第6章 第七号
朝、カイは父の古い端末を抱えて、ゆりかごの隅に座った。
白い壁が、朝の点検の光を鈍く反射している。部屋の匂いは、消毒液と、温めた水と、そして微かに銀に似た金属の匂いがした。ここはミオが眠り続けた部屋だ。彼女が目覚めてから、この部屋の空気は少し重くなったように感じる。まるで、眠っていた森の木々が、一斉に呼吸を始めたかのような静けさが漂っている。
端末は、嵐で焼かれた記録庫の、生き残ったもう一つの器。父ソタが機関長室で使っていた携帯端末だ。二年間、引き出しの奥で眠らせていた。バッテリーは、再生系の回路を通じてまだ微かに生きていた。
カイは父の認証キーを打ち込んだ。指が、勝手に手順を覚えている。何度も見た背中の動きと同じ順番で。親指が空白キーを叩く位置まで、そっくりだった。
画面が開いた。重い扉が、音もなく内側へ倒れるような感触があった。
『母体管理要綱 第七号』
ミオが隣に立った。息をひそめる音が聞こえる。彼女は自分の出生の記録を、初めて目にしようとしている。
「読むよ」カイは言った。「中途半端は、もうできない」
一行目から、覚悟していた以上に冷たい文字が並んでいた。
『基本原則:銀の種は、母体とともに眠り続ける。母体は種が熟すより先に、目的の港へ到着しなければならない』
『到着の朝、初めて目覚める。それが、この計画の絶対条件である』
カイは読むのを止めた。この一文を、二人で確かめた日は、まだ遠くない。あの日、規則は守られているように見えた。世界は、きちんと箱に収まっていた。
「続きは?」
「……ある」
その下は、計画の文章ではなかった。嵐のあと、誰かが書き加えた異常記録だった。
『観測事象:放射線曝露による種の早期覚醒』
『特定:播種予定日の前倒し。成長速度の異常上昇』
『注意:種の成熟が近づくにつれ、母体の神経系との融合が深まる。成熟の瞬間、母体の生命維持機能は種に吸収され、崩壊する』
『結論:母体の死亡時に、種の活性も同時に失われる。銀の糸は神経と融合しているため、母体から種を引き離すことは不可能である』
部屋が静かになった。恒温槽の低い稼働音だけが、白い壁の向こうで規則正しく響いている。
「熟したら、私の体の中の糸が……軋むのね」ミオが言った。声が、紙のように薄かった。「そして、私が止まると、種も止まる」
「そういうことだ」
「採る方法は?」
『採取可能な窓:成長百四十日目から百五十日目までの十日間』
「十日だけ……って書いてある」
それ以上、読むところはなかった。計画書の次の頁は白紙だった。早く熟れる種をどう運ぶかという頁は、最初から用意されていなかった。嵐がその前提を引き裂いてから、誰もこの要綱を開いていなかったのだ。
ミオは端末に手を伸ばし、自身の教育ログのファイルを開いた。
「私の勉強の記録、ある?」
カイは止めた。「……ある」
『観測員見習い教育課程』と書かれた表紙の下は、まったく別のものだった。
『第七号 飼育管理日誌』
温度調整。湿度調整。光を当てる時間。栄養摂取の間隔。睡眠サイクルの強制誘導。ことばのレッスンは『応答訓練』という欄に記録されていた。
「飼育……」ミオは繰り返した。「私、菜園の芋と、同じ欄にいるのね」
「ちがう」
「どこが?」
カイは答えられなかった。芋は答えない。彼女は答える。その違いしか、今は言えなかった。
ミオの指が、日誌の端にある書き込みを指した。世話係の一人が、手書きで残した走り書きだ。
『第七号、機嫌がいい。ミオと呼ぶと反応する。呼びやすい』
『ミオ、今日から一語文。えらい』
ミオは、しばらく画面を見ていた。
「私の名前……」
「……ああ」
「世話係の人が、呼びやすいから、つけた呼び名なのね」
「それは、名前だ」
「いいえ」ミオは首を振った。「道具に、便利なラベルを貼っただけだわ」
彼女の掌が、端末の縁を白くなるほど握った。熱を持っている手だった。種が熟そうとしている手だった。
「最初の日」ミオが言った。「梢で、私の手首を調べたでしょう」
カイの喉が、急に乾いた。
「あなたは読み取り機を見た。それから、すぐ顔をそらした。あの時、何が書いてあったの?」
嘘をつく余地は、もうなかった。規則の数字も、要綱の文字も、もう嘘で覆うには薄すぎた。
「……『貨物・第七号・培養母体』」カイは言った。「そう出た」
「そう。じゃあ、ずっと知ってたのね」
「言えなかった」
「どうして?」
「言ったら、おまえが……」言葉が詰まった。「おまえが、ここにいなくなる気がした」
「私はずっと、貨物だったのに」ミオの声が、震えた。「あなたは私を、乗員のふりして遊ばせてたの? 菜園で、海の話して、歌を歌わせて。ペットを可愛がるみたいに?」
カイは手を伸ばしかけて、止めた。彼女の肩に触れる資格が、今の自分にはない気がした。
「ちがう」
「私は、第七号。栽培された銀の種……銀を運ぶ、生きた容器」
「ミオ」
「その名前も、飼い主がつけたもの」
彼女は端末を置き、踵を返した。白い廊下を歩いて、ゆりかごの扉が閉まる音が、カイの耳の奥で長く残った。
カイはひとり、端末の前に残った。
画面には、まだ要綱の数字が開いていた。窓は、百四十日目から百五十日目まで。種は、あと百九日で熟れる。船が着くのは、あと百四十九日。
順番が、すべて逆だった。
壁の点検表を見る。カイは数字を書き換えた。
到達まで、百四十九日。
種の成熟まで、百九日。
地球のラインまで、百六十九日。
三つの数字が、壁に並んでいた。どの道を選んでも、この数字は減り続けるだけだった。早く着くための燃料はなく、種を救うための頁は白紙で、彼女の名前は他人の走り書きだった。
根の方角から、いつもの低い振動が聞こえていた。それだけが、昨日と変わらなかった。
カイは壁にもたれ、頭を垂れた。
出口は、どこにも見あたらなかった。




