第4話 玃猿
暗い倉庫はがらんとしていて、今はほとんど使われていないらしかった。
屋根を支える鉄骨がそこかしこに走り、見通しは悪い。
窓はすべて外側から塞がれ、灯りもほとんど入ってこなかった。
渼星は、懐から呪符を取り出すと、印を結んだ。
すると、渼星の瞳孔が大きく開いた。
まるで猫の目のように。
渼星は闇を見通す視界を得て、薄暗がりの倉庫の内部を見つめた。
そして、暗闇の向こうの気配を見据える。
妖しい気配は手前側のこの建物からは感じなかった。奥に扉が見える。それは開け放たれたままだった。
奥の扉の横に音もなく近づき、中の気配を伺う。何かがいる。濃密な魔の気配が、渼星の感覚に触れてくる。陰陽師である渼星には、その気配はもはや『臭い』として感じ取れるほど濃かった。
右手の銃をしっかり握ると、いつでも撃てるように前に突き出しつつ、扉をくぐった。
ぱっと見は何もいないように見える。だが、いる。頭上から一滴の血がしたたり落ちて床に跳ねた。
その刹那、渼星は頭上に銃を向けて発砲した。
ブローバックされ排莢される瞬間、青白い梵字が浮かび上がる。
通常ではありえない、霊力を纏った弾丸が何かの肌に食い込んだ瞬間、青白い炎をあげる。
「ぎゅああおおおおお!」
人でも獣でもない悲鳴が倉庫に響き、どさっと何かが落下してきた。
それは、四肢が異常に長い巨大な猿に似た怪異。
そのまま怪異は、大きな爪を振りかざし渼星に向かって飛びついてくる。
横へ跳んでその爪を避けると、もう一発銃弾を撃ち込んだ。
青白い炎をあげ、苦痛の叫びをあげるが、致命傷にはほど遠いようで、そのまま渼星に襲いかかってくる。
渼星は必死で怪異の攻撃を躱しながら、棚の陰に隠れた。
追跡に入る前、増援要請は送ってある。
だが、仲間たちがここへ来るまでどれだけかかるかはわからない。
それまでは、自分一人で持ちこたえるしかなかった。
渼星は、棚の陰を走り回り、遮蔽物を利用して銃撃しつつ牽制する。
何発かは当たっているものの、巨体の分厚い皮に邪魔されているのか、怪異の動きは衰える様子がない。
バランスのおかしい長い四肢をもつ巨大な猿の怪異を、渼星は持て余し始めていた。
「こいつ、まさか、玃猿?」
大陸の怪異譚にある、女を攫う巨猿。
そう思い当たった瞬間、背筋が粟立った。
驚いて集中が一瞬削がれ、怪異の爪が渼星の袖を切り裂き、血が舞う。
その血の香りに、怪異の長い舌が、べろりと舌なめずりをした。
興奮した怪異は、ゆっくりと渼星の動きを見ながら、迫ってきていた。
「冗談じゃないわね……」
最初の攻撃こそ殺気を感じさせたが、今はじわじわ追い詰めるような動きに変わっていた。ぞっとする想像を心の奥に押し込めると。隙をみて、棚の影に走り込む。そして渼星は、気配を消す呪言を唱えた。
単独での討伐を諦めた渼星は、怪異が『殺す』より『捕らえる』動きに変わったのを見て取り、応援が来るまで遅滞させるという方針に切り替えていた。
キョロキョロと辺りを見回し、クンクンと鼻を鳴らして、怪異は倉庫の中を落ち着きなく歩き回る。
並んだ棚の陰に隠れて、渼星は息を殺していた。
うろうろと倉庫をうろつく怪異は、渼星を見失ったことに気づき、首を傾げる……その時、腕時計型通信機にメッセージが届いた。音は鳴らなかった、だが一瞬の明滅があった。
普通であれば問題ないはずの動きだが、この暗闇では、それは明らかに存在しないはずの灯りだった。
「ぶぐぉ」
怪異は目の前の棚を、力任せに壁際へ押し潰した。
その陰に身を潜めていた渼星は、逃げる間もなく棚ごと壁へ叩きつけられる。
鈍い衝撃が頭を貫き、そのまま意識が途切れた。
怪異は、小さな悲鳴を聞くと、舌なめずりをして、渼星の方に踏み出した。
怪異は舌なめずりをしながら、一歩、また一歩と渼星へ近づいていく。
その長い腕が、気を失った彼女へ伸びかけた瞬間だった。
鈍い衝撃音が倉庫内に響いた。
次の瞬間、怪異の巨体が横殴りに弾き飛ばされる。
「ぐぎゅああ」
コンクリートの床を滑った怪異の前に、一人の男が立っていた。
三メートル近い怪異を前にしてなお、怯みもせず。
「倉橋のお嬢ちゃんを、貴様ごときの好きにはさせられない」
低い声だった。
人の声のはずなのに、その奥には獣の唸りに似たものが混じっていた。
闇の中で、男の瞳だけが鈍い金色に光る。
怪異の大きな手が、その男に殺意をもって振り下ろされる。しなやかな筋肉が躍動し地面を蹴ると、武道の達人のような動きで、男はあたれば致命傷になるであろう爪を躱していく。
その動きは人のものではない。
床を蹴るたび、しなやかな力が獣のように全身を駆け抜けていた。
喉の奥から低い唸りが漏れた。
怪異の攻撃を躱しながら男の蹴りがカウンターで決まる。
「ぶぐあがあああああ!」
巨大な怪異が悲鳴をあげてつっ伏す。
——夏の匂い。
京都の父の実家。蝉の声。
縁側で、誰かの膝に頭を預けていた。
大きな手が、髪をそっと撫でる。
懐かしい匂い。安心する体温。
その静けさを、怪異の悲鳴が引き裂いた。
怪異の悲鳴が渼星を覚醒させた。
「いたた……」
そう言いながら、棚の隙間から渼星は這い出てきた。
その瞬間男は人ではあり得ない速度で、宙に飛び上がる。
どこかで嗅いだ、魔の香りがうっすらと残っていたような気がしたが、それはすぐに玃猿の強い魔の気配にかき消される。
起きてきた渼星に見えたのは、うずくまる巨大な怪異。
何があったのか混乱しながらも、訓練された身体は自然に銃を握り、フルバーストで、霊的な加護をもつ銃弾を、マガジンの全弾を残さず撃ち込んだ。
集中して打ち込まれた弾丸から大きな蒼い炎があがり、怪異の動きがとまる。
その時、倉庫の扉が開く音がした。
「エトワール、いるか?」
「こっちよ」
声を聞いて、抜刀した黒瀬が駆け寄ってくる。
「でかいな、だが瀕死か?」
「おそらく玃猿ね、とどめは頼むわ」
「任せろ」
黒瀬の刀が一閃し、首が落ちた。
「据えもの斬りではな」
「楽でよかったでしょ、こっちは苦労したんだから……いたた。ああ、こぶが出来てるぅ」
後頭部を触りながら、渼星が愚痴る。
「それにしても、なんでこいつうずくまってたのかしら……」
その小さな呟きは黒瀬に届かない。
頭を振りながら、渼星は玃猿の死骸を見つめていた。




