第11話 器
薄暗い地下空間の中央に、血と灰で描かれた円陣があった。その真ん中で黒い布で口元を覆った男が立っている。
痩せた長身を黒衣に包んだ男だけが、この死体袋と骨壺と鈴に囲まれた異様な場所で、ひどく落ち着き払っていた。
「あなたが、ビュユジュね」
渼星は拳銃を構えたまま、低い声で言った。
「確かに、周りからはそう呼ばれていますね」
男は愉快そうに目を細める。
「使える者に役目を与えていただけですよ。彼はよく働いてくれました。死者は重くてね。運ぶには生きた手が要る」
「……最低ね」
「そうでしょうか」
男の目が、じっと渼星を見つめる。
その視線は不快なほど静かで、値踏みをしているようだった。
「ですが、あなたはもっと役に立つ」
渼星の背筋に冷たいものが走る。
隣に立つ大上の気配が、わずかに変わった。
「その目。魔を視る目。そして霊力に溢れた歴史ある日本の術者の血。あなたは簡単に廃棄したりしませんから安心してください」
「廃棄……やっぱり最低ね」
「あなたには器になっていただくのですよ」
その声には、奇妙な恍惚が混じっていた。
「死の気配を辿れる者は貴重だ。こちら側へ寄せてしまえば、もっと多くを見せて差し上げられる」
「寝言は寝て言いなさい」
吐き捨てた渼星の横で、大上が一歩前へ出た。
「それ以上、彼女に触れるな」
柔らかな調子は消えていた。
大上の声は低く、押し殺したように響く。
死霊術士の視線が、そこで初めて大上へ向く。
「お連れ様は何者かな?
聞いていた情報にはない人ですね」
「少なくとも警察の人間ではないですよ」
「ふむ、まあ一緒に来た不幸をあの世後悔なさい、あなたは使い道がない」
その言葉に、渼星が横目で大上を見る。
だが、大上は何も答えなかった。ただ、その目だけが冷たく細められる。
死霊術士の男は、静かに右手を上げた。
次の瞬間、頭上に吊るされた鈴が一斉に鳴った。
甲高い音が地下空間を満たす。
それと同時に、床に描かれた血の線が赤黒く光を帯びた。
「しまっ――」
飛び退こうとした時には、もう遅かった。
足首に冷たいものが絡みつく。床の文様から黒い影が這い出し、膝、腰、手首へと巻きついて、一瞬で渼星の身体をその場に縫い止めた。
「くっ……!」
拳銃を持つ右腕を上げることも出来ず、皮膚の下に異物が潜り込むような不快感に、思わず息が詰まった。
陰陽術師専用に組まれた拘束術だった。
霊力に食いつき、血の流れに沿って身体を押さえ込む。抵抗しようと術を巡らせれば巡らせるほど、逆に深く食い込んでくる。
「倉橋さん!」
鈴の音がさらに高く響く。
大上が駆け出そうとした、その前に壁際の死体袋が一斉に裂けた。
中から立ち上がったのは、乾いた皮膚を身体に張り付かせた屍食鬼たちだった。
関節の軋む不快な音を立てながら、大上へ雪崩れ込む。
屍食鬼の一体が大上へ飛びかかった。
次の瞬間、その身体は床を転がり、壁際へ叩きつけられていた。大上の蹴りだ。だが、一体を退けても次が来る。鈴の音が耳を裂き、灰が焼けるように肌へまとわりつく。
大上の喉の奥から、低い唸りが漏れた。
それを見て、男は、一瞬目を見開く。
「身体強化系の術者か?
術の気配がしなかったが……」
その間にも、渼星の身体は床陣の中央へと少しずつ引きずられていく。
膝がコンクリートに擦れ、鈍い痛みが走る。
「やめ……なさい……!」
渼星は無理やり左手を動かし、懐の呪符へ指先を伸ばした。
紙に触れ、呪言を唱えようとした瞬間、首筋を貫くような激痛に視界が白く弾けた。
術は血に食いついている。
霊力で押し返そうとするほど、向こうに自分を晒す構造だった。
「よくできてる……最悪……」
呻くように呟く。
自分で言っていて、苦く笑いたくなる。
男が、渼星のそばに歩み寄る。
細い刃物と、小さな鈴のついた紐がその手に握られていた。
「君は死ぬには惜しい。壊してから使わせてもらう。あのお方もきっとお喜びだろう」
その声は穏やかで、だからこそ怖かった。
死よりひどい形で、自分が奪われる。
「ふざけ……」
言い返しかけた時、男が渼星の髪を無造作に掴み、顔を上げさせた。
「いい目だ。壊れる寸前の光がいちばん美しい」
「趣味……悪いわね」
かすれた声で絞り出す。
寒気と吐き気が同時に襲い、視界の端が暗く滲みはじめた。
男は鈴のついた紐を、渼星の首へ回そうとする。
その紐には、濃い呪いの気配が染みついていた。支配。従属。隷属。
触れた瞬間、本能が叫ぶ。これを許せば戻れない、と。
渼星は残る力を振り絞って首をひねった。
刃が頬をかすめ、熱いものが流れる。それでも、その一瞬の隙へ呪符を投げつけた。青白い火花が閃き、男の袖が焼ける。
初めて男が舌打ちした。
「往生際の悪い」
「そっくり、そのまま返すわ……!」
だが次の瞬間、拘束の力がさらに強まり、渼星の身体から一気に力が抜ける。
膝が崩れ、床へ倒れ込みかけたところを、男が髪を掴んだまま吊り上げた。
大上はなおも死者の群れを押し返していた。
一体の首を掴み、獣じみた剛力で別の一体へ叩きつけた。
男が初めて本気で大上を見る。
「……そこまで動けるとは。想定以上ですね」
低く息を吐いてから、男はわずかに肩をすくめた。
「仕方ありません。少々品はありませんが、別の手を使いましょう」
そう言って、男は部屋の扉から出ていく。同時に、扉の前にシャッターが閉まり、何かが部屋の中に流れ込んでくる。
まず渼星が先に気を失った。
「くそ……ガスか」
そう呪いの言葉を吐きながら、大上も倒れ伏してしまう。
息をしない死者たちはそのまま動き続けて、二人を拘束すると、シャッターが開き、祭壇室へと二人を運んでいった。
渼星が次に目を開けた時、石の台に縛りつけられていた。
コンクリートの天井の一部が崩れ、細長い裂け目から夜空が覗いている。
血で描かれた円陣の中心に石の台が据えられていた。
男が刃物を手に、そばに佇んでいる。
「お目覚めですね」
「最悪の目覚めね……」
「それは残念です。でも、もうそんな心配は不要になります」
男はそう言って、刃先で渼星の手首を浅く切った。
血が細く流れ、石台の溝を伝って円陣へ落ちていく。
床の文様が、さらに赤黒く光った。
視界が揺れる。
耳の奥で鈴が鳴り続け、遠くで大上の唸り声がした。
「渼星!」
初めて名を呼ばれた。
その声には、押し殺した焦りが滲んでいた。
大上は、厳重に拘束具で固定され、端の方に転がされていた。
朦朧とする意識の中で、渼星はかろうじて天井を見上げた。
崩れた裂け目の向こう、夜空の端に、白い月が昇りかけている。
真円ではない。だが満ちかけた月の光は、確かにそこにあった。
冷たい月明かりが、祭壇の上に倒れた渼星の頬をかすめる。
そして少し離れた場所、大上を縛っていた拘束具に貼ってある呪符のひとつが、みしりと音を立てて裂けた。
男の目が、初めてわずかに揺れた。
「……そうか」
低い声。
そこに初めて、警戒が滲んだ。
大上が、ゆっくりと顔を上げる。
喉の奥から漏れる息は、もはや人のものではない。
暗がりの中で、瞳の金色だけが月光を返していた。
渼星の意識が沈んでいく。
遠ざかる音の中で、それでも最後に見えたのは、月に照らされたその目だった。
次の瞬間、拘束具が大きく軋んだ。
――月が、昇った。




