第6章 逆流と雨傘のモンスター
咲良の足元に広がった異世界への入口。今回はその場面から始まります。
玄弥は力ずくで助けることもできました。けれど――澪の声を思い出し、別の選び方をします。
三島側から異世界へ流れかける「逆流」と、雨の商店街に現れる新しいモンスターの章です。
水たまりの光が、和菓子屋の床いっぱいに広がっていく。床板の上に水などないのに、そこには確かに波紋があった。揺れる光の奥に、赤い土の道と、見たことのない森が映っている。咲良の片足が、その中へ沈みかけていた。
「咲良!」
宮下こよみが叫ぶ。玄弥は咲良の手をつかんでいた。小さな手は、冷たかった。咲良は赤いヘアピンを握りしめたまま、泣きそうな顔で玄弥を見上げている。
「引っ張る!」
白石澪が玄弥の腕をつかむ。
「待ってください! 無理に引くと、境界が裂けるかもしれません!」
榊原灯里が叫んだ。
「じゃあどうすればいいの!」
澪が振り返る。灯里はノートを抱えたまま固まった。
「えっと、えっと、古い記録だと、水辺に落ちたものは名前を呼んで戻すっていう話があって、でもこれは水辺じゃなくて床で、しかも異世界の赤土が見えていて、なのでたぶん、名前か、持ち物か、記憶の核を」
「短く!」
「名前を呼んでください! あと、本人に戻りたいって思わせてください!」
灯里はほとんど泣きそうな顔で言い切った。
「理にかなっておりましょう。境界とは、強き記憶に引かれるもの」
アヴァロンが玄弥の横に膝をつく。
「可能性って」
「私とて、初めて目にする現象ゆえ……確かなことは申せませぬ」
玄弥は咲良の手を強く握った。右手が熱い。体の奥で何かが燃える。引き上げるだけなら、たぶんできる。今の自分の体なら、咲良一人くらい力ずくで引っ張れる。でも、それをしたら——澪の声が頭の中でよみがえった。分かんないまま、前に出ないで。
玄弥は咲良を見る。
「咲良ちゃん。戻ろう」
「でも」
「ヘアピン、返ってきたんだろ」
咲良は手の中の赤いヘアピンを見た。
「うん」
「じゃあ、まだ言える」
「何を」
玄弥は一瞬迷った。自分が言わせていいのか分からない。けれど、言えなかった言葉があの影を引き寄せたなら、たぶん、それが咲良をここに引き戻す。
「ごめんなさいって」
咲良の顔がくしゃりと歪んだ。
「お母さんに?」
「お母さんにも。おばあちゃんにも。自分にも」
咲良は泣き出しそうな顔で、宮下こよみを見た。宮下さんは床に膝をつき、手を伸ばしている。
「咲良」
声は震えていた。
「怒ってないよ」
その一言で、咲良の目から涙がこぼれた。
「ごめんなさい。なくしたって言えなくて、ごめんなさい」
小さな声だった。その瞬間、赤いヘアピンがふわりと光る。床に広がった水たまりの中で、赤い土の道が遠ざかり、森の影が薄くなった。玄弥は咲良の手を引いた。今度は、体が勝手に動く感じではなかった。澪が支え、宮下さんが抱き寄せ、灯里が「名前、名前です!」と慌てて叫び続け、アヴァロンが境界の光を押さえる。咲良の足が、床へ戻った。光が弾け、店の奥に、あんこの甘い匂いが戻ってきた。
水たまりは消えていた。咲良は宮下さんに抱きしめられ、泣いている。玄弥はその場に座り込んだ。右手が熱い。けれど、さっきより少しだけ、自分の手のように感じた。
「今の」
澪が息を整えながら言う。
「玄弥、ちゃんと止まった」
「止まった?」
「力ずくで引っ張ろうとしなかった」
玄弥は右手を見た。
「……澪の声、思い出した」
澪は一瞬、何か言いかけた。けれど、目をそらして小さく言う。
「なら、よかった」
よかった、と言いながら、澪の声はどこか寂しそうだった。止まれたのは、まだ玄弥が玄弥のままだという証拠だ。でもいつか、止まれなくなる日が来るんじゃないか——澪のその不安までは、玄弥にはまだ見えていなかった。
灯里が床にへたり込んだ。
「よ、よかった……。名前を呼ぶで合ってた……」
「自信なかったの?」
澪が聞くと、灯里は涙目でうなずいた。
「し、資料では何度も読んだんです、読んだんですけど、実地は、実地は初めてで……合っててよかったぁ……」
「怪異を実地試験って言わない」
「すみません」
そのやり取りで、少しだけ空気がゆるんだ。けれどアヴァロンだけは、消えた水たまりの跡を見つめていた。
「これは、転送です」
「異世界から来るだけじゃなくて」
玄弥は顔を上げる。
「こちらからも向こうへ流れ始めています」
「たぶん、水辺だけじゃありません」
灯里がノートを抱え直す。
「水辺に溜まった記憶が、商店街や大社前の交差点にも流れ込んでるんです。三島の水って、町の下をずっとつないでるから」
「町の下?」
「湧水、用水路、川、昔の水路跡。見えてる水だけじゃなくて、土地の記憶としての水です」
灯里は言いながら、自分で興奮してきたのか早口になる。
「つまり、あの剣が刺さった場所が大社前で、そこから商店街と源兵衛川に線が伸びて、でも感情の核は個人の持ち物に宿っていて、黒い王冠はたぶん異世界側の王権か、もしくは」
「灯里。一回、息して」
澪が止めた。
「はい」
灯里は深呼吸した。宮下さんが、泣き疲れた咲良の背を撫でながら、静かな声で言う。
「難しいことは分からないけれど。この町には、流したつもりでも流れきらないものが、たくさんあるのかもしれないね」
玄弥はその言葉を覚えておこうと思った。流れきらないもの。返せなかったもの。言えなかった言葉。それが、モンスターになる。
その夜、雨が降り出した。細い雨だった。商店街のアーケードを叩き、店先のビニール傘を濡らし、側溝へ小さな流れを作る雨。玄弥たちは宮下さんの店を出たあと、咲良と宮下さんを交番の相沢に任せた。相沢は最初、説明を聞いて眉間に深いしわを作ったが、床に残った赤い土を見て何も言えなくなった。
玄弥、澪、灯里、アヴァロンは、商店街のアーケードの下で雨を見ていた。
「今日はもう帰った方がいい」
澪が言った。
「そうだな」
玄弥もそう思った。思ったのに、雨の音が気になる。ぱたぱた、ぱたぱた。誰かが、傘で地面を叩いているような音。商店街の端に、骨の折れた、布の破れた一本のビニール傘が落ちていた。その傘が、ひとりでに起き上がる。
「……もう?」
澪の声が低くなる。折れた傘は、よろよろと歩き出した。いや、歩くというより、雨に押されて進んでいる。傘の内側には黒い影が溜まっていた。小さな手ではない。もっと大きい。傘の骨がぎしりと鳴り、その奥から、寂しそうな声がした。
待ってたのに。
灯里がノートを落としそうになる。
「雨に、記憶が乗ってる……」
アヴァロンが剣に手をかけ、玄弥の右手が熱くなる。雨傘のモンスターは、商店街の明かりの下でゆっくり振り向くと、誰もいないはずの隣へ、そっと傘を差し出した。もう来ない誰かを、まだ雨の中で待っているみたいに。そのまま、ぱたぱたと商店街を進み始める。骨の折れた足取りは遅い。けれど迷ってはいない。八百屋の前を通り、古い文具店の前を通り、閉まりかけたシャッターの影を雨で濡らしながら、まっすぐ進む。
その傘を追いかけようとして、玄弥は、ふと、商店街の向かいに、目を止めた。
雨の煙る通りの奥に、誰かが、立っていた。古い甲冑姿の、背の高い人影。傘も差さず、ただ、こちらを――いや、玄弥の右手を、見ている気がした。瞬きを、ひとつ。次に見た時には、もう、そこには、濡れたアスファルトしか、なかった。
兵士の一人だろうか。それにしては、気配が、冷たすぎた。玄弥は、その冷たさを、雨のせいだと、思うことにした。
「追うよ」
玄弥が言うと、澪はすぐにうなずいた。
「でも、近づきすぎない」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
灯里がノートを抱え直し、雨傘の進む先を見た。
「あの方向、昔の写真館です。今はもう閉まってますけど、商店街の古い写真をたくさん撮っていたお店で」
「写真館?」
「記憶が残りやすい場所なんです。人の顔とか、約束とか、声にならなかった一瞬とか、時間そのものを紙に焼きつけるので、だから、ええと、いちばん溜まりやすくて」
玄弥は雨傘の背中を見た。待ってたのに。あの声は、誰に向けたものだったのだろう。宮下さんの店を出たばかりなのに、傘は和菓子屋へ戻らず、写真館へ向かっている。それが少しだけ、引っかかった。
「ならば、あの傘の核もそこにあるかもしれません」
アヴァロンが低く言う。
雨傘のモンスターは、商店街の奥にある古い店の前で止まった。看板は半分錆びていて、文字はかすれている。ミシマ写真館。ガラス戸の内側には、色あせた家族写真や七五三の写真が何枚か飾られていた。雨に濡れた街灯の光が、ガラスの上をゆっくり流れていく。傘は閉まった店の前で、また誰もいない隣へ傘を差し出し、かすれた声でつぶやいた。
こよみちゃん。
玄弥の背筋が冷えた。
「こよみって」
「宮下さんの名前」
澪が振り返る。
「でも、宮下さんって」
玄弥は言いかけて、写真館のガラスに映る古い写真を見た。七五三の写真。学生服の少年少女。昭和の日付が入った、雨の日らしい集合写真。
「ちゃんって呼ぶには、今の宮下さんじゃないよな」
「昔の宮下さんを、呼んでるってこと?」
澪の顔が少しこわばる。
「宮下こよみさん。さっきの和菓子屋さんです」
灯里の声が、小さくなった。
雨傘のモンスターは、写真館のガラス戸に寄り添うように立っている。誰かを待つみたいに。ずっと昔の雨の日から、一歩も進めないみたいに。次の瞬間、傘の輪郭が雨にほどけた。透明なビニールの破れ目から黒い影がこぼれ、写真館の軒下へ流れていく。傘はぺしゃりと地面に落ちた。ただの壊れたビニール傘に戻ったように見える。けれど、写真館のガラス戸の奥で、誰かが一瞬だけこちらを見た気がした。若い女の子。雨に濡れた髪。赤くなった目。そして、すぐに消えた。
「今の」
澪が言いかけた時、商店街の向こうから声がした。
「おい、君たち。こんな時間に何をしてる」
交番の相沢だった。傘を追っているうちに、和菓子屋からずいぶん離れていたらしい。雨の中、通行人も何人かこちらを見ている。
「今は退くべきです。境界の気配も薄れました」
アヴァロンが低く言う。灯里は写真館を見つめたまま、ノートを抱きしめた。
「明日、調べましょう。ミシマ写真館と、宮下こよみさんの昔のこと」
玄弥はうなずいた。雨傘はもう動かない。けれど、写真館の古いガラスには、まだ雨の日の誰かの約束が残っている気がした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
玄弥は力に頼らず、咲良自身の「ごめんなさい」を支えることで逆流を止めました。
ちゃんと止まれた――その小さな選択を、澪は誰よりも喜んでいます。
けれど境界の異変は止まらず、雨の商店街には、誰かを待ち続ける壊れたビニール傘のモンスターが現れます。
次章では、この傘に残った約束と、雨に流れきらなかった後悔――そして玄弥自身の「逃げ癖」を追っていきます。




