った。「計上されていない燃料がある。親父が少しずつ溜めていた。それを燃やせば、百四十五日目に着ける。窓の内側だ。余裕は五日」
布の手が止まった。
「それから、俺のファイルだ。枯れ枝を調べた日に読んで、黙っていた。適合因子、陽性。第二母体候補。……前にも言いかけた。黙ってたら、おまえがいなくなる気がした。今度は言う。黙ってるほうが、よほどまずい」
ミオは振り向いた。「私の承認が要るから、来たのね」
「鍵は二本。俺と、おまえのしかない」カイは言った。「押すかどうか決めるのはおまえだ。俺が決めることじゃない」
「種を降ろすには、案内糸が要るんでしょう。あなたの神経を、私の体に繋ぐの?」彼女は自分の腕を押さえた。「そしてあなたの手は、感じなくなる」
「ああ」
「私がだめだったら?」
「種もだめになる。だから、だめにしない」
「根拠は?」
「五日分の余裕と」カイは言った。「二人ぶんの手だ」
ミオは槽の縁に手を置いた。「燃焼したら、船は止められないの」
「減速の分も燃やす。着いても止まれない。通り過ぎる。壺に種を移して、通過のときに地球へ落とす。それきりだ」
「海は」
彼女は言った。
「着いたら見るって、約束した」
「見れない」カイは言った。「俺たちには見れない。でも、種が届けば海はなくならない。誰かが見る。それだけの話だ」
水音だけが、しばらく続いた。
「……約束は、死ぬのね」ミオは言った。「私の口で、そう決める。海は見れない。それでも、海は残る」
彼女はカイの手首を見た。「あなたの手がだめになったら、点検は?」
「いらなくなる。着くまで持てばいい」
「痛みは?」
「書いてない。感覚が消えるとだけ」
「条件がある」ミオは言った。「承認は私が打つ。あなたが押すのは、あなたの鍵だけ。それと――記録に私の名前を残して。第七号じゃなく。押したのはミオだと、残るように」
「誰も読まないかもしれない」
「残れば、いいの」
カイは自分の掌を開いた。指は、まだ自分のものだった。「俺は押す」彼は言った。「手がだめになるなら、世界のために使う。それでいいなら、俺は押す」
「……それでいいなら」ミオは繰り返し、初めてまっすぐ目を上げた。「私も、押す」
◇
翌朝、双鍵コンソールに二本の鍵が差し込まれた。
『承認を確かめてください』
カイの指が沈んだ。隣で、ミオの指が沈んだ。同時だった。
『承認二件。移行手順を解放します』
機械の声はそこで止まった。あとは、手の番だった。
根の両端に、二人は離れて立った。弁は互いに見えない。カイはスパナを握った。管のむこうから、声が来る。
「三」
「二」
「一」
「――回して」
鉄が鳴った。二本の弁が、十秒以内に揃って開いた。深いところで、鈍い音が連なる。管を流れるものが変わった。川が水量を増したように。
主機に火が入った瞬間、床が二人を押した。一点二倍の重さ。膝が折れかけ、船が低く呻き、それから振動が整った。二年つづいた軽さは、跡形もなく消えた。
「立てる?」
カイは手を伸ばした。ミオがそれをつかむ。腕は、以前より重かった。二人とも、同じ重力を背負っている。
幹をのぼる。足の裏が沈む。梢の穹窿にたどり着いたとき、二人は黙り込んだ。
星が、流れていた。
動かないはずの光点が、穹窿の端から、後ろへ、後ろへとすべっていく。川の流れのように。船が、走り出したのだ。
カイは穹窿の下の壁にある燃料計を見た。針が、動いていた。二年間、ひと目盛りも動かなかった針が、ゆっくりと、確かな速さで落ちていく。
「減ってる」ミオが言った。その声は、重さに押されて少し低かった。
「百四十五日目に着く」カイは言った。「窓の内側だ」
「帰り道は、ないのね」
「ない」
「……よかった」
ミオは穹窿を見上げた。星の流れの中で、少しだけ笑っていた。
「迷う余地が、なくなったから」
カイは答えなかった。針は落ちていく。落ちるぶんだけ、船は速くなる。星は流れる。銀の川が、勢いを増して、のぼっていく。
二人はもう、引き返せない場所まで来ていた。




