第56章 七禍卿大戦
四つの旗が、ついに同じ夜明けの下に並びます。七つの禁術拠点を、同時に落とす最終作戦。それぞれの塔には、七禍卿という主がいて、四王国の誰かと因縁を抱えています。けれど玄弥が出す号令は「敵を斬れ」ではなく、「味方を迎えに行け」でした。塔に縛られた捕虜を、一人ずつ解き放つ。黒い雲が、初めて割れます。
夜明け前の赤い荒野に、四つの旗が並んで立っていた。
白角。鋼壁。翡翠翼。蒼帆。まだ暗い空の下で、それぞれの色が風にはためいている。旗の下に、四王国の軍勢が集まっていた。鎧巨兵がずらりと並ぶ。剣を研ぐ音。盾を打ちつける音。砲を調整する音。そして、押し殺した息づかい。
玄弥は、そのいちばん前に立っていた。
エクスカリバーを握って。隣には四ツ辻号。どこの国にも属さない、白い機体。その肩にカイがしゃがんでいる。ガレスは剣を背に負い、アヴァロンは地図を握っていた。みんな、同じほうを見ていた。
地平線の向こう。黒い雲に覆われた魔王城。その手前に、七つの塔がそびえている。
「七つの、禁術拠点だ」アヴァロンが地図を指した。「左から、転送。呪詛。記憶改変。死者の兵士化。鎧巨兵の汚染。未来視。結界破壊。――この七つが、魔王城の力をぜんぶ支えている。一つでも残れば、術が再生する」
「それぞれに」灯里がタブレットの向こうから声を送ってきた。記憶鉱の脈を通して、途切れ途切れに。「主が、います。七禍卿。黒冠魔導団の頂点の七人。――もとは、四王国の宮廷魔道士や、技師だった人たちです。魔王に集まる記憶を利用して、禁術を使ってます」
「もとは味方だった、ってことか」玄弥はつぶやいた。
「だから」灯里の声が言った。「七つの塔は、ただの的じゃないです。先輩。一人ひとり、顔があって。名前があって。誰かと因縁が、ある。――それを、忘れないでください」
玄弥はうなずいた。
「だから、同時に落とす」ガレスが言った。「七つ、いっぺんに」
「無茶だよな」カイが肩の上で、握っていたスパナをくるりと回した。「ほんとに」
「無茶だ」玄弥は笑った。「でも、やる」
空が、わずかに白み始めた。
玄弥は振り返って、後ろにずらりと並んだ軍勢を見た。アルディアの白角騎士団。グランヴェルの鋼壁重騎団。セレノアの翡翠翼騎団。レイグラスの蒼帆魔導艦隊。――けれど、もうその並びは国ごとではなかった。混ざっている。白い装甲の隣に重い盾、その隣に軽い翼、その隣に魔導の砲。七つの混成部隊に組み直されて。
「みんな」玄弥は声を張った。
軍勢が静まる。
「俺、うまい演説とか、できない。ごめん。寝坊ばっかりの中学生だし。剣しか能がないし。――でも、一つだけ言いたいことがある」
玄弥は七つの塔を指さした。
「あの塔には、捕虜がつながれてる。記憶を削られた人たちが。子どももいる。お母さんもいる。誰かの弟も、いる。――俺たちは、塔を壊しに行くんじゃない。あの人たちを、迎えに行くんだ。塔は、ついでに崩れるだけだ」
軍勢がざわついた。
「それに、あの塔のてっぺんにいる、七禍卿。あいつらだって、もとはお前らの国の誰かだ。記録官。城門守。治癒術師。鎧匠。整備長。航路術師。占術師。――どこかで道を踏み外して、今、敵になってる。だから」
玄弥はエクスカリバーを握り直した。
「殺すんじゃない。縛りを解くんだ。あいつらが術を使えるのは、捕虜の記憶を燃やしてるからだ。燃料を抜けば、火は消える。捕虜を助ければ、七禍卿はただの魔道士に戻る。だから、まず捕虜だ。敵じゃなくて、味方を増やすんだ」
しばらく、誰も口をきかなかった。
それから、グランヴェルの老兵がぼそりと言った。
「妙な総大将だ」老兵は苦笑して、兜の庇をひと撫でした。「敵を斬れ、じゃなくて。味方を迎えに行け、と言う」
「総大将じゃないけどな」玄弥は寝癖の浮いた後ろ髪を、ぐしゃりとつかんだ。
軍勢のあちこちから、低い笑いがこぼれた。張りつめていた空気が、ほんの少しゆるむ。それでいい、と玄弥は思った。少し笑えて、最後に泣ける。そういうのがいいって――いつだったか、誰かが言っていた気がする。
地平線が、燃えた。
赤い太陽が、雲海の隙間から昇った。
「行くぞ」アヴァロンが剣を抜いた。「七つ、同時だ。合図は――この光だ」
アヴァロンが玄弥を見る。玄弥はうなずいて、エクスカリバーを空へ掲げた。刃が朝の光を受けて、白く燃えた。その光が、荒野のすみずみまで届く。七つの混成部隊が、いっせいに動き出した。
戦が、始まった。
*
転送の塔は、いちばん早く決した。
てっぺんに立っていたのは、転跳卿。元レイグラスの航路術師。雲海の航路を読んで、船を導いた男だ。けれど今は、誓気の向きをねじ曲げて、空間そのものを跳ばす。その専用機――跳ね門が、地面を歪ませた。帆と錨を思わせる、ひしゃげた輪郭。全身に小さな門がいくつも開いては閉じ、残像のように、いくつもの場所に同時に立って見える。どれが本物か分からない。地が波打ち、白角の騎兵が消え、別の場所に現れる。
「歪みを見てから動くな」ガレスが部下に短く言った。「見る前に駆け抜けろ」
「白角突」
ガレスの機体が、全身を一本の角に変えた。研ぎ澄ました一念だけで、転送の隙間を縫って走る。歪みが追いつく前に、一点を貫いて。ガレスの剣が、跳ね門の根もとで黒い鎖を断った。転送陣の要に縛りつけられていた若者が、水晶ごと割れた殻から転がり出る。燃料を失って、跳ね門がぐらりと傾いた。
「行け」ガレスは、後続の混成部隊へ顎をしゃくった。「捕虜は確保した。次の塔へ回れ」
長い口上は、なかった。ガレスは敵に語りもしなかった。ただ、傾いた跳ね門が影の中へ跳んで消える、その一瞬。フードの奥の横顔が、迷ったように揺れたのを、ガレスは見た。見て、何も言わず、剣を背に戻した。戦場で立ち止まる暇は、一秒もなかった。白角は、もう次の塔へ駆けていた。
*
死者の兵士化の塔は、玄弥の手を借りなかった。
塔の根もとから湧き出していたのは、死者の軍勢だ。死んだ兵が操られ、味方へ襲いかかる。終わりのない波。それを操っていたのは、屍兵卿。元グランヴェルの鎧匠。かつて戦死者の兜や、折れた剣や、へこんだ鎧を、丁寧に磨いて遺族へ返していた男だった。その専用機――亡鋼は、戦死者の遺品を継ぎ接ぎした、灰色の巨体。歩く墓標のような。背には墓標がわりの剣が何本も突き立って、動くたびに、鎖の軋みと、弔いの鐘のような響きがこぼれる。その亡鋼が、墓を暴くように、死者を起こし続けていた。
「同郷か」屍兵卿の声が、亡鋼の胸から響いた。「鋼壁の将よ。この軍勢の一人ひとりが、かつてお前の国を守って死んだ兵だ。さあ、斬れるか。お前の戦友を」
鋼壁の将は、死者の波の中に、見覚えのある顔を見つけた。何年も前に城門で共に戦って、倒れた男だ。将の喉が、低く鳴った。
「一歩も引くな。だが、斬るな。こいつらは、まだ眠っていないだけだ。連環誓気、繋げ。隣の誓いに、肩を貸せ」
「鋼壁陣」
将は盾をずらりと並べた。一機の想いを鎖のように次へつないで、動く城壁を作り、死者の波を受け止める。斬らずに。押し返さずに。ただ、堰き止めた。そして一体ずつ、その亡骸の額に刻まれた紋を読んだ。鎧匠の刻んだ、名を。
「ロウェン。お前、城門で俺をかばって死んだ。お前の母親は、今もお前の椅子を空けてる。――もう、いい。眠れ。ちゃんと弔ってやる」
名を呼ばれた死者が、動きを止めた。額の黒い紋が、薄れて、崩れて、砂になる。誓気の縛りがほどけて、死者がようやく眠りにつく。一体。また一体。鋼壁の兵たちは、それを見て悟った。斬るのではない。名を返し、弔うのだ、と。将に倣って、兵の一人ひとりが死者の額へ顔を寄せ、名を読み、低く弔いの言葉を継いでいく。亡鋼が起こすそばから、鋼壁の重騎団が、片端から眠らせていった。
屍兵卿の燃料が、尽きていく。死者の軍勢が次々と眠りにつくのを、屍兵卿はただ亡鋼の中から見ていた。やがて、亡鋼が後退した。けれど、その足取りはどこか重かった。自分が磨いて返したはずの骨を、自分で燃やした、男の。最後の死者を弔い終えた将は、亡鋼を見上げて、ひとことだけ吐いた。
「鎧の奥に、人がいる。お前が、いちばん知っていたはずだ」
亡鋼が、軋んだ。返事はなかった。
*
呪詛の塔では、言葉は、通じなかった。
塔のてっぺんから垂れ込めていたのは、呪いの黒い雲。触れた者の心を蝕み、絶望をささやく。それを垂れ流していたのは、呪森卿。元セレノアの治癒術師。かつて湖上の都市で、病める者を癒やしていた女だ。その専用機――腐ノ蔓は、もとは翡翠色だったろう装甲が、腐った黒緑に変わり果てていた。節々から黒い蔓と根が無数に伸びて、地へ、雲へ、食い込んでいく。胸の、薬瓶のような器官から、紫の靄を吐いた。その腐ノ蔓が、森も雲も、すべてを腐らせていた。
「あんた、セレノアの治癒術師だろう」翡翠翼の隊長が空で叫んだ。「駿府の森を呪ったのも、あんただ。一度、核を撃たれて。それでも生き延びて。――まだ、やるのか」
「生き延びたのではない」腐ノ蔓の奥から、呪森卿の声がした。乾いて、かすれて。「あの森と共に、私も半分死んだ。死にかけの治癒術師にできることは、もう呪いだけだ。癒やせぬのなら、せめてみんなを、私と同じところまで引きずり込む」
「させない。雲の中に入るな。上から、風を起こせ。雲を吹き散らせ。風の記憶を思い出せ」
「翠翼旋」
無数の翼がいっせいにはばたいて、旋回した。空を飛んだ記憶を誓気にして、舞いながら薙ぐ。風が生まれた。呪いの雲が千切れて、流れていく。その向こうに――呪詛の塔のてっぺんで、鎖につながれた老婆が見えた。記憶を吸われ、呪いの源にされていた、ひとりの老婆が。
隊長は急降下した。鎖をめがけて。翡翠の刃で、黒い縛りを断つ。老婆が解き放たれた。とたんに呪いの雲が力を失い、薄れていく。
「あんたがほんとうに呪いたかったのは、世界じゃない。自分だろう」隊長は腐ノ蔓を見上げた。「誰も救えなかった、自分を。――でも、それを他人になすりつけるな。あんたはまだ治癒術師だ。半分、死んでても」
腐ノ蔓が、笑った。乾いた、ひび割れた笑いだった。
「説教か」呪森卿は嗤った。「やめておけ。私はもう、戻らぬ。お前の言葉は一つも、私には届かぬ。――だが、燃料を断ったな。それは認める。捕虜は持っていけ。私には、もう、用がない」
腐ノ蔓は蔓を引いて、影の中へ退いた。改心の素ぶりも、迷いの横顔もなかった。最後まで嗤って、雲ごと消えた。残ったのは、解き放たれた老婆ひとりと、まだ薄く漂う紫の靄だけだった。隊長は、その靄をしばらく見上げていた。届かなかった、という手応えだけが、胸に残った。それでも、老婆は助かった。今はそれで、いいことにした。
*
結界破壊の塔は、語らずに、断たれた。
その塔だけは、ぶ厚い結界に守られていた。砲弾がはじかれる。何度も。守っていたのは、断界卿。元アルディアの城門守。かつて城の結界を守り抜いた男だ。けれど今は、守る術を裏返して、結界を破る側に回っていた。その専用機――砕門は、割れた門扉と閂を継ぎ合わせたような巨体。両腕がまるごと、巨大な破城槌になっている。背には、こじ開けた門の蝶番がいくつも、鎖でぶら下がっていた。一歩進むごとに、空間に細い亀裂が走る。その砕門が、結界を編んでは壊し、また編んだ。
「狙いを変えろ」提督が言った。冷静に。「塔そのものじゃない。結界の要だ。継ぎ目を撃て。揺らげば崩れる。――どんな城門にも、蝶番がある。そこがいちばんもろい。満帆の誓気、束ねろ。全艦、想いを一つに」
「蒼帆斉射」
全艦の誓気を一束にして、魔導の砲がいっせいに火を噴いた。結界の継ぎ目をめがけて。一発。二発。三発。結界がひび割れた。光が漏れる。中から――結界を編まされていた、子どもたちの悲鳴が聞こえた。
提督は、説教をしなかった。子どもの悲鳴を聞いた瞬間、迷いが消えた。
「あの蝶番だ」提督は鋭く指した。砕門の背で揺れる、こじ開けられた門の蝶番のひとつ。結界の編み目が、そこへ集まっていた。「あれが、術の要を兼ねている。撃ち落とせ。全艦、同じ一点へ」
斉射が、蝶番の鎖を撃ち砕いた。鎖が断たれた瞬間、砕門が編んでいた結界が、ほどけて散った。子どもたちが転がり出る。術の機構そのものが、物理的に断たれて、止まった。砕門は、もう結界を編み直せなかった。
断界卿は、何も言わなかった。提督も、何も問わなかった。砕門は、機能を失った巨腕を引きずるようにして、背を向けた。割れた門扉のような巨体が、軋みながら影へ沈んでいく。その去り際、装甲の隙間から、長い息が漏れた。ため息のような、ものが。それきり、砕門は語らず、戦場から消えた。提督は砲を下ろし、解放された子どもたちを後方へ送るよう、低く命じただけだった。
*
記憶改変の塔へ、アヴァロンが向かった。
その塔のてっぺんにいたのは、奪名卿。元アルディアの記録官。かつて王国の歴史と、人々の名を書き留めていた男だ。けれど今は、その記録を裏返して、人の名を奪う。その専用機――無名は、のっぺりと顔のない、つるりとした白い機体だった。装甲の一面に、削り取られて消えた無数の名の刻み跡。どこにも紋章がない。鏡のようにまわりを映すのに、自分の姿だけは、どこにも映らなかった。その無名が、塔のまわりに、名を失った人々を立たせている。誰でもなくなった、影を。
「記録の一族か」奪名卿が、無名の上から笑った。「アヴァロン。聖剣の記録係。お前と私は同じだ。名を書き留める者。だが、私は気づいたのだ。書き留めるより、奪うほうがずっと強いと。名を奪えば、その者はもう、誰でもなくなる」
「ちがう」アヴァロンは剣を構えた。けれど、その目はどこか悲しげだった。「記録するのは、奪うためじゃない。忘れないためだ。あなたは、それを知っていたはずの人だ。三島で一度、敗れて。それでも、まだ」
「敗れてなお、私はここにいる」奪名卿が言った。「名を奪う術がある限り、私は消えぬ」
「では、呼び返すまでだ」
アヴァロンは、無名のまわりに立つ名なき影へ、一人ずつ名を呼んだ。記録の一族が覚えていた、名を。
「ヘンリク。鍛冶屋の三男。エルザ。機織りの娘。トビアス。羊飼い。ニーナ。井戸端の歌うたい――」
名を呼ばれるたびに、影がわれに返った。自分が誰か、思い出した。名なき影が一人、また一人、人に戻っていく。そのたびに、奪名卿の無名が足場を失った。名を奪う術は、奪われた者がいて初めて立つ。呼び返されれば、その足場は崩れる。
「やめろ」奪名卿が叫んだ。「やめろ。呼ぶな。私の術が」
「あなたの名前は」アヴァロンは最後に言った。静かに。「私は記録で知っている。あなたにも名前があった。記録官になる前の。――いつか、それも呼んでやれる日が、来るといい」
奪名卿は無名ごと後退した。けれど、その足取りは。名を呼び返されていく人々の声に、追い立てられるように、乱れていた。
*
鎧巨兵の汚染の塔へ、カイが四ツ辻号で向かった。
その塔の根もとに立っていたのは、蝕鎧卿。元グランヴェルの整備長。鎧巨兵を、誰よりも知る男だ。その専用機――黒錆は、整備機ゆえに、蜘蛛のように無数の整備腕を生やしていた。本来は精巧で、美しい、職人の機体だったろうに。今は、自ら錆びさせたような異形に成り果てて。触れた装甲が黒い錆に侵食され、その錆が、隣の機へ、また隣の機へと伝染していく。その黒錆が、近くの鎧巨兵を片端から汚染していた。誓気を腐らせ、乗り手の心を機体に吸わせ、味方を化け物に変えていく。
「カイ」黒錆の奥から、声がした。低く、懐かしい声が。「大きくなったな」
四ツ辻号の操縦槽で、カイの手が止まった。
「……師匠」カイは、握っていた操縦桿を、ぎゅっと握り直した。声が震えた。「あんた。蝕鎧卿に、なってたのか」
「ああ。お前を拾って、整備を教えた、私だ。覚えているか。お前が初めて、関節を組んだ日。下手くそで。けれど、楽しそうだった」
カイの胸が、軋んだ。家族の記憶を奪われた、難民の少年。その空っぽになった手に、最初に工具を握らせてくれた男。師と慕った男。それが――。
「あんたが」カイは絞り出した。「おれの機体を奪ったのか。あの最後の日。おれの組んだ機体を横取りして。おれを難民に突き落としたのは」
「そうだ」蝕鎧卿は、あっさり認めた。「お前の才能が惜しかった。だから機体を奪い、お前を捨てた。――私はもう、人を整備する側じゃない。汚染する側だ。さあ、カイ。お前もこちらへ来い。お前の四ツ辻号。よくできている。私がもっと強くしてやる。黒錆で」
「断る」カイは言った。
「なぜだ」
「機体は、強くするために組むんじゃない。誰かと隣に立つために組むんだ。――あんたに教わったことだ。最初は。あんた、ほんとは知ってる。忘れてるだけだ」
四ツ辻号が、黒錆に組みついた。
けれどカイは、斬らなかった。殴らなかった。代わりに、四ツ辻号の整備腕を伸ばして、黒錆の装甲の継ぎ目に、指を差し込んだ。
「玄弥」カイは剣のつながりへ叫んだ。「この決着は、おれがつける。これは、おれと師匠の話だ」
「分かった。でも、一人じゃないからな。俺、聞いてるから」
「ああ」カイはうなずいた。「それでいい」
カイは、黒錆の内部を読んだ。整備長に教わった手つきで。誓気がどこで腐っているか。どこの配線が汚染を広げているか。指先でたどって、組み替えていく。斬るのではなく。止めるのでもなく。直すように。
「師匠。あんた、ここの誓気の回路、逆につないでる。腐るに決まってる。――昔、おれに言ったろ。誓気は生き物だって。無理にねじ曲げたら、いつか自分が呑まれるって」
「……黙れ」蝕鎧卿の声が、揺れた。
「黙らない」カイは続けた。手を止めずに。「あんたは、おれの師匠だ。最低な裏切り者だけど。でも、整備の腕だけは本物だった。おれが今、機体を組めるのは、あんたのおかげだ。それは嘘じゃない。――だから、戻ってこい。汚染する整備じゃなくて。誰かと隣に立つ、整備に」
黒錆の汚染が、少しずつ止まっていく。カイの指が組み替えた回路から、腐った誓気がほどけて、流れを変えていった。けれど――蝕鎧卿、本人の心までは、まだ届かなかった。
「お前に、私が止められると思うな。私はもう、戻れぬ。戻る場所などない」
蝕鎧卿は、黒錆ごと影の中へ退いた。けれど、その機体の汚染は止まっていた。カイが組み替えたぶんだけ、広がるのをやめていた。
カイは操縦槽の中で、しばらく動けなかった。油のついた手の甲で、目もとを乱暴にこすった。
「玄弥。まだ、終わってない。あいつ、逃げた。でも――おれ、決めた。次に会ったら、今度こそ止める。斬るんじゃなくて。直す。あの黒錆を、ぜんぶ」
「うん」玄弥の声が言った。「お前なら、できる」
*
未来視の塔へ、玄弥が四ツ辻号の肩に戻って向かった。
その塔のてっぺんにいたのは、視淵卿。元レイグラスの占術師。かつて星を読んで、人々の明日を占った男だ。けれど今は、偽りの未来を見せる。その専用機――百眼が、塔じゅうに無数の眼を開いて、玄弥の行く先に、絶望の幻を映していた。瞳のひとつひとつが、別々の、ありえた未来を映している。そのまわりを、いくつもの占星の環が、ゆっくりと回っていた。
「来たな、伊勢崎玄弥」視淵卿の声が、百眼の奥から響いた。「覚えているか。お前に偽りの未来を見せたのは、この私だ。二度。お前が剣を折られ、仲間が死ぬ未来を。お前はあれを信じて、苦しんだ」
「覚えてる。あんたか。あの嫌な夢を、見せたの」
「夢ではない」視淵卿が言った。「あれも未来の一つだ。私はただ、起こりうる未来を見せただけ。さあ、もう一度見せてやろう。お前のいちばん恐れる未来を」
百眼の眼が、いっせいに開いた。
玄弥のまわりに、幻が広がった。崩れる三島。死んだ澪。消えた灯里。泣いている凪人。そして――星を数えながら迎えを待ち続けて、誰も来ないまま、ひとりで消えていく、大河の姿が。
「やめろ」玄弥はつぶやいた。膝が震えた。「それは、嘘だ」
「嘘ではない」視淵卿がささやいた。「お前が楔を解こうとすれば、釣り合いが崩れる。誰かが消える。それがお前の選んだ未来だ。さあ、絶望しろ。お前の足は、もう動かぬ」
玄弥は目をつぶった。奥歯を、ぐっと噛んだ。
幻の大河が、星を数えていた。一つ。二つ。三つ。――けれど。玄弥は気づいた。その幻の中の大河は、「おそいよ、お兄ちゃん」と言わない。星を数えるとき、大河はいつも、その口癖を言う。なのに、この幻の大河は、言わない。
「ちがう。これ、大河じゃない」玄弥は目を開けた。
「なに」視淵卿の百眼が、ざわりと揺れた。
「大河は、星を数えるとき、必ず言うんだ。おそいよ、お兄ちゃん、って。文句、言いながら、待ってる。けど、この幻の大河は、何も言わない。黙って消えていくだけだ。――あんた、大河を知らないんだ。だから、本物にできなかった。これは、あんたの作った偽物だ」
幻に、ひびが入った。
玄弥は、幻の中にいない誰かの名を呼んだ。視淵卿が決して知らない、名を。
「大河。咲良。こよみさん。味噌汁のにおいの、お兄さん。駿府で助けた子。――あんたの未来の中に、この子たちはいない。あんたが見えてないからだ。未来を見るなら、ちゃんと見ろよ。一人、一人。生きてる人を」
百眼の眼が、次々と割れた。
偽りの未来が、崩れていく。視淵卿は未来を見る占術師だった。けれど、その占いにはいつも穴があった。一人ひとりの暮らしを、口癖を、笑い方を。見ていなかった。だから、玄弥には勝てなかった。玄弥はいつも、それを見ていたから。
「なぜだ」視淵卿がうめいた。百眼が崩れ落ちていく。「私は未来を見ていた。なのに、なぜ、お前の未来だけ、読めぬ」
「未来なんて、決まってないからだよ」玄弥は、エクスカリバーで、百眼をつなぐ黒い鎖を断った。塔の燃料にされていた、占いの巫女が解き放たれる。「あんたが見せた未来も、俺が変える。みんなで変える。――だから、あんたの占いは外れるんだ。いつも」
視淵卿は百眼ごと、影に退いた。最後に、フードの奥で。その無数の眼が、初めて、未来ではない今を。玄弥の顔を、まっすぐ見た気がした。
*
戦は、半日続いた。
七つの塔が、一つずつ崩れていった。捕虜が解放されるたびに。術の燃料が断たれるたびに。塔が傾き、崩れ、砂塵を上げて倒れた。決着の形は、塔ごとに、てんでばらばらだった。ガレスは語らずに駆け抜け、鋼壁の兵は死者の名をひとつずつ弔い、提督は結界の蝶番を撃ち落とし、呪森卿は嗤いながら消えていった。アヴァロンは名を呼び返し、カイは機体を直し、玄弥は偽りの未来を見破った。一つとして、同じ落とし方はなかった。
七禍卿は、最後まで本人を討たせなかった。彼らは術を使うだけで、自分の手は汚さない。捕虜の記憶が燃料だった。その燃料が断たれたとき、彼らはそれぞれの機体とともに、影の中へ退いていった。次の手を打つために。改心した者もいなかった。けれど、玄弥たちが奪い返したものは、確かに残った。塔の影から、解放された人々が、よろめきながら歩いてくる。
「逃がしたな」カイが、四ツ辻号の装甲を、こつ、と拳の腹で叩いた。「七人とも」
「うん。でも、捕虜は、ぜんぶ取り返した」玄弥はうなずいた。「それで、十分だ。あいつらを倒すことより、あの人たちを迎えに来たんだから。――な」
最後の塔――結界破壊の塔が崩れたとき。
空が、鳴った。
魔王城を覆っていた黒い雲が、初めて割れた。
「見ろ」アヴァロンが空を指した。「雲が」
ぶ厚い黒い雲に、亀裂が走った。そこから光が差す。久しく誰も見ていなかった赤い空が、その向こうにのぞいた。七つの禁術が断たれて、魔王城の守りが、初めてほどけた。
軍勢から、歓声が上がった。
白角の騎兵が。鋼壁の重兵が。翡翠翼の空兵が。蒼帆の艦兵が。声を上げた。そして、その輪の中に。たった今、解放された捕虜たちもいた。村人。老婆。子ども。若者。記憶を取り戻した人々が、歓声の一部になっていた。
敵が、味方になった。
玄弥はそれを見て、胸の奥が詰まった。鼻の奥が、つんとした。
「やったな、玄弥」カイが四ツ辻号から降りてきた。油まみれの顔で。けれど、笑っていた。「七つ、ぜんぶ落ちた」
「うん。でも――まだ、終わってない」
玄弥は、割れた雲の向こうを見た。
魔王城が、そこにあった。黒い、骨の城。雲が晴れて、初めてその全貌が見えた。そして、そのいちばん奥に。かすかな気配があった。あの孤独。あの底冷えする寂しさ。名を忘れた、楔の気配。
「あいつが、まだ、いる」玄弥はつぶやいた。
『玄弥』エクスが言った。『七つの塔は落ちた。だが、魔王本人は無傷だ。そして――黒冠魔導団は、追い詰められた。追い詰められた鼠は、何をするか分からん。気を抜くな』
「分かってる」玄弥は剣を握り直した。
夕日が、赤い荒野を染めていた。
崩れた七つの塔の向こうで。割れた黒い雲の奥で。魔王城が待っていた。長い戦いの、最後の扉が。ようやく、その姿を見せ始めていた。
「あと、少しだ」玄弥は言った。「みんな。あと少しで終わる。大河を迎えに行ける。家に帰れる。――だから、もうひと踏ん張りだ」
軍勢が、うなずいた。
四つの旗が、夕日の中ではためいた。割れた雲の向こうへ。最後の戦場へ。向かって。
けれど、玄弥はまだ知らなかった。
追い詰められた黒冠魔導団が、最後に何をしようとしているか。逃げ延びた七禍卿が、今度は互いを材料にし始めることを。王国じゅうの住民から、記憶を一度に奪う、そのおぞましい企てを。玄弥がそれを知るのは、次の夜明けのことだった。
読んでくださり、ありがとうございます。
いよいよ「結」、最終アークの幕開けです。総力戦の章ですが、私が大事にしたのは、派手な戦闘そのものではなく、玄弥の戦い方が最後まで変わらないこと。七禍卿本人は狙わない。術の源である捕虜の記憶を解放して、燃料を断つ。斬るのではなく、味方を増やす。第一章で迷子のモンスターに「帰ろう」と言った、あの少年のままです。
今回いちばん腕を入れたのは、七禍卿を「顔の見える七人」にしたことでした。転跳卿は元航路術師、屍兵卿は元鎧匠、呪森卿は元治癒術師、断界卿は元城門守、奪名卿は元記録官、視淵卿は元占術師。そして蝕鎧卿は――カイのかつての師。七つの塔に、七つの対決を置き、当てる味方も一人ずつ変えました。ガレスは速さで、鋼壁の将は弔いで、翡翠翼は風で、蒼帆は継ぎ目を、アヴァロンは名を呼び返し、玄弥は偽りの未来を大河の口癖で破る。決め手をぜんぶ変えたのは、敵を「ただの的」にしたくなかったからです。
四つの軍団を、国ごとではなく混成部隊に組み替えたのも、この物語の芯のためでした。白角の速さ、鋼壁の堅さ、翡翠翼の翼、蒼帆の砲。一つでは足りないものを、混ぜて補い合う。誰か一人に、誰か一国に、背負わせない。
解放された捕虜たちが、そのまま歓声の輪に加わる場面を、いちばん書きたくて書きました。敵が、味方になる。割れた黒い雲の向こうに、ようやく魔王城が姿を見せます。けれど、追い詰められた者ほど、何をするか分からない。次章、黒冠魔導団が最後の凶行に出ます。




