第59章 斬らない聖剣
魔王が、すべてを守ろうとして一人で楔になり、誰にも迎えに来てもらえなかった過去を見せます。玄弥は、許すとは言いません。奪われた命の責任は消えない、とも告げます。それでも彼は、魔王ではなく、魔王と無数の願いを縛る「王冠」を斬ると決める。一人を楔にする仕組みそのものを、終わらせるために。
魔王が、泣いていた。
何百年ぶりかの、涙だった。膝を抱えたまま、子どもみたいに、声を押し殺して。
玄弥は、その前に座って、ただ待っていた。せかさなかった。何も言わなかった。アヴァロンがいつだったか、言っていた。聞くことから始まる、と。剣を抜くより先に。だから、玄弥は聞こうとした。この名もない楔が、何を抱えてきたのかを。
外では、まだ戦が続いている。軍勢が巨体に押されている。それは分かっていた。地響きが、足の裏から伝わってくる。早く戻らなきゃ、と頭の半分が言う。でも、もう半分は、動くな、と言っていた。ここで急いだら、きっと何も変わらない。源兵衛川で、水の柱の声を聞いたときも、こうだった。斬ろうとした人がいて、聞こうとした自分がいて。あのときも、急がなかったから、ほどけた。そんな気がした。
やがて、魔王が、ぽつりと語り始めた。
『私は、ただの村の子どもだった。妹がいた。母がいた。畑があった。とくべつ、何もない。けれど、幸せだった』
玄弥のまわりに、光が揺れた。
魔王の記憶が。実った麦。穂の先が、夕日でこがね色に透けていた。その畑のあぜを、はだしで駆ける妹の笑い声。井戸端に立つ母の、つむぐ子守唄。鍋から立つ、湯気のにおいまで。――どこにでもある暮らし。けれど、あたたかい。
『ある日、空が割れた』魔王の声が震えた。『二つの世界が、ぶつかりかけた。村が燃えた。妹も。母も。目の前で消えた。私は何もできなかった。ただ、見ていた』
光が暗転する。燃える村。崩れる空。妹の伸ばした手。母の最後の声。
『私は聖剣を見つけた。村の外れに、刺さっていた。触れたら、声がした。汝、何を守る、と。私は答えた。もう誰も失いたくない、と。だから、楔になった。二つの世界のあいだに立った。妹みたいな子が。母みたいな人が。もう、消えないように』
「それで。世界を、救ったんだな」玄弥はつぶやいた。
『救った。何百万もの命を。私が立ち続けたから、世界はぶつからずにすんだ。――けれど』
魔王の声が、くしゃりと歪んだ。
『誰も、来なかった』
ただ、それだけを、魔王は言った。
『救われた人々は、暮らしに戻った。畑を耕し、子を育て、笑い、泣いた。それでいい。それを守りたかったのだから。けれど、誰も私を覚えていなかった。私がここに立っていることを。私の名前を。一年。十年。百年。待った。やがて、私は、自分の名前すら忘れた。残ったのは、ただひとつ。誰も来なかった、ということだけ。それが何百年も、私を塗りつぶして。――黒い王冠になった』
玄弥は、黙って聞いていた。
胸が痛かった。あまりにも、よく分かったから。たった半年の向こう暮らしでも、つらかった。帰れないかもしれない、という夜の心細さ。それを、何百年。誰も来ないまま。想像するだけで、息が詰まった。
「つらかったな」玄弥は言った。「ほんとに。つらかったな」
そのひとことが、うまく言えたかどうか、玄弥には分からなかった。たぶん、うまくない。慰めなんて、もともと得意じゃない。澪なら、もっとちゃんと言えるんだろうな、と、頭の隅で思った。あいつは、こういうとき、よけいなことを言わない。ただ、隣にいる。それができる。俺は、つい、しゃべりすぎる。けれど、それでも、言わずにはいられなかった。何百年、誰にも言ってもらえなかった言葉だ。下手でも、誰かが言わなきゃ、いけない気がした。
『……っ』魔王が、また涙をこぼした。
しばらく、二人は黙っていた。巨体の内部で、無数の声が渦を巻く中で。名もない楔と、寝坊ばかりの勇者が、ただ向かい合っていた。慰めの言葉も、許しの言葉もなく。ただ、そばにいた。
けれど、やがて、玄弥は立ち上がった。そして、まっすぐ、魔王を見た。
「でも、俺、あんたを、許すとは言わない」
魔王が、はっと顔を上げた。
「あんたがつらかったのは、本当だ。心から、思う。でも」玄弥は言った。「黒冠魔導団が、子どもの記憶を奪った。村人を同士討ちさせた。兵士の弟が死んだ。カイの家族の記憶が消えた。――それは、あんたのつらさとは、別の話だ。奪われた命は。消えた記憶は。あんたがつらかったからって、帳消しにはならない」
『……分かっている』魔王は目を伏せた。『私は許されない。だから、倒せ。私を。それで終わる』
「終わらないよ」玄弥は首を振った。
『なぜだ。私を倒せば、戦争は終わる』
「あんたを倒しても、楔は、また必要なんだろ」玄弥は言った。「誰かが立ってないと、世界はまたぶつかる。なら、また誰かが楔になって、忘れられて、孤独になって、次の魔王になる。ぐるぐる、回るだけだ。何も、終わらない」
玄弥は、エクスカリバーを握った。刃が、白く燃えていた。
「だから、俺は、あんたを斬らない。許すわけでもない。俺が斬るのは」玄弥は、魔王の頭上を見た。「この、仕組みだ」
黒い王冠。魔王と、魔王の中に渦巻く無数の願いを、ひとつに縛りつけている、輪。
「一人で世界を支えなきゃいけない、っていう仕組み。誰か一人を楔にして、そいつを忘れて、平気で暮らしていく、っていう。この、ひどい仕組みそのものを、俺は、斬る」
『待て』魔王が言った。『王冠を斬れば、私は楔でなくなる。二つの世界のつり合いは、どうなる。誰が支える。お前が楔になるのか』
「ならない。もう、決めただろ。一人を楔にしないって」
玄弥は、剣を構えたまま、目を閉じた。そして、心の中で呼びかけた。三島の交差点へ。四王国の軍勢へ。解放された捕虜たちへ。境界獣の森へ。
「みんな、聞いてくれ。一人で世界を支えるの。もう、やめよう。無理なんだ、一人じゃ。だから――少しずつ、引き受けよう。守りたいって思う、気持ちを。ほんの、少しずつ」
その声が、地下の脈を通って、広がっていった。
まず、三島から、応えがあった。
『玄弥。あたしが引き受ける』澪の声が響いた。『あんたをつなぎ止めてきた、この気持ちを』
『私も。記録する力を』灯里。
『おれも、描く。誓気を絵にして、残す』凪人。
「我らも」アルディアの王の声が響いた。「白角騎士団の誓気を、少しずつ」
「鋼壁も」「翡翠翼も」「蒼帆も」――四つの旗の下から、誓気が集まってきた。名前を取り戻したミレナが、ヨナが、トーマが。子を守る境界獣たちまでが。それぞれのぶんを差し出した。掌にのるほどの、ほんのひとすくいずつ。それが地下の脈で出会って、合わさって、あふれて、川になった。一人の楔より、ずっと太い、川に。
玄弥のまわりに、光が満ちていく。あたたかい光だった。三島の紫陽花の色。源兵衛川の水の色。四つの城の旗の色。――いろんな誰かの想いがまじりあって、一つの川みたいに流れていた。
「見ろよ」玄弥は魔王に言った。「あんたが何百年、ひとりで背負ってたもの。ほら。みんなで持つと、こんなに、軽い」
光が、玄弥の腕に、肩に、巻きついていく。けれど、重くなかった。むしろ、下から押し上げられるようだった。何万もの掌に、支えられて。
『そんなことが、できるのか』魔王がつぶやいた。『一人でなくても、世界は支えられるのか』
「ほら。もう、支えてる」
玄弥は、巨大化したエクスカリバーを振り上げた。黒い王冠へ向かって。
「あんたは、もう、楔じゃなくていい」玄弥は言った。声が震えた。「魔王でも、なくていい。ただの人間に戻っていい。名前を思い出して。妹のことも。母さんのことも。畑も。子守唄も。――ぜんぶ。誰も、もう、あんたを忘れさせない。俺が。みんなが。覚えてる。語り継ぐ。だから」
玄弥は、刃を振り下ろした。
「もう、ひとりじゃ、ないよ」
言ってから、声が裏返ったのに気づいた。頬を、何かが伝っていた。泣いていたのだと、そのとき初めて分かった。
光の刃が、黒い王冠を、まっすぐ断った。
魔王は、斬らなかった。王冠だけを。無数の願いを縛りつけていた、その輪だけを。
*
王冠が、割れた。ぱきり、と、乾いた音を立てて。
その瞬間。王級鎧巨兵の内部に渦巻いていた記憶が。願いが。声が。いっせいに解き放たれた。畑を焼かれた農夫が。子を奪われた母が。名前を忘れられた兵士が。それぞれのもとへ。それぞれの世界へ帰っていく。光になって。雨上がりの紫陽花の花びらみたいに、ひとひら、ひとひら、舞い上がっていく。崩れる外殻のすきまを縫って、赤い空へ。光の粒の一つが、玄弥の頬をかすめて、上っていった。あたたかかった。誰かの、ほっとした息のような熱が、そこにあった。
巨体が崩れ始めた。外殻が剥がれ、骨がほどけ、世界を覆っていた影が薄くなっていく。空が戻ってくる。赤い空が。割れた雲が。青白い星が。
「玄弥。崩れるぞ。逃げるんだ」カイが叫んだ。
「待って。あいつを、連れていく」
玄弥は振り返った。崩れていく巨体の中心で、黒い王冠を失った影が立っていた。黒いよろいが剥がれ落ちて、中から、ひとりの人間が現れた。
若い。十五か、十六か。畑仕事で日に焼けた肌。素朴な顔立ち。どこにでもいる、ひとりの少年。世界を救う前の。楔になる前の。誰にも忘れられる前の、姿。
「あんた。名前。思い出したか」玄弥は近づいた。
少年は、ぼんやりと玄弥を見た。それから、ゆっくりとつぶやいた。
「……ウィル」涙をこぼして。「ウィルだ。私の名前は。ウィル。妹はニナ。母さんは。母さんは――」
名前が、戻ってきた。何百年、忘れていた名前が。少年の口から、一つずつ、あふれ出してくる。妹の名。母の面影。村の井戸の、ぬるい水の味まで。閉じていた引き出しが、いっぺんに開いたみたいに。一つ思い出すと、その奥から、また一つ。麦を刈る母の手の、節くれだった感じ。妹がよく転んで、膝をすりむいて泣いた、あの泣き方。――どれも、たいしたことじゃない。なのに、ウィルは、その一つ一つに、しがみつくように、口にした。失くしたと思っていたものが、ぜんぶ、まだそこにあった。
「ウィル。いい、名前だ」玄弥は、その名前を呼んだ。
ウィル、と呼ばれた少年が、びくり、と肩を震わせた。その名で呼ばれること、自体が、もう何百年もなかったのだ。誰かに名前を呼ばれる。それだけのことが、こんなにも人を、泣かせるなんて。玄弥は、初めて知った。
『その名だ』エクスが、声を震わせた。『私が最初に握った継承者。すまなかった。私もお前を忘れていた。だが、もう忘れない。お前の名は、ウィルだ。世界を救った、優しい少年の名前だ』
ウィルは、声を上げて泣いた。何百年ぶりかの自分の名前を、胸に抱きしめて。子どもみたいに、しゃくり上げて。その泣き声に合わせるように、崩れていく巨体のすきまから、光がこぼれ落ちていった。解き放たれた無数の声が、それぞれの帰る場所へ向かって。
*
戦争は、終わった。
王級鎧巨兵は崩れた。魔王は、ウィルという一人の人間に戻った。黒冠魔導団は滅び、七つの禍は断たれた。長い戦いが、ようやく幕をおろした。
けれど、玄弥は知っていた。まだ、ひとつ終わっていないことがあった。
二つの世界を、強制的につなぎ止めていた力が、消えた。等価交換も、ほどけた。なら――玄弥は。現代へ帰れるのか。それとも。
「エクス。俺、帰れるのか。三島に」崩れていく世界の中で、玄弥はつぶやいた。
『……分からん』エクスが、正直に答えた。『楔は、もういらん。二つの世界は、みんなで支えることになった。だが、お前をこちらへ引き込んだ力も、消えた。向こうへ戻す保証は、どこにもない』
「そっか」玄弥は、戻ってきた赤い空を見上げた。青白い星を。
「でも、やることは、やった」玄弥は笑った。「みんな、助けた。ウィルも、ひとりじゃなくなった。大河も、もう戻せる。それで、十分だ。あとは――澪が、迎えに来てくれるって言ってたしな」
帰れなかったら、どうしよう。その不安が、なかったわけじゃない。三島の、あの六月の朝。寝坊して、自転車で通学路を飛ばす、なんでもない朝。もう、見られないのかもしれない。そう思うと、喉の奥が、ひりついた。けれど、口にはしなかった。ウィルの何百年に比べたら、自分の心細さなんて、きっと、ちっぽけだ。――いや。ちっぽけ、で片づけるのも、ちがう気がした。つらいものは、つらい。比べるものじゃ、ない。それでも、と玄弥は思う。あいつなら。澪なら。きっと、呼んでくれる。何回でも。声がかれるまで。――その確信だけは、ふしぎと、揺るがなかった。
玄弥は、エクスカリバーを握りしめた。崩れていく世界の中で、遠い三島の交差点を、あの信号待ちの朝を、思いながら。
読んでくださり、ありがとうございます。
題名のとおり、聖剣が「斬らない」と決める章です。この物語が最初からたどり着きたかった場所でした。
気をつけたのは、玄弥に安易な許しを語らせないことです。魔王がどれほど孤独でも、奪われた命は帳消しにならない。兵士の弟も、カイの家族の記憶も、戻らない。玄弥はそれをはっきり告げます。そのうえで、彼が斬るのは魔王ではなく、王冠――一人で世界を支えなければならない仕組みそのもの。「あんたを倒しても、また次の魔王が生まれる。なら、仕組みを終わらせる」。倒して終わりにしない選択を、ここでようやく形にできました。
そして、みんなが少しずつ誓気を引き受ける場面。澪が、灯里が、凪人が、四王国が、解放された捕虜が、境界獣までが、ほんの少しずつ。何万もの「少しずつ」が、一人の楔より大きな力になる。一人で抱えるからつらかった、最初から分ければよかった――この一行を書くために、長い物語を書いてきた気がします。
魔王はウィルという名を取り戻し、戦争は終わります。けれど、玄弥が帰れる保証はない。最終章。物語は、はじまりの交差点へ帰ります。




