第5章 こだま
床が、ゆっくりと傾いた。
眠っているあいだも、カイの体は傾きを知っていた。目を開けば、天井のパイプがわずかに斜めへ走っている。布団の外に出ると、床の冷たさが足の裏から静かに昇ってきた。
到達まで、あと百五十九日の夜だった。
監視盤の前に座ると、姿勢制御の記録が並んでいた。短い噴射が、夜のあいだに四回。十日前までは、一晩に一回あるかどうかだった。噴射のたびに、船の骨組みが低く呻き、壁の向こうで管の水が揺れる音がした。
カイは父の机から方眼紙を引き出し、時刻と方向と秒数を書き込んでいった。ペン先が紙をたたく音だけが、幹の静けさに響いた。埃の匂いがした。二年間、誰もいなかった廊下の匂いだ。噴射のほとんどが、同じ方角を向いていた。船は夜ごと、船首をほたるの方角へ戻そうとしている。星図に名のない星に向かって、針路を直しつづけているのだ。
「また、揺れました」
ドアの外に声がした。ミオが毛布を肩からかけて立っていた。額に汗が光っている。
「目が覚めるんです、揺れで」
「……そうか」
「梢にいるときのほうが、よく揺れる気がするの。気のせいかしら」
カイは方眼紙を見た。それから壁の点検表を見た。彼女の字で、葉とゆりかごの欄に時刻が書き込まれている。
「明日から、いつどこの区画にいたか、時刻も書いてくれ」
「観測員の仕事?」
「保全の仕事だ」
到達まで百五十五日の朝、方眼紙は五枚になっていた。
噴射の記録と、ミオの移動の記録を並べる。机の上に広げると、白い紙の上に黒い線が二本走った。重ねた瞬間、線が揃った。
噴射の向きが変わる時刻は、いつも、彼女が区画を移ったあと数分のうちに来ていた。彼女が葉にいれば噴射は一方を向き、梢へ上がれば逆を向いた。四日分で、一度も外れていなかった。
「幹の端から、梢まで歩いてほしい」
「……歩くだけ?」
「ゆっくりでいい」
カイは航行監視盤の前に座った。緑色の光が顔を照らす。防音の扉の向こうで、廊下を歩く足音が遠ざかっていく。それにあわせて、ほたるが明るくなった。一歩ごとに明滅が速くなり、船首が小さく振れ、噴射が瞬いた。彼女が梢の穹窿の下で立ち止まると、明滅はゆっくりになり、噴射も止んだ。
戻ってくるときは、何もかもが逆向きに繰り返された。
途中の細い廊下で、ほたるが一瞬、二つに割れた。壁に当たって戻る光のこだまが、もう一つの星に見えたのだ。あの夜、カイが指で叩いて「センサーの幽霊」と呟いて無視した明滅と、同じものだった。
枯れ枝の生存反応のログを呼び出す。五晩分の点滅を、ほたるの明滅の記録に並べた。一秒も狂わず重なった。
「誰もいなかった」カイは言った。「最初から、誰もいなかった」
ミオは、長く息を吐いた。
「……じゃあ、あのカップは?」
彼女は膝の上で両手を組んだ。
「目が覚めたら、違う部屋にいることがあるの。夜。ここ数日で三回。……自分が歩いた記憶がないの」
「枯れ枝に行った記憶は?」
「ない。でも、あのカップ……ゆりかごの棚にある形だと思う」
カイは貨物の管理目録を開いた。銀の種の項。起床前の微弱な電磁放射の波長が、記録されていた。
ほたると、同じ波長だった。
『種は母体とともに眠り、到着の朝に目覚める』。章典の一文が、頭の中で点いた。目覚めるはずのない場所で、種は目覚めている。
「発信源は、種だ」カイは言った。「おまえの、体の中にある」
ミオは自分の掌を開いて、しばらく見ていた。あの夜より、熱を持っていた。
「私の中に……種が、いるの」
「ああ」
「ずっと?」
「……ゆりかごの記録を見るまで、分からない」
その夜は、ゆりかごを開けなかった。代わりに、カイは通信盤の前に座った。手を動かしているほうが、まだ楽だった。
嵐のあと、地球からの放送は記録されつづけている。最新の強い送信を解読に回した。ミオが隣に座り、符号の照合を手伝った。ノイズの下の並びを拾うのが、意外に早かった。
スピーカーから漏れるノイズは、遠い雨の音に似ていた。
長い符号の列が、ことばに戻ってきた。
生存者の名簿が読み上げられていた。前回の記録より、名前が少なかった。
最後に、こうあった。
『変異株を確認。灰色病の変異株を確認。生存圏の余命を、再計算する……』
光の遅れの分だけ、日付をずらして引き直した。船の暦に直しても、出てくる数字は同じだった。
二百十日目。
「地球の数字だ」ミオが言った。「船の数字みたいに、動いてる」
「ああ」
「間に合うの、私たち?」
「計画通りなら」
計画通り、という言葉だけが、口の中で重かった。
到達まで百五十日の朝、二人はゆりかごにいた。
白い壁が、いつもより明るく見えた。医療ポッドの記録庫から、恒温槽の時代からの走査記録を引き出す。銀の密度の曲線は、長いあいだ床に張りついて平らだった。塵嵐の日のあとから線は頭を持ちはじめ、この数か月で急に上を向いていた。
目録の基準曲線と重ねる。彼女の曲線は、ずっと先を走っていた。ポッドの計算が、終わりの着点を出した。
「熟すのは……百十日ほど先だ」
到達より、四十日も早かった。
ほたるの増光の曲線を、その横に重ねる。二本の線は、一本に見えるほど重なった。あの星は、彼女の体の中で光っていた。
点検表の板に、カイは三つの数字を書いた。
到達まで、百五十日。
種の成熟まで、約百十日。
地球のラインまで、百七十日。
「種の時計のほうが、速いのね」ミオが言った。
「ああ」
「このままだと……着く前に、熟れるの?」
答えは、どの記録にも書いていなかった。計画に、早く熟れる種の頁はなかった。
「早く着く方法は、ある」
そこで、カイは止まった。この先にあったはずの言葉が、喉の奥で銀のように冷えた。進むための火を増やせば、止まるための火が減る。燃やし切った船の行き先の頁を、規則は持っていなかった。
ミオは何も言わず、三つの数字を自分の点検表に写しはじめた。明日の仕事を書き込むときと、同じ字で。
根の方角から、いつもの低い振動が聞こえていた。船は、まだ銀の川をのぼっていた。




