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第8章 銀の川

一点二Gの世界で、二人は眠った。


眠ることが仕事になった。目覚めているあいだは、重い体を引きずって、点検表の項目を埋めるだけだった。幹のパイプを拭いて、葉の養液を替えて、飯を食って、また眠る。夢は見なかった。重力が、夢を見る余裕まで奪っていくようだった。食事の味もしなかった。噛むだけで、顎が疲れた。


眠りが、積み重なった。目覚めている時間が、日ごと短くなっていく。点検表の日付の欄に、印をつけていく。印は、行をまたいで重なっていった。


主機は鳴りやまなかった。壁に手を当てれば、鉄の奥で川が轟いていた。船は呻き、軋み、それでも進んだ。幹をのぼるのは、山を登るのに近かった。三十段の梯子で、息が切れた。飯を温める音だけが、いつもと同じだった。


ミオの手は、日に日に熱くなった。すれ違うたび、袖越しに熱が伝わる。体温計の数字は、毎朝少しずつ上がっていく。彼女はスプーンを持てなくなった。掌が熱すぎて、銀の柄がぬるりと滑るのだ。カイが握ってやると、ミオは困ったように笑った。


「お湯が、沸いてるみたい」


「あと少しだ」


「うん」


カイの指先も、変だった。真鍮のスパナが、時々滑り落ちる。昨日までできたことが、今日できない。弁を回す朝の日課も、六角の角が指に噛んでいた感触を、思い出せなくなっていた。手の中の道具が、ただの鉄の塊に感じられる。


「今日は、何日目?」


「百三十九日目」


「窓まで、あと二日」


「あと二日」


ミオは繰り返した。それだけのことを、確かめるみたいに。


百四十日目の夜、ミオがカイの袖を引いた。


「ねえ。歌の、始まりの方が、消えちゃった」


「まだ百四十一日目じゃない」


「うん。でも、準備しなきゃ」


ミオの目は、熱で潤んでいた。その目は、カイを見ていた。


百四十一日目。


ゆりかごの恒温槽は、水が抜かれて空気が乾いていた。医療ポッドのライトが白く、ミオの輪郭を浮き彫りにしている。台の横に、銀の壺が置いてある。口の細い、小さな壺だ。


ミオは台に横たわり、両手を天井に向けて開いた。指先が、微かに震えている。


「緊張してる?」


「わからないの。熱いのか、怖いのか、区別がつかなくなってきた」


カイは自分の両手を見た。まだ感覚はある。スパナの冷たさも、壁のざらつきも、ここにある。


「接続するよ」


「うん」


端子に手を差し込む。細い針が、手首の神経に食い込む。チクリとする痛みのあと、熱が走った。


「痛い?」


「別に」


嘘だった。見えない火が、指の骨の中を駆け上がった。熱は腕をのぼり、肘を越え、肩に達した。銀の糸が、カイの手からミオの体へ、その奥の種へと伸びていく。


銀が、見えた。


川だった。熱い、光る、暴れる川。カイはその流れを、手先でそっと掬った。銀の壺へ導く。一粒もこぼしてはいけない。息を止めて、手首に力を込める。川が暴れる。暴れるぶんだけ、カイの手を焼いた。焼けつくような熱。指の皮が剥がれ、神経が一本ずつ、白い灰になっていくような。


ミオが呻いた。背中が弓なりに反る。


「カイ……私、白い部屋のこと、わからなくなった」


「いいんだ」


「壁の色も、声の音も。なかったことに、なる」


「いいんだ。今日までのことは、全部、俺が覚えてる」


川を、導く。熱さが、指先から順番に消えていく。氷水につけたみたいに、感覚が順に死んでいく。壺が、重くなる。銀が満ちていく。ミオの体が、少しずつ軽くなっていくみたいだった。


最後の一滴が、壺に落ちた。


カイは手を引いた。


自分の両手を見た。動く。指も折り曲がる。台の縁をつまんでみる。冷たさが、来なかった。爪を立てても、何も来ない。そこにあるのは、他人の道具の持ち手みたいだった。


ミオが、静かに涙を流した。


「……さようなら、白い部屋」


「ああ」


「歌の言葉も、消えちゃった」


「大丈夫だ。俺が覚えてる」


ミオは小さく息を吐いた。ゆりかごの灯りが、二人の影を床に伸ばしていた。


百四十五日目。


数日前から、梢に行くのが日課になっていた。穹窿の向こうで、青い光が日ごと膨らんでいく。雲の渦が、目で追えるようになる。船は減速しない。ただ、通り過ぎるだけだった。


その朝、梢の穹窿が、青く染まった。


星ではない。惑星だ。巨大な、青い球体。穹窿の半分を埋める。雲の渦が、ゆっくりと回っている。茶色い大陸の縁に、白い雲がへばりついている。


そして、海。


「海だ」


ミオの声が震えた。


海があった。穹窿の半分を埋めるほどの青さで、光を反射して、ぎらぎらと輝いている。波の頭が、白い線になって見えた。太平洋だ。


「約束」


「ああ」


「見えたね。降りられないけど」


「ああ。でも、見えた」


着かない。降りない。ただ、横を通り過ぎるだけだ。それでも、見えた。青い光が、穹窿のガラス越しに、二人の膝の上まで届いていた。


船の腹部のハッチが、音もなく開いた。銀の壺が、磁気ロックを離れる。


「行ってらっしゃい」


ミオの手が、カイの手に重なった。熱かった。カイはその熱を、感じられなかった。それでも、握り返した。


壺は、青い球に向かって落ちていく。銀の点が、大気の縁で摩擦熱に呑まれ、光に変わった。光は長く尾を引いて、それから雲に呑まれた。


船は、地球の横をすり抜ける。青い光が、二人の顔を照らした。影がなかった。足元がないから、影も落ちない。海の縁が、穹窿の端へ向かって、ゆっくりと滑りはじめた。


十二日後。


地球は、一つの星になっていた。青い、小さな光点。窓に映る星よりも小さい。あの明滅するほたるよりも、ずっと明るかった。


通信アレイは、受信だけはできた。


『……鐘が鳴っています。街の広場で、鐘が鳴っています。人が、集まってきています……』


ノイズ混じりの声。咳き込む音が、どこにもなかった。


『生存者名簿を読み上げます。ホシザキ、ミツル。アオヤマ、シズカ。クボ、ハル。タチバナ、イオリ。カガヤ、リン。モリサワ、トモエ……』


名前が、続いた。数えきれないほど、続いた。


「止まったんだ」ミオが言った。「咳が」


「ああ」


「治ったのね」


「ああ」


カイは穹窿を見上げた。青い星。遠くなる星。


口を開いた。


『ぎんの、かわを、のぼって……』


暗い廊下で聴いた歌。白い部屋で消えた歌。音程は怪しかった。二番の歌詞は、たぶん、間違っていた。それでも歌った。


ミオが、横顔を上げた。


彼女の唇が、少し動いた。けれど、言葉は出てこなかった。声にならない。ただ、喉の奥で、小さく、優しいハミングが始まった。歌詞のない、メロディだけの音。彼女は、それが何であるかも、もう知らない。ただ、音に合わせて、声を重ねるだけだった。


二つの音が、重なった。カイの言葉と、ミオのことばのない声。


船の振動に乗って、幹をのぼっていく。


燃料計の針は、底に張りついて、もう動かない。


星は、流れる。


二つの音が、銀の川を、のぼっていく。


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