第13話 月明かりの獣
意識が浮かび上がる。
最初に感じたのは、消毒薬の匂いと、柔らかな寝具の感触だった。
ゆっくりと目を開いた渼星の視界には、知らない部屋が映った。
身体を動かそうとして、手首と首筋に痛みが走る。
「……っ」
小さく漏れた声に、扉が開いた。
入ってきたのは大上だった。手に水の入ったグラスを持っている。
「起きましたか」
「……ここ、どこ?」
「僕の隠れ家の一つです。人目につかない場所の方が都合がよかったので」
「どれくらい寝てたの」
「八時間くらいだと思います」
大上はベッドのそばに来て、グラスを差し出した。
「少しずつ飲んでください」
渼星は身を起こそうとしてふらついた。すぐに大上の手が背を支える。服越しに伝わる熱に、一瞬息が止まる。だが振り払わなかった。
水を飲んで、ようやく喉が落ち着いた。
「……助けてくれて、ありがとう」
大上は少しだけ目を伏せた。
「間に合ってよかったです」
渼星は自分の手首の包帯を見る。
祭壇。血。鈴。首にかけられそうになった呪具。月の下で拘束を破った大上の姿。記憶が戻ってくる。
「怖くなかったわ」
「何がです?」
「祭壇で、あなたを見た時。普通じゃないって分かったのに」
大上は黙った。
渼星はふっと息を吐く。
「むしろ、綺麗だと思った」
自分で言っておいて、頬が熱くなる。
大上は困ったように笑った。
「そう言われると、少し困りますね」
薬とガーゼを取り出した大上が、渼星の頬の傷を見る。
「薬、塗り直します。いいですか」
「……お願い」
大上は静かに手当てをした。必要以上には触れない。その距離感がかえって落ち着かない。
「あ、そうだ職場に連絡を入れておいた方がいいと思います」
そう言って、大上は渼星のスマホを差し出した。
「うん、ありがと」
簡単に体調不良で休むとだけメッセージを送ると、渼星は、一息呼吸を整えて、大上の方を見た。
「吼さん」
無意識にそう呼んでいた。
胸の奥が熱を帯び、頬が上気してきた。
大上も一瞬だけ目を見開いたが、すぐにいつもの顔に戻った。
「はい」
「父のこと、どこまで知ってるの?」
大上はしばらく黙ってから答えた。
「宗一郎さんには昔、世話になりました」
「それだけ?」
「それだけではありません。でも、今ここで全部は話せません」
「信用してないから?」
「違います。でも話すべきこともあれば、話すべきでないこともあります。特に今は、身体の回復を優先してください」
渼星は眉を寄せる。
「ずるい言い方ね」
「自覚はあります」
少し間を置いて、大上は静かに続けた。
「ただ、一つだけ言えることがあります。宗一郎さんの娘だからだけじゃない。君を見過ごせなかった」
その言葉は、思った以上に真っ直ぐに渼星の胸の中に届いた。
「危ないところへ行くたび、見ていられなかった。傷つくのも、死にかけるのも」
渼星は返す言葉を失う。
「君を、放っておけなかった」
胸の奥の熱がさらに昂まった。
本当なら、警戒すべき相手だ。何者かも全部はわからない。そのはずなのに。
「理性はあなたをとても警戒しているのよ」
渼星は小さく言った。
「でも、あなたの温もりは、嫌じゃない。なぜか懐かしさを感じるの。本当に私たち会ったことない?」
そうまっすぐに見つめる渼星の視線が、大上のそれと絡み合う。
二人は目を逸らさず見つめ合う……。
やれやれというように、ため息をついて、大上が口を開く。
「十五年ほど前に、顔を合わせてます……ごめんなさい。今はそこまでで許してください」
そう言って確かめるように渼星の顔を見つめた。
渼星が痛みの少ない左手を大上に伸ばして、手のひらを広げる。
その手と渼星の顔を交互に見比べて、大上はそっとその手を握った。
渼星は大上の手を強く握ると、そのまま大上の身体に自分の身体を委ねて、そして自分の唇で、大上の唇を塞いだ。
驚きに見開かれる大上の目、それを揶揄うように笑った目で見つめながら、渼星は唇を離さなかった。
その唇の感触は甘美で、渼星の中を優しく蕩かせてくるように感じられた。
「……ん」
そっと、唇を離した渼星は、笑顔で大上に笑いかける。
「ふふ、今はこれで許してあげる」
大上は何も言わず、そっと渼星の身体を支えて、ベッドに横たわらせる。
そのまま、繋いだ手は離さないまま、しばらくまた静かな時間が流れた。
やがて大上が立ち上がる。
「もう少し休んでください。あなたにはまだ休息が必要ですよ」
離れようとする気配に、渼星は反射的にその手を掴んだ。
「……行かないで」
大上が振り返る。
困ったような顔で渼星を見つめる。
「眠るまで、手を繋いでいて、安心して眠れそうなの」
「……昔と変わらないですね。眠るまでこうしてるよ」
渼星が子供扱いされたことに抗議するように、端正な唇を突き出し、頬を膨らませる。
そんな子供じみた仕草に、大上は笑いを深めて、手をそっと渼星の頭に触れさせた。
子供をあやすように優しく頭を撫でる。
最初は抗議しようと思った。子供扱いして……と。でも、その心地良さに、なんだかどうでも良くなってきた渼星は、すっと目を閉じる。
しばらくすると、規則正しい寝息が部屋を静かに満たしていった。
日が落ちて、部屋を月の光が照らすころ、やっと渼星が目を覚ます。
手に温もりを感じるとまだ大上が自分の手を握ったまま、うたた寝をしている。
渼星は大上の寝顔を見つめる。
まるで芸術品のように整った頬骨の線、長いまつ毛、そして眠る前に重ねた唇。
渼星は指先でそっとその唇に触れた。柔らかな熱を確かめるようにしばらくそうしてから、その指を自分の唇へ運び、舌先でぺろりと舐める。
その時、グゥーっと渼星のお腹が鳴り、その音で大上が瞼を開けた。
「ごめん、寝てたね。お腹すいたよね、何か持ってくる」
今度は引き止めなかった。
食事が終わり、食後の珈琲を二人で楽しみながら、静かに見つめ合う。
「夜になりましたが、今夜はどうされますか?」
「今から帰れって言うのかしら?」
「お嬢様の思し召しのままに」
そう言って、整った礼をした。
「朝まで一緒にいてくれる?」
「お父様が聞いたらなんて言いますかね?」
「もう大人だもの……今更怒ったりしないわよ」
席を立った大上は、座っている渼星を抱き上げた。お姫様だっこの形になる。
「それでは、寝室へご案内しますね」
渼星は大上の首に腕を絡めて、全身の力を抜いて身体を相手に預ける。
安心し切って大上を見上げる渼星。
見下ろす大上の視線が渼星に絡みつく。
渼星が目を瞑ると、大上は今度は自分から唇を重ねていった。
そして今度は渼星の方から舌を招き入れた。
「……」
大上はそっと唇を離すと、渼星に問いかける。
「男は獣だと知りませんでしたか?」
「男がどうだかは知らないけど、あなたが獣なのは昨日もう見たわね」
「そうでしたね」
と苦笑する大上。
「この後も獣になっても構わなくてよ?」
悪戯っぽく蠱惑する笑顔を見せる渼星に、ひとつ小さく息を吐いた大上は……。
「お嬢様の思し召しのままに」
そう言って二人は寝室へ入っていく。
寝室は、月の青い光に微かに照らされて、その光が素肌のままの二人を優しく包んでいて、そして…………。
朝の光が静かに部屋へ差し込んでくる。
渼星は大上の腕の中で目を開ける。身体はまだ痛む。傷も、死霊術士の言葉も、課への説明も、何一つ終わっていない。
それでも、昨夜までとは違う。
「吼」
「はい」
「……起きてる?」
「起きています」
渼星は小さく目を閉じた。
「よかった」
大上は何も聞かず、ただ髪にそっと触れた。
二人きりの時間は終わる。
けれど、昨夜までと同じ場所には、もう戻れない。
渼星はそのぬくもりの中で、新しい朝を迎えていた。
ここまでで、第1章完となります。
引き続き第2章をお楽しみください。
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