第3章 枯れ枝
生存反応のログは、その後も消えなかった。
夜中の二時になると「反応あり」の文字が明滅して、数十秒で消える。それを五晩、カイは監視盤の前で見つづけた。明滅の瞬間を狙って監視カメラを呼び出しても、画面には灰色のノイズが走るだけだった。嵐の夜と同じ、信号の死んだ砂の色。
「誤作動なら、毎晩同じ時刻に出るはずがない」
五度目の明滅が消えた朝、カイは閉鎖警報の解除コードを打ち込んだ。航行盤の隅で、地球までの残り日数は百八十三に変わっていた。燃料は、その日数の分しかない。
スピーカーが短い電子音を立てた。『閉鎖解除。区画内の空気質を確認してください』。録音の声だった。
「本当に、開けるの?」
少女が、不安そうに首を引っ込めた。
「誤作動なら、中は埃っぽいだけだ。それを証明しないと、俺が眠れない」
「私が、一緒に行っていいの?」
「離れて歩かれると、かえって怖いんだ」
扉の向こうから、二年分の空気が押し出してきた。乾いた埃と、古い布と、薬のような匂い。カイはライトを構えて、細い廊下を進んだ。エンジンの振動が、ここではもう伝わっていない。生きた船の音が、枝の先で途切れている。壁のパイプは冷たく、指で触れると氷のようだった。足元の金属板が鈍く鳴るたび、背筋に冷たいものが走った。
部屋の扉には、まだ名前のプレートが残っていた。埃の下で、文字の輪郭だけが浮いている。カイはそれを拭うこともせず、通り過ぎた。
乗員共用の小さな部屋。テーブルがあって、椅子が四つ。まるで誰かが席を立ったまま、いつ戻ってもいいように待っているような。
そのテーブルの上に、マグカップが一つ、置いてあった。
カイは手を伸ばして、内壁に触れた。
「……温かい」
少女が息を呑む音がした。
「嘘。だって、ここ二年間、誰も……」
「誰もいない。閉めてたんだ」
「じゃあ、どうして」
ライトの光を移すと、壁際の私物棚が一つ、開いていた。中の作業服が乱雑に押し込まれている。袖が扉の縁からはみ出していた。床には簡易寝台が敷かれ、毛布が、人の体の形にくぼんでいた。その皺の寄せ方は、つい最近まで誰かが丸まっていたみたいに柔らかかった。
カイの指先が震えた。
「おい、おまえ……ここに来たことないよな」
「ない。覚醒してから、ずっとカイと一緒だったもの」
「本当に?」
カイは振り返った。ライトの光が少女の顔をまともに照らす。彼女は目を細めて、少し引きつった笑いを浮かべた。
「本当だよ。信じてないの?」
(誰がいるんだ。ここに)
閉め切った区画の中で、カップが温かい。毛布には体温の跡がある。まるで、ここに「誰か」が今も暮らしていて、二人が入ってきたばかりのようだ。カイは無意識に、背後の暗闇へライトを振った。埃をかぶった配電盤と、閉じたままの三つの扉があるだけだった。
帰りの廊下で、カイはもう一度カップを手に取った。内壁の温かさは、消えていなかった。
枯れ枝を出ると、カイはまっすぐ「ゆりかご」に向かった。医療区画のメイン端末なら、船内のすべての人感センサーの履歴を照会できるはずだ。
「なに、調べるの?」
「生存反応のソース。どのクルーのシグネチャーと一致するか」
少女はそれ以上たずねず、カイの背中の少し後ろを歩いた。七日かけて縮めた距離が、いつのまにか、また開いていた。
静かすぎる。普段なら気にならない恒温槽のポンプ音が、今日はやけに耳につく。
カイはまず、枯れ枝の出入りログを呼び出した。記録は空白だった。嵐の後、手動で閉じたきり、誰のIDも通っていない。だが、カップは温かかった。矛盾が、頭の中でガラスの割れる音を立てていた。
彼はキーを叩いた。乗員名簿のリストが流れる。灰谷ソタ。灰谷ミチル。どちらも「死亡」の赤文字。その下に、自分の名前が並んでいる。
確認のために、自分のファイルを開いた。
『氏名:灰谷カイ 状態:生存 適合因子:陽性 備考:第二母体候補(未登録)』
第二母体候補。
意味が呑み込めなかった。母体? 自分が? 何の?
だが、この単語には、見てはいけないものを見てしまったという感覚があった。鍵のかかった引き出しを無理やり開けてしまったときのような、冷たい警告。
背後で気配がした。少女が覗き込もうとしていた。
カイは反射的に画面を切り替えた。乗員リストの画面に戻る。
「今の、なに?」
「親父の健康診断の記録。昔のデータを見てただけだ」
嘘だった。喉の奥が渇いた。
「次はこれ」
カイは手早く、少女のポッドの起動ログを呼び出した。日付が並ぶ。最後の記録は、彼女が穹窿で見つかった日だ。
その前の行に、覚醒の記録があった。
少女がポッドから出たのは、カイが彼女を見つけるより、十一日も前だった。
カイは椅子を回して、少女を見上げた。
「おまえ、会う前から起きてたんだな」
少女の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「私は……覚醒したら、すぐ……」
「十一日だ。その間、どこにいた? 枯れ枝か?」
「ちが……覚えてないの。白い部屋と、声しか……」
「温かいカップがあった。毛布に跡がついてた。ここに誰かがいたんだ。おまえしかいない」
少女は下唇を噛んだ。瞳が揺れて、カイの顔をまっすぐ見た。
「……カイこそ、私のファイルを見たでしょう」
カイの手が止まった。
「私のファイルに、なにか書いてあったんでしょ。なのに、なにも言わなかった」
「なんで、それを……」
「だって、カイの目がそう言ってたもの。私を見る目が、最初っから『見知らぬもの』を見る目だった」
航行画面の端で、ほたるがまた光っていた。昨日まではただの点だと思っていたが、今日は輪郭がにじんで、まわりより明るい。星図を重ねても、その座標に名前のある星はなかった。
星は動かない。動けるはずがない。だが、ほたるの光点は、背景の星々に対して、わずかに、ゆっくりと、ずれていた。
まるで、船を追いかけてくるように。
カイは画面と少女を、交互に見た。
船の壁が、急に遠くなった気がした。自分の家だと思っていた空間が、今は誰かの大きな手のひらの上に乗っているみたいだった。
信じられるものが、一つもなくなった。




