第4章 葉の塩
口をきかないまま、三日がすぎた。
四日目の朝、カイは葉の点検パネルの前で立ち止まった。循環ポンプの音がしない。養液の管が、詰まっていた。
菜葉が数枚、うなだれている。水の止まった菜園は、川を失った木みたいになる。ここから先の長い日数を支える芋と菜葉が、あと数日で枯れる。
食べるものが枯れるのは、疑いより先に片づけなければならないことだった。
濾過器は養液タンクの裏にあり、一人では無理な位置にある。奥でナットを緩める者と、手前でポンプを預かる者が、要る。
カイは幹まで戻り、彼女の部屋の扉を叩いた。
「手が足りない。葉だ」
それだけ言って歩きだした。背後で扉が開き、足音がついてきた。
点検口の中は、膝まで水だった。カイがナットにスパナをかけ、水音越しに言う。
「ポンプ、止めて」
「止めた」
「開ける。跳ねるから、顔をそむけて」
温い養液が一気に跳ねて、緑の匂いが立ちのぼった。詰めていたのは根の屑と繊維の塊だった。彼女が板の隙間から腕をねじ込んで、それを引きずり出す。水の中で、二人の指が一度だけ触れた。
「戻った」
ポンプが低く唸り、水が管を流れはじめた。菜園に川が戻る。菜葉が、ゆっくり顔を上げた。
彼女は濡れた手を振って水を切り、背を伸ばし、敬礼した。
「観測員見習いのミオです。本日の作業、完了しました」
カイは読み取り機のあの文字列を思い出しかけて、思い出さなかったことにした。
「……敬礼は、作業の前にやるもんだ」
「次からはそうします」
昼は菜園で食べることにした。電気鍋で芋を茹で、菜葉のスープを温める。カイは、二年ぶりに塩の小瓶を開けた。ひとりでいたあいだ、栓を開ける理由がなかった。
「なに、それ」
「塩だ」
「しお……」
彼女は指先ですくって、そのまま舐めた。次の瞬間、顔が真ん中から縮んだ。
「からっ――!」
くしゃみをひとつして、目を白黒させている。カイは吹き出した。
笑っていた。笑っている自分に、自分で驚いた。この船で声を出して笑うのは、いつ以来だろう。
「笑うことないじゃない」
「舐めるもんじゃない。芋につけるもんだ」
芋の半分に塩をふって渡す。彼女は警戒しながらかじり、目を丸くした。
「芋が……芋の味がする。さっきまでの芋は、なんだったの」
「芋だ。ただの」
「嘘。塩のあるほうが、芋です」
彼女はスープを両手で包み、うれしそうに、鼻歌をうたいはじめた。
カイの箸が止まった。
夜の廊下で聞いた、あの歌だ。
「……その歌、どこで?」
歌が止まる。彼女は小首をかしげた。
「この歌、どこで覚えたんだろう。思い出せないの」
「ゆりかごで、聴いたんじゃないか」
「ゆりかごで? ……分からないの。分からないのに、歌えるの」
ゆりかごの音源は、嵐で焼かれていた。訊いても、答えは出ない。
「……そうか」
カイは芋をかじった。それ以上は、訊かなかった。
彼女がスープを飲みほして言った。
「うちの船で、いちばんいいとこ、ここかもしれない」
訂正しようとした。(うちの船じゃない、俺の――)
言葉は、スープの湯気に溶けた。カイはただ、芋をもう一口かじった。
「私、まだ半分はカイを疑ってるの」
「知ってる」
「でも、今日の芋はおいしいから、休戦にする」
「……休戦だな」
「休戦中の観測員見習いは、日課も覚えます」
点検の表を二つに分けた。葉とゆりかごは彼女。根と幹と梢はカイ。表は食堂の壁に磁石で貼った。
翌朝から、根の点検には競争がついた。
根の両端に、バイパス弁が一つずつある。カイは真鍮のスパナで弁を四分の一まわし、油を差し、戻す。それを彼女にもやらせた。
「この弁、開けたらなにか起きるの?」
「知らない。開けたやつはいない。片方だけじゃ一生開かないんだ。二か所を十秒以内に揃えて回さないと、ロックが解けない仕掛けだ」
「なんでそんなふうに作ったんだろう」
「勝手に回されたら困る、ってことだろ。……親父の掃除癖だ。体で覚えろ、って」
「覚える。だったら、競争ね。両端から同時に回して、十秒以内に揃えて、中央で手を合わせるの」
一回目。合図とともに、二人で同時に回す。カイは数えた。彼女の弁が重く、手が滑る。十一で、まだ中央に届かない。
「もう一度」
二回目。彼女は弁に体ごとぶら下がって回した。九で、掌がパンと合わさる。彼女の手は、まだ、なんの変哲もない温度だった。
「九秒!」
「まあ……悪くない」
「今、笑ったよね」
「別に」
それからの日々は、ゆるやかな川みたいに流れた。朝は根で競争をし、昼は葉で水を見て、夜は食堂で芋を剥いた。九秒の記録は、十日ほど破られなかった。到達までの日数は減っていくのに、不思議と、日々は軽かった。
その夜、梢に上がった。
穹窿いっぱいに星が流れていた。銀の川のように、ゆっくり、のぼっていく。
到達まで、あと百六十二日。燃料は、その日数分しかない。
「地球は、まだ見えないの?」
「減速が始まれば近づいて見える。今は、ただの暗い方角だ」
彼女は膝を抱えた。
「海って、見たことある?」
「ない。船で生まれたから。水は、管の中でしか知らない」
彼女はしばらく黙り、それから言った。
「じゃあ、初めて同士だね」
「……なんだよ、それ」
「約束しよう。着いたら、二人で海を見るの」
「計画に、そんな項目はない」
「なかったら、付け加えればいいの。着いたら、海を見る。ほら、言えた」
穹窿の外で、星が銀の川をのぼっていく。カイは、視線を外さなかった。
「……着いたら、な」
「うん。着いたら」
梯子の前で、彼女は振り返り、掌を差し出した。九秒の礼儀だ。
カイは自分の掌を合わせた。
熱かった。
根の管が、長いあいだ流れつづけたあとのように、熱かった。
「おやすみなさい、カイ」
彼女は梯子を降りていく。幹の灯りが足元で待っていた。熱の出た人間の顔は、たいていもっと灰色をしている。それなのに彼女は、星の下で、普通に笑っていた。
カイは掌を開いて、じっと見た。
熱は、うつらない。うつるはずがない。
それでも、掌だけが、しばらく熱かった。




