第5章 大社前の後輩
玄弥たちは赤いヘアピンの持ち主・咲良のもとへ。
言えなかった「ごめんなさい」と、町に残る記憶。
そして今回は、三島大社や土地の伝承に詳しい後輩・榊原灯里が登場し、水辺と境界のつながりが見えてきます。
和菓子屋の暖簾には、「宮下」と染め抜かれていた。夕方の光を受けた店先から、蒸した餅とあんこの甘い匂いが流れてくる。ガラスケースの中には、豆大福、どら焼き、季節外れの小さな桜餅が並んでいた。
玄弥は赤いヘアピンを握りしめた。この奥に、あの子がいる。そしてたぶん、言えなかった「ごめんなさい」も。
「入るよ」
白石澪が小声で言った。
「うん」
返事をしたものの、玄弥は一歩目を踏み出せなかった。怪物相手なら、怖くても体が勝手に動くことがある。けれど、人の後悔に触れに行くのは、それとは別の怖さがあった。
「言葉を返すのも、戦いです」
アヴァロンが玄弥の横で静かに言う。
「戦いにするなよ」
「では、選択です」
玄弥は少しだけ息を吐いた。
「そっちの方が、まだ怖い」
澪が暖簾をくぐる。
「すみません」
店の奥から、やわらかい声が返ってきた。
「はいはい、いらっしゃい」
出てきたのは、白髪を後ろでまとめた小柄な女性だった。年は六十代くらい。薄い紫色の割烹着を着ていて、手には布巾を持っている。
「あら、澪ちゃんじゃない」
「こんにちは、宮下さん」
澪が軽く頭を下げる。玄弥は驚いた。
「知り合い?」
「商店街の人はだいたい顔見知り」
「強いな、幼なじみネットワーク」
「普通でしょ」
「普通かな」
宮下さんは、玄弥の方を見て微笑んだ。
「あなたは伊勢崎さんちの玄弥くんね。小さい頃、お母さんと一緒に豆大福を買いに来てた」
「覚えてるんですか」
「商売柄ね。甘いものを買う人の顔は、忘れにくいの」
その言い方が穏やかで、玄弥は少しだけ肩の力が抜けた。けれど、ここに来た理由は和菓子ではない。玄弥は赤いヘアピンを出した。
「これ、ここにいる咲良ちゃんのものかもしれないって聞いて」
宮下さんの表情が、ほんの少し変わった。
「咲良の」
その声に、店の奥から小さな物音がした。棚の向こう、暖簾の陰。小学生くらいの女の子が、顔を半分だけ出している。髪は肩のあたりで切りそろえられ、右側だけヘアピンがないせいで少し乱れていた。
「咲良ちゃん?」
澪がやさしく声をかけると、女の子はびくっと肩を揺らし、すぐに引っ込もうとした。
「咲良。大丈夫よ」
宮下さんが静かに言う。咲良は少しだけ出てきた。玄弥は赤いヘアピンを見せる。
「これ、探してた?」
咲良の目が大きく開き、それからすぐに唇を噛んだ。
「……探してない」
小さな声だった。明らかに嘘だった。澪は何も言わない。玄弥も、責める言葉を飲み込んだ。昨日、見えたのだ。またなくしたの? ごめんなさい。言いたかったのに、喉の奥でつぶれてしまった言葉を。
「そっか」
玄弥はヘアピンをカウンターの上に置いた。
「じゃあ、落ちてたから置いていく」
「どこに」
咲良が顔を上げる。
「商店街の方。自動販売機の近く」
「そこ、昨日探した」
咲良の顔色が変わり、言ってから、はっと口を押さえた。
「探してたんだ」
澪が少しだけ笑う。
「……探してない」
「うん。そういうことにしとく」
宮下さんは何も言わず、咲良のそばに立った。咲良はヘアピンを見つめている。手を伸ばしたいのに、伸ばせない。そんな顔だった。
玄弥の右手が、わずかに熱を持つ。使えば、咲良の心へもっと踏み込めるのかもしれない。けれど玄弥は、手を握ってその熱を抑えた。ここで力に頼るのは、咲良のためというより、自分が早く楽になりたいだけな気がしたからだ。待つ、と決める。ヘアピンの赤が、夕方の光を受けて小さく揺れた。
その瞬間、店の奥の影が濃くなる。棚の下、包装紙の束の影、暖簾の裏。そこから小さな黒い手がのぞいた。昨日の影だ。いや、昨日より薄い。コンビニ袋もかぶっていない。ただ、咲良とヘアピンを交互に見ている。咲良には見えていない。宮下さんにも、たぶん見えていない。けれど澪は、玄弥の袖をつかんだ。
「いる」
小さな声。
「うん」
玄弥は答えた。
「害意は感じられませぬ。むしろ、見届けようとしている……そう見受けられます」
アヴァロンが剣の柄に手を添える。玄弥は咲良を見た。
「咲良ちゃん」
「何」
「これ、大事なものなんだよな」
咲良は黙った。
「それはね、咲良のお母さんが子どもの頃につけていたものなの」
宮下さんが静かに言うと、店の空気が少しだけ重くなる。咲良はうつむいた。
「お母さん、今は遠くで働いてるの。咲良はしばらく、うちにいるのよ。お母さんが忙しい間だけね」
宮下さんの声は変わらず穏やかだった。
「言わなくていい」
咲良が小さく言った。
「言わなくていいもん」
宮下さんは「そうね」とうなずいた。咲良の目に涙が浮かぶ。
「なくしたら、怒られると思った」
誰も口を挟まなかった。
「お母さんのだから、大事にしてって言われたのに。またなくしたって言われると思った。だから、探してないって言った」
咲良は唇を噛む。
「でも、本当は、探した」
小さな黒い影が、棚の下で少しだけ震えた。玄弥の胸に、また感情が流れ込む。返したい。泣かないで。怒らないで。でも、どう渡せばいいか分からない。それが咲良の気持ちなのか、影の気持ちなのか、もう区別がつかなかった。
玄弥はヘアピンを手に取り、咲良へ差し出した。
「怒られるかどうかは、俺には分からない。でも、返ってきたことは、本当だよ」
咲良は震える手でヘアピンを受け取った。その瞬間、棚の下の影がふわりとほどけ、黒い輪郭が小さな紙吹雪みたいに空気へ溶ける。けれど、完全に消える直前——影の奥に、またあれが見えた。黒い王冠と、その下で崩れていく何か。遠くで誰かが、まだ返せていない、と泣いていた。
玄弥は息をのむ。
「また、黒い王冠」
「見えた」
澪も小さくうなずいた。
「黒い王冠?」
宮下さんが二人を見て言う。玄弥は、しまった、と思った。ごまかそうとしたその時、店の入口で鈴が鳴った。
「すみません! 今、黒い王冠って言いましたか!」
勢いよく入ってきたのは、玄弥たちより少し年下に見える女子だった。制服は玄弥たちの中学校のもの。けれど学年章は一年生。髪はふわっと肩で跳ね、手には分厚いノートと三島大社のパンフレットを抱えている。目が、ありえないものを見つけた研究者みたいに輝いていた。
「ごめんなさい、立ち聞きするつもりはなかったんです。大社前の剣のことを調べていて、宮下さんに昔の商店街の話を聞きに来たんですけど。でも黒い王冠って、今朝、三島大社の古い資料で見た図像と似ているかもしれなくて。あ、違ったらすみません。でも異国の聖剣が大社前に刺さっている時点で、もう違うとか言ってる場合じゃないというか」
一息でそこまで言った。玄弥は圧倒され、澪も少し引いている。アヴァロンだけが、真剣な顔になった。
「あなたは」
女子は玄弥の横、つまりアヴァロンがいるはずの場所を、正確に見た。
「そこに、誰かいますよね」
店の中が静かになった。女子は慌てて頭を下げる。
「あ、すみません。私、榊原灯里です。一年です。三島大社とか、土地の伝承とか、そういうのが好きで」
「また濃い子が来た」
澪が小さくつぶやいた。玄弥は同意しかけて、やめた。
灯里はノートを開き、ページを見せる。そこには手描きの地図があった。三島大社前の交差点、商店街、源兵衛川。そして、その三つを結ぶように青い線が引かれている。
「三島の水辺って、古い記憶が流れ着く場所なんです」
灯里の声が、急に静かになった。
「もし、あの剣が本当に世界の境目に関わっているなら、異世界から何かが来るだけじゃなくて、こっちの記憶や人も、向こうへ流れるかもしれません」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、店の奥で咲良が小さく声を上げた。
「おばあちゃん」
宮下さんが振り返る。咲良の足元に、水たまりのような光が広がっていた。店の床に、水などない。けれど光はゆらゆらと揺れ、その中に赤い土の道と、見たことのない森が映っている。咲良の片足が、光の中へ沈みかけていた。
「咲良!」
玄弥が手を伸ばすと、澪も、宮下さんも、灯里も同時に動いた。
「境界が逆流しています!」
アヴァロンが叫ぶ。玄弥の右手が熱くなる。咲良は泣きそうな顔で、赤いヘアピンを握っていた。さっき返ってきたばかりのものを、もう二度となくすまいとするみたいに。玄弥はその手をつかんだ。
光の奥から、知らない風が吹いた。土と、鉄と、遠い戦場の匂い。そして、誰かの声が聞こえた。
まだ、返せていない。
水たまりの光が、店の床いっぱいに広がっていく。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
赤いヘアピンは咲良のもとへ戻りました。
けれど、黒い王冠の影はまだ消えず、咲良の足元には異世界への入口が広がり始めます。
三島の水は、流したつもりでも流れきらないものを、町の下でずっとつないでいるのかもしれません。
次章では、異世界から来るだけではなく、三島側の人や記憶が向こうへ流れる「逆流」と、雨の商店街に現れるモンスターを描きます。




