第2章 閉ざされた幹
朝は、点灯音で始まった。
カイは目を開けたまま、天井のパイプを見上げた。幹の中央を太い管が走り、その脇を細い血管のような管が取り囲んでいる。二年前まで父ソタが寝ていた下の段から、空気循環ファンの低い吐息が聞こえる。目覚まし時計も、ラジオも、人の気配もない。この船の起動音だけが、彼に「朝」を教えていた。
布団を畳み、腰のポーチから真鍮のスパナを抜いた。冷たい金属の感触が、すっと掌に馴染む。朝の点検は、この船で唯一、カイが自分のものだと感じられる時間だった。
「根」へ降りる階段は急で、手すりが冷たい。機関区の空気はいつもより少しぬるく、低い振動が足の裏から歯の根まで響く。カイは配管の隅にある手動バイパス弁の前にしゃがんだ。鉄の蓋を開け、スパナを噛ませる。半回転、戻す。金具のきしむ音が、狭い区画に響いた。
「固まってないな」
誰に言うでもなく呟いて、蓋を閉じる。指先で金属の温度を確かめる。正常だ。二年間、毎日欠かさずやってきた手順だ。
背後に気配がした。
振り返ると、昨夜の少女が立っていた。髪を後ろで束ね、白い服の袖口を握るようにして、こちらを見ている。人影が一つ増えただけで、機関区の空気が重くなった気がした。
「なにをしているの?」
「点検だ」
カイはスパナをポーチに戻した。
「毎朝、この弁を回す。動かないと、燃料が管を渋るから」
「毎朝?」
「親父の掃除癖だ。体で覚えろ、って。うっとおしいだろ」
少女は弁の取っ手を、まるで壊れ物みたいに見つめている。
「それが、船を動かすの?」
「動かなくなるのを防ぐだけだ。この弁が一つで、船の喉が詰まる。そういう造りだよ」
カイは立ち上がり、顎で廊下をしゃくった。
「付いて来い。船の中を覚えないと、迷子になる」
幹は居住区だ。細長い廊下が、木の幹のように垂直と水平に走っている。壁沿いのパイプが、ときどき低くうなる。換気ダクトからは、埃と古い空気の匂いが漂ってくる。カイは通り過ぎる部屋のドアを指差した。父ソタと母ミチルの部屋だ。扉は閉ざされたまま、二年間一度も開けていない。中の空気は、あの嵐の夜の時刻で止まっているはずだった。
少女はその扉をじっと見たが、カイは足を止めずに通り過ぎた。廊下の奥から、何もない部屋のドアが風で軋む音が微かに聞こえた。
梢は、船の先端にある透明な穹窿。昨夜二人で星を見た場所だ。昼になると、遥か彼方の恒星の光が穹窿を満たし、船内で唯一、影が濃くなる場所でもある。
「あそこで星を見る。観測用だ」
「きれいな場所……」
少女は穹窿の上に目をやり、細く息を吐いた。
ゆりかごは、医療ポッドの並ぶ区画。白い槽が冷たい光を放っている。消毒液の匂いが、まだ微かに残っている。
「おまえが寝てた場所だろ」
少女は一瞬足を止めた。白い槽を見る目は、どこか遠くを見るようだった。
「……そう、なの。懐かしい匂いがする」
根は、さっきの弁があった機関区。
「ここが根。エンジンの心臓だ」
そして、廊下の突き当たりにある重い扉を指差す。
「あれが枯れ枝。嵐で閉鎖された。中には入れない」
扉は無機質に閉ざされ、その隙間からは微かな風の音だけが漏れていた。
最後に、水耕菜園の「葉」を見せた。
「ここで芋と菜葉を作ってる。食料だ」
「きれい……」
少女は菜葉に指を伸ばしかけて、やめた。湿った空気の中で、緑の葉が揺れていた。
「触るな。培養液が手に付く」
船橋に移動する。カイは主計算機の前に座り、燃料タンクの残量表示を出した。数字が並ぶ。緑色の光で示された棒グラフは、右端でぴったりと止まっていた。無駄な余剰は一滴もない。
「燃料は、計画航路分しかない」
少女が画面を覗き込む。
「それって、地球に着くぶんだけ、あるの?」
「そうだ。到達まで百八十八日。燃料はそのぶん、きっちり詰め込んである。予備も含めてな」
「もし、もっと速く行きたかったら?」
「無理だ」
カイは画面を切った。暗くなった画面に、二人の顔が映る。
「この船は、急ぐこともできないし、寄り道もできない。燃料が足りないからだ。この数字が、俺たちの世界の大きさだよ」
「世界って……」
「閉じた殻みたいなもんだ。外には出られないし、誰も中に入ってこない」
カイは端末を起動し、任務章典のファイルを開いた。古い文書だ。読み上げ音声を再生させる。
『……銀の種は、母体とともに眠り、到着の朝に目覚める。これが本計画の根幹である……』
少女は、その言葉を黙って聞いていた。
「眠ってるの、その種は」
「そう書いてあるだろ。計画はそうなってる」
カイは章典を閉じ、別のフォルダを開いた。
「地球からの放送だ。ひと月足らず前の音が、今届いてる」
スピーカーから、ノイズが流れた。
咳払いの音。激しく、苦しそうな咳。
『……灰の雨が降って、もう薬も……南半球の都市からの応答は、ここ三週間ない……死者は……』
カイは再生を止めた。
「毎日同じだ。助けを求めても、ここには何も送れない。通信アレイも壊れてる。最寄りの星はアオバだけど、あっちも助けなんて出せない。他の船は、どこにもいない」
少女は、膝の上で手を握りしめた。
「地球は、助からないの?」
「種が目覚めれば、変わるかもしれない。計画ではな」
カイは監視カメラのログをチェックしていた。
ふと、手が止まる。
「おい」
「なに?」
「枯れ枝に、生存反応が出てる」
少女が覗き込む。
「閉鎖されてる区画でしょ? 誰もいないの?」
「二年前に閉めた。誰も入ってない」
だが、ログには「反応あり」の文字が点滅している。
「センサーの誤作動か……」
カイは眉を寄せた。
「もし、誰かが生きてたら……」
「いるわけない。閉めてるんだから。気味の悪いことを言うな」
カイはログを閉じた。
夕食の準備をしながら、少女は突然口を開いた。
「ねえ、カイ」
「なんだ」
「もし種が、眠ってなかったら……?」
包丁を握る手が止まった。
「計画は眠ってる」
カイは振り返らずに言った。
「数字も、そうなってる。到着の朝に目覚める。それだけだ」
少女は、もう何も言わなかった。
鍋のふたが、カタカタと震えていた。




