第2話 偶然
昨日の現場の近くに来たのはただの偶然だった。すでに昨日の混乱は何もなかったように日常を取り戻した街。規制線も、血痕も、悲鳴の残滓も残っていない。
そこに昨日見た背の高い男が、またいた。
男と目が合うと、人好きのするようなニコリとした笑顔が渼星に向けられる。
彼が笑った瞬間、渼星はほんのわずかに息を止めた。初対面の男に向けるには不自然なほど、胸の奥で緊張がほどけたからだ。
どこかで似た気配を知っている気がした。
だが、思い当たる記憶はない。
「やあ、昨日の刑事さんじゃないですか。今日もお仕事ですか?」
「ああ、いえ。今日は非番……お休みです。あなたは昨日のご用事の続き?」
「僕の方ももう用事は済んで帰るところなんです。」
男はそう言ってから、少しだけ首を傾げた。
「もし暇でしたら、昨日のお礼にお茶でもいかがですか?」
断る理由はいくつもあった。知らない男であるし。職業も素性も曖昧で、昨日の現場にいたこと自体に、少し引っかかっている。
それなのに、渼星は即座に背を向ける気になれなかった。
確認したいだけだ。昨日から心に引っかかっている違和感の正体を。
「……少しだけなら」
自分に言い訳するようにそう返すと、男はどこか安堵したように目を細める。
その一瞬の表情に、なぜか胸の奥にざわつくものがあった。
東京の下町、昔ながらの純喫茶の奥の席に着くと、深入りの珈琲の香りが静かに立ち上っている。
「僕は大上吼と言います。フリーライター兼写真家です」
そう言って差し出された名刺を、渼星は受け取る。
大上吼。
その文字を見たとき、なぜか胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。
初めて見るはずの名字なのに、どこか耳馴染みがある気がする。
「私は今日は普通にお渡しできる名刺などは持ってないのでごめんなさいね」
「これも何かの縁、お名前をお聞きしてもいいですか?」
渼星は一瞬迷ってから、答えた。
「倉橋渼星と言います」
大上の表情が、ごくわずかに止まる。渼星が気付かないほどのほんの一瞬のこと。
「……倉橋、さんですか」
ゆっくりと、響きを確かめるような声音だった。
「京都のご出身ですか?」
「あら言葉出てましたか? 父が京都の出ですが、私はずっと東京なんですけどね」
「そうでしたか」
大上はやわらかく笑った。
だが、その笑みの奥に一瞬だけ別の感情が沈んだ気がして、渼星は無意識に彼を見返していた。
「ああ、いえ、昔の知り合いに倉橋って人がいて、京都の方と聞いてたので……」
それだけの会話のはずなのに、妙に胸が落ち着かない。
名字を呼ばれただけで、何かが少し揺れた気がした。
まるで昔、誰かにそう呼ばれていた記憶の残り香に触れたようで。
——なんで自分はこんなところで男と二人で喫茶店に、まるでデートみたいなことをしているんだろう、そう考えると何か気恥ずかしくなってくる。
「大上さんは取材か何かで?」
渼星は、気持ちを紛らわせるようにそう尋ねてみる。
「はい、大陸からの無許可移民について調べて記事をまとめる予定でして」
渼星としても気になる話題である。日本古来の怪異よりも、昨日のような外来の怪異の方が人にあだなすことが多いのだ。
「やはり、近年そういった人たちが増えていると?」
「何年か前のビザ簡略化以来、入国したまま帰らない人間が増えてきているようですね……」——役人でもあるこちらに遠慮しながら話しているのがわかった。
「入国管理法違反も、法に触れる行為ですから、私たちも見つければ当然検挙する相手ですから、遠慮なさらずとも大丈夫ですよ。もし何かあれば、お知らせいただいても……ああ、守秘義務とかもおありですよね、記者さんは」
男は少し視線を彷徨わせて考えていたが、メモ用紙を取り出すと、渼星の前に差し出した。
「もし差し支えなければ、連絡先をいただけませんか。何か掴んだ時、お伝えできるように」
少し考え込んで、渼星はそこにさらさらとメールアドレスを書き込んだ。
「何かあればこちらへ、情報提供はいつでもありがたいです」
喫茶店を出て、街を歩きながら、どうして連絡先を教えてしまったのだろう。
そう考えていた。何だか初めての気がしない。でも逢った記憶はどこにもない
父の知人の誰かに似ていたのだろうか、と一瞬だけ思ったが、もちろん思い当たる顔はこの時には思い浮かばなかった。
私ってああいう人が好みだったのかしら?
不思議な男……この時はただ、そう思っていた。




