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第1章 ほたる

朝は、いつも根の振動で始まった。


低く、絶えない音。機関油と古い鉄の匂い。この音があるかぎり、トチノキ号は星の川をのぼっている。川をのぼりきった先に地球が待っていて、船はまだ、進んでいる。


カイは寝台を抜け出し、幹の廊下を降りた。天井には、パイプが木の幹の筋のように走っている。カイはその下を、もう二年歩いている。足音が、鉄の床で冷たく跳ねた。


根で、日課をこなす。燃料管のゲージを読み、バイパス弁の締まりを確かめる。真鍮のスパナは、父が使っていたものだ。握ると、手のひらに金属の重みが染みる。指一本ぶんの漏れも許さない。父のやり方だ。父がいなくなってから二年、同じ手順でやってきた。点検簿の最初のページには父の太い字が並んでいて、その続きはカイの字で埋まっている。


管の結露を布で拭く。拭いたあとに水の跡を残さない。誰も見ていないのに、丁寧に。これも父の癖だった。体に残って、離れない。


壁の航行盤に目をやる。ガラスの面は、指紋で曇っていた。


地球到達まで、あと百九十日。


その下に、小さな信号がひとつ、点滅していた。星の並びの中でだけ、明るくなったり暗くなったりする弱い信号。航行盤はそれを未知の天体として、記録し続けている。カイはその信号を、ほたると呼んでいた。名をつけた理由は、点滅のしかたしかない。


「……センサーの幽霊が、また出てる」


指で画面を叩く。信号は明滅をやめず、カイもそれ以上は構わなかった。嵐で受けた傷は、まだ直っていない。壁の隅には、溶けたような焦げ跡が残っている。幽霊の相手をする暇はない。点検簿に日付を書いて、根を上がった。背中に汗が張りつく。根は、いつも暑い。


その夜、眠れずに廊下に出たのは、いつものことだった。


懐中電灯の灯りが、幹のパイプの列を順に照らしていく。夜の点検回りも日課の一部だ。廊下に聞こえるのは振動と、自分の足音だけ。二年間、この船でそれ以外の音を聞いたことはなかった。静寂が、耳の奥で鳴るほどに厚い。


だから、声がしたとき、カイは足を止めた。心臓が、一拍だけ、跳ねた。


歌だった。


女の声が、ゆっくりと、柔らかく歌っていた。子守唄だった。どこか遠くの廊下から、冷たい空気を伝って流れてくる。皮膚が、粟立った。


『……ぎんの、かわ……』


ひと言だけが、はっきり耳に落ちた。あとは、何を歌っているのかわからない。カイは喉の奥が乾くのを感じた。放送は止まっている。インターホンは死んでいる。歌える者など、いないはずだった。


歌は止んだ。カイが一歩進めば、こんどは少し先で、また歌われた。


まるで、足音を聞き分けているみたいだった。


カイは灯りを握り直し、歌を追った。幹の廊下を、船の前へ。梯子をのぼり、のぼりきった先に、透明な穹窿があった。梢だ。星を透かして見るための、船いちばん前の部屋だ。


穹窿の下は、星で満ちていた。ガラスごしの星は、氷の粒のように冷たかった。


白い服の少女が、星を見上げて立っていた。服の裾が、星の光を吸って、青白く浮かんでいる。


歌が、途切れた。


「……誰だ」


カイは灯りを上げた。光が少女の横顔をとらえる。少女は目を細め、半歩、後ろへ下がった。穹窿の面に、白い手が触れた。


「まぶしいの……」

「ここは俺の船だ。何者だ」

「あなたこそ……どなたですか」


少女の声は静かだった。静かなのに、膝のあたりが細かく震えていた。カイは言葉を継がなかった。灯りのグリップが、手のひらで汗ばんでいる。灯りの先で、少女が先に口を開いた。


「私は、観測員見習いです。ミオです」


観測員見習い。クルーの名簿に、そんな役職も、そんな名前もなかった。はずだった。


「IDを出せ」

「……ID?」

「チップだ。手首の」


少女は自分の手首を押さえて、また下がった。


「どうして、それを……」


カイは腕を掴んだ。手首は細く、体温が高いような気がした。腰の読み取り機を押し当てると、腕の中で脈が速く打っているのがわかった。機械が短く鳴った。


『貨物・第七号・培養母体』


小さな画面に、そう出た。文字の光が、二人の顎を下から照らした。


カイは画面を見た。少女の顔を見て、また画面を見た。


「……何か、出たの」

「……別に」


カイは読み取り機を下ろして、画面を消した。少女は解放された手首をさすった。


「……痛いの」

「ああ」

「私は、観測員見習いのミオです」

少女はもう一度言った。「観測員見習いの、ミオ」


(貨物が、歩いている。俺の知ってる船に、そんなもんはいない)


「どこから来た」

「……わからないの」

少女は穹窿の外を、ちらりと見た。

「目が覚めたら、船の中だった。ずっと、歩いていたの。クルーを、探して……」

「探して、どうする」

「報告を、しないといけないの。観測の……」

「誰に」


少女は黙った。答えを、持っていない目だった。


「この船のクルーは、俺ひとりだ。灰谷カイ」

「……ひとり?」

「ああ。ほかには、誰もいない」


少女の目が、穹窿の外へ、また流れた。星の海が、どこまでも続いていた。


そのとき、床が傾いた。


船の骨が、きしむような音がした。


カイは手すりをつかんだ。手すりの冷たさが、指に食い込む。胃の底が、ゆるく浮いた。慣れた船の揺れではなかった。壁の奥で、噴射ノズルの音がした。短く、二回。姿勢制御の噴射だ。だが、カイは何も入力していない。今夜、操舵席にも、機関区の操作盤にも触れていない。


少女がよろめき、穹窿の面に手をついた。


「なに……?」


梢の縁には細い計器の帯が巡っていて、その一つが航行盤だった。手動入力の記録は、空だった。自動補正の表示だけが、ちらちらと明滅している。船は勝手に、針路を取り直していた。


そして──ほたるが、二つに見えた。


一瞬のことだった。点滅の合間に、信号が二つの点に割れた。それから、また一つに戻った。目の錯覚かもしれない。だが、床の傾きと、瞬間が重なっていた。


「今の……」

少女が、盤を見ていた。

「星が、二つに……見えたの。ねえ、あれ、なに?」


カイは答えなかった。二年もいれば、この船の音と揺れには、ぜんぶ覚えがある。あの揺れは、入力のない揺れだった。


「今の、入れたのか」

「入れてないの。何も、触ってないの」


少女は、もう一度、首を振った。カイは、灯りを下ろしたまま、動けなかった。


穹窿の上では、星が無数に光っていた。盤の上でだけ、ほたるが点滅を続けていた。


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