第7章 雨の日の写真館
昨夜の壊れたビニール傘が呼んだ名前は、「こよみちゃん」。
玄弥たちは和菓子屋の宮下こよみを訪ね、半世紀越しの「待ってたのに」の正体を知ります。
そして玄弥自身も、誰かに本音を言えず逃げ続けている自分に気づき始める章です。
翌日の放課後、玄弥たちは商店街の和菓子屋へ向かった。学校での噂は、さらに悪化していた。交差点の剣に選ばれたとか、見えない彼女がいるとか、昨日は商店街で壊れた傘を追いかけていたとか。最後の噂だけは、だいたい合っている。合っているのが、一番困る。
「無視」
白石澪は短く言った。
「無視できる量じゃないんだけど」
「できなくても、する」
「強い」
「玄弥が弱い」
「急に刺すな」
澪は玄弥の右手をちらりと見る。昨日、咲良を引き戻した時から、右手の熱は少し落ち着いていた。けれど、完全に消えたわけではない。朝、目覚ましより先に目が覚めるのも、自転車を漕いでも息が上がらないのも、もう三日続いている。便利だ、とは思えなかった。体が軽くなるたびに、その分だけ自分の輪郭が薄くなっていくような気がする。
「玄弥」
澪が言った。
「ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ」
「嘘」
「……ちょっとだけ嘘」
夜、誰もいない河川敷で右手の力を確かめていることは、言わなかった。どこまで動けるのか、どこで体が壊れるのか。誰にも見られたくなかったし、知られたら止められると分かっていた。澪はそれ以上聞かなかった。聞かないことが、少しだけ刺さった。
アヴァロンは玄弥の隣を歩きながら、商店街の奥を見ている。
「昨夜の雨傘は、ただの魔物ではありませんでした」
「分かるのか?」
「あれは、誰かを襲うために動いていたのではありません」
「待ってた」
澪が言った。アヴァロンはうなずく。
「はい。待つことそのものが、形を持っていました」
その言い方が、妙に胸に残った。
和菓子屋「宮下」の暖簾は、今日も静かに揺れていた。店先には豆大福とどら焼きが並び、奥からはあんこを煮る甘い匂いがする。ただ、昨日と違って、店の空気は少し重かった。宮下こよみは、玄弥たちを見ると小さくうなずいた。
「来ると思っていたよ」
その横で、咲良が店番用の椅子に座っている。赤いヘアピンは、ちゃんと髪に留まっていた。咲良は玄弥たちを見ると、少しだけ恥ずかしそうに頭を下げる。
「昨日は、ありがとう」
「こっちこそ、無事でよかった」
玄弥が言うと、咲良はヘアピンに触れた。
「おばあちゃんに、ごめんなさい言えた」
「言えたね」
宮下さんは咲良の頭を撫でる。そのやり取りだけで、昨日の光景が少しだけ報われた気がした。言えた、という言葉が、玄弥の胸の奥に小さく引っかかる。言えなかったものを抱えているのは、咲良だけではない気がした。
けれど、今日の目的はそれだけではない。榊原灯里が、分厚いノートを胸に抱えたまま一歩前に出た。
「宮下さん。昨日の雨傘のことで、お聞きしたいことがあります」
宮下さんは、少しだけ目を伏せた。
「こよみちゃん、だね」
灯里が息をのむ。
「聞こえたんですか」
「いいえ。でも、あなたたちの顔を見れば分かるよ」
宮下さんは店の奥へ視線を向ける。
「あの呼び方をする子は、一人しかいなかったから」
店の奥には、小さな木箱が置かれていた。宮下さんはそれを持ってきて、カウンターに置く。中には、古い写真が何枚も入っていた。白黒の写真、色あせた集合写真、雨に濡れた商店街を写した一枚。そして、ミシマ写真館の前で、二人の少女が一本の傘に入って笑っている写真。片方は、若い頃の宮下こよみ。もう片方は、少し背の高い、短い髪の少女で、傘の柄を持ち、こよみのほうへ少し傾けている。写真の中のこよみは、今の宮下さんからは想像できないほど照れくさそうに笑っていた。もう一人のほうは、笑顔がまっすぐだった。雨で前髪が額に張りついているのに、そんなことは少しも気にしていない顔。こよみの肩が濡れないよう、傘を自分の方ではなく、こよみの方へ寄せている。
「この子は」
玄弥が聞くと、宮下さんは写真を指で撫でた。
「雨宮千夏。私の幼なじみ」
雨宮。雨の宮。名前まで、昨日の傘に結びついているようだった。
「千夏はね、写真館の娘だったの」
宮下さんの声は、ゆっくりだった。
「明るくて、少し強引で、雨の日が好きな子だった。雨が降ると、傘を持って迎えに来るの。こよみちゃん、雨の写真を撮りに行こうって」
宮下さんは、少しだけ目を細めた。
「私は雨が好きじゃなかった。髪は広がるし、草履は濡れるし、店の前は滑るしね。でも千夏は、雨の日の町が一番きれいだって言うの」
写真館の娘らしく、千夏はいつも小さなカメラを首から下げていたという。雨粒のついた紫陽花、水たまりに映る商店街の看板、傘を差して笑う子どもたち。宮下さんは、そういうものを千夏に連れられて何度も見たらしい。
「千夏はよく、写真は時間を止めるんじゃなくて、あとで戻れる場所を作るんだって言っていた」
宮下さんは写真を見つめる。
「だから、私が嫌々ついていっても、最後にはいつも笑ってしまった」
「昨日の傘は、その子の」
澪が写真を見つめる。
「たぶんね」
宮下さんはうなずいた。
「でも、どうして今さら」
灯里が言いかけて、すぐに口を閉じた。宮下さんは少し笑う。
「遠慮しなくていいよ。昔話を聞きに来たんだろう」
「はい」
灯里は申し訳なさそうに頭を下げた。宮下さんは、雨の写真を見つめたまま続ける。
「中学三年の六月だった。千夏の家が、三島を離れることになったの。写真館を閉めて、親戚のいる町へ行くって」
写真の中の二人は笑っている。その笑顔が、今の話を知ると少しだけ痛く見えた。
「最後の日、千夏は私に言ったの。雨が降ったら、写真館の前で待ってる。最後に、二人で雨の写真を撮ろうって」
その時のことを思い出したのか、宮下さんは少しだけ唇を結んだ。
「千夏は、いつもの傘を持っていた。透明なビニール傘。あの頃はまだ珍しくてね、雨粒が傘の上を流れるのが見えるから好きだって言っていた」
玄弥の脳裏に、昨夜の壊れたビニール傘が浮かぶ。玄弥は息を止めた。待ってたのに。昨日の声がよみがえる。
「でも、その日」
宮下さんの指が、写真の端で止まる。
「私は行かなかった」
店の中が静かになる。咲良も黙って宮下さんを見ていた。
「祖母が倒れてね。店も家もばたばたしていた。もちろん、それは理由としては本当なんだけど」
宮下さんは小さく息を吐く。
「本当は、別れたくなかったの。会ったら泣いてしまうと思った。だから、行けなかった」
その日の雨音を、今でも覚えているという。店の奥で祖母の寝息を聞きながら、宮下さんは何度も時計を見た。写真館へ行かなければ。千夏が待っている。そう思うたびに、足が動かなくなった。行けば、千夏が本当にいなくなることを認めなければならない。だから、雨がやむまで店の奥で膝を抱えていた。雨がやんだ時、写真館の前にはもう誰もいなかった。
澪が唇を結ぶ。玄弥は、自分の胸に小さな重さが沈むのを感じた。会えば終わってしまうから、会わなかった。その理屈が、他人事に聞こえなかった。澪に本音を言えば、止められる。心配される。だから言わない。隠して、一人で確かめる。逃げているのは、玄弥も同じだった。
「千夏さんは」
聞いていいのか迷いながら、玄弥は言った。
「その後、会えたんですか」
宮下さんは首を横に振る。
「手紙は何度か来た。でも、返事を書けなかった。最初の一通に返せなかったら、次はもっと返せなくなってね」
宮下さんは木箱の底から、古い封筒の束を取り出した。角が擦り切れ、宛名のインクは少し薄くなっている。どの封筒にも、きちんとした字で「こよみちゃんへ」と書かれていた。
「最初の手紙には、雨の日の写真が入っていた。写真館の前で、千夏が一人で傘を差している写真」
宮下さんの声が、少しだけ揺れた。
「裏にね、書いてあったの」
宮下さんは封筒を開けずに、目を伏せる。
「待ってたのに、って」
ごめんね。その言葉が、店のどこかに積もっている気がした。
「ミシマ写真館は、そのあとすぐ閉まったんですか」
灯里がノートを開く。
「ええ。写真はほとんど整理されたけれど、店先には古い展示写真が残ったまま。今は親族の方が管理しているけれど、普段は開いていないね」
「昨夜の雨傘は、その約束に引き寄せられたのでしょう」
アヴァロンが静かに言うと、宮下さんはそちらへ顔を向けた。見えてはいない。けれど、そこに誰かがいることは感じているようだった。
「やっぱり、いるんだね。澪ちゃんが昨日から変な顔をしていたから」
「宮下さんまで」
澪が小さくうめく。
「年寄りは、見えないものに少し慣れているの」
宮下さんはそう言って笑った。
その時、店の窓に雨粒が当たった。ぽつ、ぽつ。昨日より弱い雨。けれど、その音に合わせて、木箱の中の写真が一枚だけ震えた。ミシマ写真館の前で、二人の少女が傘に入っている写真。写真の中の傘の影が、ゆっくり動く。
「写真、動いてる」
咲良が小さく息をのむ。写真の中で、千夏がこちらを向いた。笑っていない。雨に濡れた目で、こちらを見ている。そして、唇が動いた。
こよみちゃん。
宮下さんの顔がこわばった。写真の中の雨が、ぽつぽつとカウンターの上に落ち始める。ありえない。けれど、もう誰も「見間違い」とは言わなかった。
玄弥の右手が、熱を持ち始めた。昨日より早い。剣が「行け」と言っているみたいに、体の奥が勝手に前のめりになる。
玄弥は、いつものように、写真の中の千夏へ、手を伸ばしかけた。咲良の時のように、その想いに触れて、聞いてやれば――そう思った、その瞬間だった。
写真の中の雨が、ざっと、強くなった。千夏の目が、玄弥を見て、悲しそうに、けれど拒むように、細くなる。カウンターの上の水たまりが、ぶわっと広がって、隣にいた咲良の足元へ、舌のように伸びた。
「咲良、下がって!」
澪が、咲良を引き寄せる。玄弥は、慌てて手を引っ込めた。
「玄弥殿、いけません」
アヴァロンの声が、鋭かった。
「この想いは、あなたが聞いて鎮められるものではありません。千夏殿が待っているのは、見知らぬ誰かの理解ではない。たった一人――こよみ殿、あなただけです」
玄弥は、唇を噛んだ。聞けば、救える。そう信じて、ここまで来た。けれど今日のこれは、自分が触れようとするほど、こじれて、悪くなる。
玄弥は、燃える右手を、左手で握って抑えた。まだ、自分の出番じゃない。今日の主役は、自分じゃない。
「写真が、記憶の入口になってます」
灯里が震える声で言う。アヴァロンが剣に手をかけた。
「境界が開きます。……玄弥殿、おそらく今回は、誰かが入口を開けたままにしなければなりません」
「開けたまま?」
「記憶の中で約束を終わらせるには、時間がいります。境界は放っておけば閉じる。閉じれば、中の者は戻れません」
玄弥は写真の中の千夏を見た。傘を差し出したまま、十代で止まってしまった少女。その奥で、黒い王冠の影が一瞬だけ揺れる。千夏の声が、雨に混じった。待ってたのに。今度こそ。
玄弥は右手の熱を、もう抑えなかった。
写真の中の傘が、こちら側へ伸びてきた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
雨の日の約束を守れなかったこよみと、ずっと写真館の前で待ち続けた千夏。
その後悔は、澪に何も言えずにいる玄弥自身の姿とも、静かに重なります。
そして今回、玄弥が「聞いて鎮めよう」と手を伸ばすと、かえって境界が荒れ、咲良が危うくなりました。聞けば救える――その玄弥の必殺技が、初めて通じない相手です。この想いを終わらせられるのは、見知らぬ誰かの理解ではなく、約束を守れなかったこよみ自身だけ。
次章では、玄弥が聖剣の力で記憶の入口を支え、こよみが今度こそ傘の下へ向かいます。




