第12話 奪還
月の光が大上を優しく照らしている。
みしり、と乾いた音がした。
大上を縛っていた拘束具の一つが、内側から無理やり引き裂かれる。呪符が破れ、骨灰が弾け、鈴が甲高く鳴った。
死霊術士の目が驚きに染まる。
「ま、まさか私の封印を破るなど……」
その呟きと同時に、祭壇室の隅に転がされていた死者たちが一斉に起き上がった。関節を軋ませ、歪んだ呻きを漏らしながら、大上へと殺到した。
だが、もう遅かった。
大上は上半身をひねるだけで、腕に絡みついた死者の一体を振りほどいた。次の瞬間には、その首根っこを掴んで床へ叩きつける。乾いた骨の砕ける音が響き、死体はそのまま動かなくなった。
さらに飛びかかったもう一体を、踏み込みざまの蹴りで横殴りに吹き飛ばす。人の子には成し得ない速度と重さだった。
その端正な口の喉の奥から、低く唸るような息が漏れる。
月光を受けた大上の瞳は、暗がりの中で鈍い金色に輝く。
男は咄嗟に鈴を鳴らす。
澄んだはずの音が、今は刃のように鋭く響き、大上の身体を止めようとする。だが、大上は一瞬だけ顔をしかめたものの、そのまま前へ出た。足元に散っていた護符の束を踏み砕き、死者の群れをこじ開けるように祭壇へ迫ってくる。
「渼星」
心の奥にまで、届いてくるような声だった。
朦朧とした意識の底で、その声は不思議と、はっきり届いた。
石台の上に縛られたまま、渼星は重いまぶたを持ち上げた。視界の端で、大上が死者たちを蹴散らしているのが見える。月光を受けたその姿は、人の形をしていても、人ではないものだった。だが、不思議と渼星は、怖いとは思わなかった。いや、なぜだか、美しいとさえ感じていた。
「……来るな」
男が低く言い、刃を渼星の喉元へ向ける。
「一歩でも動けば、この女の首を裂きますよ」
大上の動きが、ぴたりと止まった。
息が荒い。だがその目に諦めの色はなく、強い意思を湛えている。祭壇と男、その周囲の術具の配置を一瞬で測っているのが、渼星にもわかった。
男はその隙に、渼星の手首から流れる血を石台の溝へ導いていく。円陣が紅い光に妖しく明滅し、足元の文様が脈打つように光った。
その光を見た瞬間、渼星の意識が一気に引き戻される。
――違う。
この術の核はこの男じゃない。
術の流れは、石台の下を通って、右手側の骨壺に繋がっている。
壁際に三つ並んだ骨壺。そのうち中央だけが、わずかに遅れて脈動していた。
あれだ。あそこが、この術の核だ。
渼星は乾いた唇をわずかに動かす。
「……右」
声にならないくらい微かな囁き、だが、大上の耳は、渼星の声を聞き逃すことはなかった。
大上の目が一瞬だけ、渼星の視線の先を追う。
男もまた、その僅かなやり取りに気づく。
「何を――」
言い終わる前に、大上が動いた。
真正面から素直には行かない。
敵へ向かうと見せて、一歩左へ踏み込む。さらに死者の肩を踏み台にして跳躍すると、そのまま祭壇へ飛び込んだ。
敵の男が刃を向ける。
その一瞬、大上の腕が渼星の身体に巻かれ、そのまま石台の上から力ずくで引きはがした。
同時に、男の持つ刃が空を切り、術の導線が乱れ、円陣が不規則に揺れた。
大上に抱き寄せられた瞬間、渼星は荒い息を吐いた。
首筋に冷たい汗が流れる。足元はふらつき、まともに立つことも難しい。だが、まだ安全になったわけではない。
「撃てるかい?」
大上の声が、耳元で低く響く。
「……一発なら」
そう答えながら、渼星は震える指で拳銃を握り直す。
腕が鉛のように重い。呼吸が定まらない。視界の端が暗い。けれど、骨壺の位置だけは、はっきり見えていた。
男が怒気を滲ませ、両手を広げて、何事か呟く。
すると鈴が狂ったように鳴り、残った死者たちが一斉に向かってくる。
「させませんよ!」
大上が吼えるように声を上げた。
そのまま踏み込むと、飛びかかってきた死者たちを殴り飛ばす。さらに返す足で別の一体を蹴り砕く。月光の中で、獣のように躍動する。
できた隙は、ほんの一瞬であった。
だが、渼星にはそれで十分過ぎた。
拳銃を持つ手を上げる。
狙うのは敵ではない。祭壇の右、文様の流れが集まる骨壺――術の核。
引き金を絞る。銃身がブローバックし、青白い光がゆらめき、梵字がひとつ閃いた。
「これで――!」
その声とともに銃声が祭壇室に響き渡る。
霊力を帯びた弾丸は、まっすぐに骨壺へ突き刺さる。次の瞬間、そこから眩い蒼白い炎が噴き上がった。
術式が逆流する。
床に描かれた血の線が一斉にひび割れ、男の足元から黒い影が噴き返した。男が初めて絶叫する。
「な……っ、馬鹿な……!」
「馬鹿は、あなたよ」
渼星は息を切らしながら、なおも笑った。
「術の流れ、丸見えだったわ」
骨壺は爆ぜ、円陣を巡っていた呪いは行き場を失い、術者自身へと跳ね返る。
死霊術士の黒衣が内側から裂けるように膨れ、胸元と腕に赤黒い裂け目が走った。鈴が次々に砕け、香炉が倒れ、祭壇全体が悲鳴のような音を立てる。
男は膝をつき、なおも顔を上げた。
「……貴様ら程度では……」
口元の布が血で濡れていく。
その目には、なお執念が残っていた。
「あのお方には……貴様らでは敵わぬ……」
渼星の眉がわずかに寄る。
「あのお方……」
男は血を吐きながら、ひび割れた笑いを漏らした。
「これで、終わったと思うな……。時が満ちれば……お前たちは、ただの餌にすぎぬ……」
次の瞬間、逆流した術が男の全身を内側から焼いた。
断末魔の声は、途中で千切れた。
男の身体はその場に崩れ落ち、二度と動かなかった。
同時に、祭壇室全体が大きく揺れる。
術の支えを失い、その場全体が力を失っていく。
壁際の骨壺が倒れ、吊るされていた鈴が一斉に落ちる。死者たちは糸を切られたようにその場へ崩れ、床の文様も急速に褪せていった。
「……渼星」
大上が名を呼ぶ。
そこで初めて、渼星は自分が限界を超えていることに気づいた。
手の中の拳銃がずしりと重い。
全身から力が抜けていく。血を流しすぎたのか、術の反動か、あるいはその両方か。立っている感覚すら曖昧になっていた。
「終わっ……た?」
「ひとまずは」
そう答える大上の声が、いつもよりずっと近く、ずっと低く聞こえる。
渼星はかすかに笑おうとした。
けれど、その前に膝が折れる。
倒れかけた身体を、大上がすぐに抱き止めた。
「無茶をしすぎです」
「そっち……も」
言い返すつもりだった。
だが、最後まで言葉にならない。意識がするすると遠のいていく。
薄れる視界の中で、月光を浴びた大上の横顔だけが、妙にはっきり見えた。
人の顔をしているのに、どこか人ではない。なのに、不思議と怖くはなかった。
「吼……さん……」
名を呼んだところで、意識が切れた。
大上は腕の中で完全に力を失った渼星を見つめ、短く息を吐く。
祭壇室の揺れは強くなっていた。このまま長居はできない。
彼は渼星を抱え直すと、崩れ始めた祭壇室を振り返った。
床に転がる敵の骸。その最期の言葉が、頭の中に残っている。
――あのお方には、お前たちでは敵わぬ。
月は高く、白く昇っていた。
大上は何も言わず、渼星を抱いたまま夜の外へ走り出した。




