第54章 名前のない勇者
記憶牢で、玄弥は奪われていきます。名前を。三島を。仲間を。守りたかったものを。順番に、ひとつずつ。空っぽになれば、もう苦しまなくていい――魔王は、そう囁きます。そんな玄弥のもとへ、現代から一枚の絵が届きます。顔のない少年の隣に、名前も書かず立つ、仲間たちの絵が。
記憶牢は、暗かった。
玄弥は、そのまんなかに座らされていた。手足を黒い鎖で縛られて。まわりを黒冠魔導団が取り囲んでいる。フードの奥の顔は、見えない。ただ、無数の手が、玄弥のほうへ伸びていた。
そして、その奥に。
黒い王冠をいただいた影が、立っていた。魔王だった。けれど、近くで見ると、その姿は思っていたよりずっと小さかった。背を丸めて。疲れ果てた、ひとりの人間のように。
『始めよ』魔王が言った。
黒冠魔導団の手から、黒い光が、玄弥の頭へ伸びてきた。
「何をする気だ」玄弥はにらんだ。
『奪うのだ』魔王が静かに言った。『お前の記憶を。一つずつ。お前が、苦しまずにすむように』
黒い光が、玄弥のこめかみに触れた。
まず奪われたのは、名前だった。
「お前の名は」黒冠魔導団の一人が囁いた。「何だ」
「伊勢崎、玄弥」玄弥は答えた。「俺の名前は、伊勢崎玄弥。寝坊ばっかりの――」
その言葉が、するりと口からこぼれて、消えた。
「俺の名前は」玄弥はもう一度、言おうとした。「俺の名前は……」
出てこなかった。
たった今、言ったはずなのに。自分の名前が。指の間から、砂みたいにこぼれ落ちていく。玄弥は――いや、もう、その少年には、自分を呼ぶ言葉が、なかった。
『次は』
黒い光が、また伸びた。
「お前は、どこから来た」
「三島」少年は答えた。「源兵衛川の流れる。紫陽花の咲く。六月の――」
その町の名前も、消えた。源兵衛川も。紫陽花も。六月の曇り空も。コンビニの白い光も。横断歩道の白いしま模様も。ぜんぶ、黒い光に吸い込まれていく。少年の頭の中から。
『次は』
「お前を待っている者は、誰だ」
「澪」少年は必死にしがみついた。「白石澪。それから、灯里。凪人。大河。ガレス。アヴァロン。カイ。エクス。――俺の、仲間。俺の」
一人ずつ、名前が消えていった。澪が消えた。あの定点が。あんなに何度も呼んでくれた、声が。灯里も。凪人も。大河も。ガレスも。アヴァロンも。カイも。エクスも。少年の頭の中から、一人ずつ、いなくなっていった。
『最後に』
黒い光が、少年の胸へ伸びた。
「お前が、守りたかったものは、何だ」
「……っ」
少年は、答えようとした。
守りたかったもの。それが何だったのか。誰かを迎えに行くと、約束した。誰かを置いてきた。それが、ずっと胸に刺さっていた。けれど――その、誰か、が。もう思い出せなかった。星を数える子。だったか。横断歩道で名前を呼ぶ女の子。だったか。
全部ぼやけて、白く塗りつぶされていく。
少年の胸のまんなかに、ぽっかりと、穴が空いた。何かがあったはずの場所に、何もなくなった。痛みすら、消えていった。
静かだった。とても、静かだった。
痛みが消えると、世界はこんなにも軽くなるのか。少年はぼんやりと思った。誰も待っていない。誰も置いてきていない。守れなかった人もいない。だって、最初から、誰も覚えていないのだから。胸の穴は、もう痛まなかった。からっぽの穴は、ただ、からっぽだった。
けれど、そのからっぽの、いちばん底に。ひとつだけ、消えずに残っているものがあった。少年には、それが何なのか分からなかった。名前もない。顔もない。ただ――「立つ」という、感覚だけ。誰かの隣に。まっすぐ。何かを背にして。それだけが、なぜか奪われずに残っていた。砂の底に沈んだ、小さな石みたいに。
『これで、いい』
魔王が近づいてきた。少年の前に、しゃがんだ。その黒い王冠の奥から、疲れ果てた目がのぞいた。
『楽になっただろう』魔王は囁いた。やさしく。憐れむように。『何も覚えていなければ、もう、苦しまなくていい。誰を置いてきたかも。誰を守れなかったかも。誰に忘れられたかも。――ぜんぶ消えれば、痛みも消える。私は、お前を、苦しみから解放してやったのだ』
少年は、ぼんやりと魔王を見た。
「あんたは」少年はつぶやいた。「誰、だ」
『私か』魔王は寂しそうに笑った。『私も忘れた。自分の名を。お前と同じだ。だから――お前は、私になる。次の楔に。次の王級鎧巨兵の、核に。何も覚えていないお前なら、完璧な核になれる。誰もお前をつなぎ止めない。誰もお前を呼ばない。お前はただ、私の力になる。永遠に』
黒冠魔導団が、少年を巨大な機体のほうへ引きずっていった。
胸にいくつもの操縦槽を抱えた、王級鎧巨兵。その、いちばん奥の、空いた核へ。少年をはめ込もうとして。
その時。
記憶牢の地面が、ふいに、淡く光った。
地下のずっと深く。記憶鉱の脈のいちばん浅いところから。一枚の絵が、浮かび上がってきた。光の糸に引かれて。三島から。あの交差点から。声の道をたどって。
絵は、少年の足もとに、ふわりと落ちた。黒冠魔導団が、ざわついた。
少年は、ぼんやりと、その絵を見下ろした。
一枚のスケッチだった。
まんなかに、ひとりの少年が立っていた。けれど――その顔は白かった。描かれていなかった。のっぺりと。顔のない少年。
そして、そのまわりに、何人もの人が立っていた。女の子が、ひとり。すぐ隣に。後輩らしい女の子と、絵を描く少年。ランドセルを背負った子ども。武骨な騎士。記録係。ぶっきらぼうな少年。一振りの剣。――みんな、顔のない少年のまわりに、肩を並べて立っていた。
けれど、その誰の隣にも、名前は書かれていなかった。名札も。説明も。何も。ただ、立っていた。顔のない少年の隣に。名もなく。静かに。当たり前みたいに。
少年は、その絵を、じっと見た。
名前は、思い出せなかった。女の子の名前も。騎士の名前も。剣の名前も。自分の名前すら。ぜんぶ消えていた。それなのに。
胸のまんなかの穴が、じんわりと、あたたかくなった。
「これ」少年はつぶやいた。「俺、だ」
顔のない少年。それが自分だと、分かった。なぜか。名前はないのに。分かった。そして、その隣に立っているみんなのことも。誰だか思い出せないのに。胸が、知っていた。この人たちは、俺の隣にいてくれた人たちだ、と。
『何をしている』魔王が苛立った。『早く、核にはめ込め』
「待って」少年は絵を握りしめた。「待ってくれ。俺、分かったことが、ある」
『何が分かったというのだ。お前はもう、何も覚えていない。名前も。仲間も。守りたかったものも。空っぽだ』
「うん」少年はうなずいた。「名前は覚えてない。みんなの名前も。自分の名前も。守りたかったものが何だったかも。――でも」
少年は、絵を胸に押し当てて、顔を上げた。その目に、ゆっくりと、光が戻ってきた。
「でも、この絵を見て、分かった」少年は言った。「俺、この人たちの隣に、立つって、決めたんだ。いつか。どこかで。名前なんて関係なく。誰だか思い出せなくても。――俺は、この人たちの隣に立つって、決めた。その、決めたことだけは。誰にも、奪えない」
「記憶は、奪える」少年は続けた。指が、絵の縁を、ぎゅっとつかんだ。「名前も。仲間の顔も。町も。ぜんぶ奪える。でも、選んだことは奪えない。俺が、誰かの隣に立つって決めた。その選択だけは、記憶じゃない。心の、いちばん芯だ。――あんたにも、あったはずだ。最初に楔になるって決めたとき。誰かを守るって選んだとき。その選択は、今でも、あんたの芯に残ってるはずだ。忘れても。消えても」
『黙れ』魔王が、一歩、退いた。『黙れ。私は――私は、もう、何も』
「あんたは」少年は言った。「人を守るために、楔になった。その選択を、した人だ。名前を忘れても、それだけは本当だ。あんたは、最初に、誰かの隣に立つって決めた、人なんだ」
その時。
少年の足もとに突き刺さっていた――いや。
はるか遠く。荒野のほうから。声が聞こえた。
光を失ったはずの。沈黙していたはずの。剣の声が。
『……お前』
かすれて。途切れて。けれど、確かに。その声は、少年へ向かって響いた。
『お前は、勇者だ。私の継承者だ。――いや』
声が、ふるえた。
そして、初めて。
その剣は、少年を、こう呼んだ。
『玄弥。お前の名は、玄弥だ』
その名前が、少年の胸に、まっすぐ刺さった。
玄弥。伊勢崎玄弥。寝坊ばっかりの、馬鹿。――その名前が。砂のようにこぼれ落ちたはずの名前が。剣の声に呼ばれて。胸の、いちばん芯から、よみがえってきた。
「エクス」玄弥はつぶやいた。涙がこぼれた。鎖で縛られていて、ぬぐえなかった。「エクス、お前。俺の名前。呼んでくれたのか。初めて。勇者じゃなくて。玄弥って」
『当たり前だ』エクスの声が震えた。『お前は玄弥だ。伊勢崎玄弥。寝坊ばかりの。剣しか能のない。それでも、誰の隣にも立とうとする、馬鹿者だ。――私は、最初の継承者を忘れた。二度と忘れぬと、誓った。だから、覚えている。お前の名を。何があっても』
そのころ。荒野のほうでは。
ガレスが、光を失ったエクスカリバーを握って、骨の城のほうをにらんでいた。撤退する軍の流れに、逆らって。一人。また一人。残った者がいた。カイの鎧巨兵。アヴァロン。そして――三島から届く声を頼りに、進もうとする、わずかな兵たち。
「玄弥どのは」ガレスはつぶやいた。「まだ、あそこにいる。私は、退かん」
「ガレス」アヴァロンが剣の刃を見た。光を失った刃を。「この剣。さっきから、かすかに。脈打っている。まるで――誰かを呼ぼうと、しているように」
その瞬間。はるか遠く。ガレスの握るエクスカリバーが、白く光り始めた。
名前を呼んだ。たった、それだけで。剣がよみがえった。澪がいつも、そうしたように。
黒い鎖が、玄弥の手足から、ぱきり、と砕けた。
記憶牢が、揺れた。黒冠魔導団が後ずさった。魔王が、王冠の奥で、震えていた。
『なぜ』魔王がつぶやいた。『なぜ、戻る。記憶を、ぜんぶ奪ったのに。名前すら消したのに。なぜ、お前は――立っていられる』
「名前を奪われても」玄弥は立ち上がった。膝が、少しふらついた。それでも、立った。「決めたことは奪えないって、言ったろ。俺は、みんなの隣に立つって、決めた。あんたは――そのことを、知らなかったんだ。長いあいだ。だから、自分が空っぽだと思ってた。でも、ちがう。あんたの芯にも、残ってる。最初に、誰かのために楔になるって決めた。その選択が」
玄弥は、魔王へ手を伸ばした。
「思い出そう」玄弥は言った。「あんたの名前。一緒に。あんたが何を守ろうとしたか。誰の隣に立とうとしたか。――俺が覚えとく。城壁みたいに。みんなで語って。あんたを、もう、忘れさせない」
魔王は、その手を、じっと見つめていた。黒い王冠の奥の目が、ほんのわずかに、揺れた。
『……手など』魔王はつぶやいた。声がかすれていた。『差し出されたのは、何百年ぶりだろうか。いや――初めて、かもしれぬ。誰も、私に手を伸ばさなかった。皆、私を利用するか。私から逃げるか。どちらか、だった』
「俺は、逃げない」玄弥は言った。手を伸ばしたまま。腕が、だんだん重くなってくる。それでも、下ろさなかった。「利用も、しない。ただ、隣に立つ。あんたが、もう、ひとりじゃなくなるまで」
魔王は、玄弥の手を、長いあいだ見つめていた。
けれど、やがて。ゆっくりと、首を振った。黒冠魔導団がざわめいた。彼らにとって、魔王に集まる記憶は、禁術の燃料だった。魔王がほどけては、困るのだ。
『今は、まだ』魔王は退いた。『信じられぬ。お前の言葉を。私はあまりに長く、ひとりだった。――だが』
魔王の声が、ほんの少しだけ、やわらいだ。
『その絵は、覚えておこう。名もなく、隣に立つ者たちの、絵を。――行け。今日は、見逃してやる。次に会うときまでに。お前が、その理想を、本物にできるか。見せてみろ』
黒い霧が、晴れていった。
記憶牢の壁が崩れ、光が差し込んだ。玄弥は絵を握ったまま、その光のほうへ、一歩ずつ歩き出した。胸の穴は、まだ空いていた。記憶は、半分も戻っていない。それでも、足は前へ進んだ。
読んでくださり、ありがとうございます。
この作品を書き始めたときから、いつか必ず書きたかった回です。記憶を、名前を、ぜんぶ奪われた少年に、それでも残るものは何か。その答えが、この物語の主題です。
凪人の絵を見てください。顔のない少年の隣に、誰も名前を書かれていない。それでも玄弥は分かる。「俺、この人たちの隣に立つって決めたんだ」と。記憶は奪える。名前も、顔も、町も奪える。けれど、選んだことは奪えない。誰かの隣に立つと決めた、その選択だけは、記憶ではなく心の芯にある。だから消えない。これが、名前を忘れられた魔王には、ついぞ分からなかったことです。
そして、消えたはずのエクスが、初めて玄弥を「勇者」ではなく「玄弥」と呼ぶ。澪がずっと名前を呼んでつなぎ止めてきたのと、同じことを、今度は剣がする。エクスは最初の継承者を忘れた後悔から、二度と忘れないと誓っていた。だから呼べた。名前を呼ぶことが、この物語ではいちばん強い力です。
谷の底から、反転が始まります。次章、四つの旗が、ついにひとつの作戦図の下へ集まります。




