第53章 エクスカリバーを失う日
三島から届いた声の道は、魔王城への唯一の入り口でもありました。玄弥たちはその道を進みます。けれど、未来視の七禍卿が、その道を見ていた。待ち伏せていたのは、王級鎧巨兵。そして魔王は、玄弥にひとつの取引を持ちかけます。永遠の楔になれば、戦争を止める、と。
三島から届いた、声の道。
灯里が言ったとおりだった。その細い通信路は、声を送るだけのものではなかった。脈のいちばん浅いところをたどっていけば、魔王城のいちばん奥まで続いている。玄弥には、それが分かった。剣を握ると、地面の下に一本の糸が、ぴんと張っているのが見える。三島から、ここを抜けて、骨の城へ。
「この道を、行く」玄弥は言った。「魔王のいるところまで。たぶん、これが唯一の入り口だ」
「正気か」カイが眉をひそめた。「魔王城に乗り込むって。たった、これだけの人数で」
「人数の問題じゃない」玄弥は首を振った。「黒殻騎を何体倒しても。黒冠魔導団を何人退けても。魔王をどうにかしないと、終わらない。なら、行くしかないだろ。あいつのところまで」
ガレスが、剣を背に負った。
「行くなら、私も行く」ガレスは言った。「玄弥どのを一人で行かせはせん。三島で誓った。斬らずに守る。その道を、最後まで見届ける」
「おれも、行く」カイがぶっきらぼうに言った。「機体がいるだろ。城まで運ぶのに。――勘違いするなよ。お前を信じたわけじゃない。ただ、おまえが魔王を救うとか、ぬかすなら。そばで見張ってなきゃ、危なくてしょうがない。それだけだ」
「ありがとな」玄弥は笑った。
カイはそっぽを向いて、また機体のねじを締め始めた。耳が、ほんの少し赤い。玄弥は気づかないふりをした。
アヴァロンも、巻物をしまって立ち上がった。
五人と、一振りの剣で。骨の城へ向かう道を、進み始めた。声の道をたどって、記憶鉱の脈の浅瀬を伝って。赤い荒野を横切り、崩れた城塞の影を抜けて。
歩きながら、玄弥はふと、通学路のことを思い出した。三島の。源兵衛川沿いの道。あそこも、毎朝、同じ道を歩いていた。寝坊して、走って。澪に呆れられて。橋の上で、灯里と立ち止まって、水の中の梅花藻を覗いた朝もあった。――こんな赤い荒野とは、何もかも、ちがう。空の色も、踏む土の感触も、すれ違う人の顔も。それなのに、足が前へ前へと進む感じだけは、なぜか、よく似ていた。前へ進めば、誰かに会える。そういう、根拠のない確かさが。
けれど、半日も進まないうちに、空気がねじれた。
「止まれ」アヴァロンが剣を抜いた。「何か、いる」
前方の荒野が、ぐにゃりと歪んだ。陽炎のように。そして、何もなかった場所に、突然、無数の影が現れた。黒冠魔導団。フードを深くかぶった魔道士たち。そして、その後ろに、巨大な黒い塊がそびえていた。
王級鎧巨兵。
複数の人間の記憶と願いを継ぎ合わせた、異形の巨体。全高、十メートルを超える。何本もの腕。背中から生えた、骨の翼。胸にはいくつもの操縦槽が埋め込まれていて、そのどれにも、記憶を奪われた捕虜が囚われていた。
「待ち伏せだ」玄弥は剣の柄を握り直した。「俺たちがこの道を通るって、知ってたのか」
『未来視の七禍卿だ』エクスが唸った。『あれが、お前たちの進む道を見た。そして、転送の禁術で、王級鎧巨兵をここへ。――罠だ。最初から』
黒い霧が、玄弥たちの前に立ち上った。
あの未来視の七禍卿。けれど今度は、その後ろに、もう一つの気配があった。底冷えする、深い孤独の気配。
黒い霧の向こうから、声が聞こえた。世界じゅうに響いた、あの声。魔王の声だった。
『よく来た。継承者よ』
玄弥は、剣を握りしめた。指が、汗ばんでいる。
「お前」玄弥は声を張った。「お前が魔王か。――いや。ちがうな。お前は楔だ。最初に楔になった人間だ。世界を救って、みんなに忘れられた。そうだろ」
霧が、わずかに揺れた。
『……知っているのか』魔王の声が低くなった。『私のことを。誰も知らぬはずなのに。誰も覚えていないはずなのに』
「壁画と、記録で知った」玄弥は言った。「両手を広げて、二つの世界を支えてる人。あんただろ。何百年も、ひとりで立ち続けた。誰にも礼を言われずに。――俺、それ、分かるんだ。今、俺も楔だから。つらいよな。孤独だよな。誰も覚えてくれないって」
『黙れ』
魔王の声が、鋭くなった。
『分かったような口をきくな、小僧。お前はまだ、ほんの半年だろう。私は――何百年だ。何百年、立ち続けた。誰も来なかった。誰も呼ばなかった。お前には分からん。あの孤独は』
「分からない」玄弥は正直に言った。「何百年は、分からない。でも――半年でも、つらかった。だから、何百年がどんなにつらいか、想像はつく。あんたが人を恨むのも。世界を壊したくなるのも。気持ちは、分かる」
玄弥は、一歩、前に出た。砂利が、足の下で鳴った。
「あんたさ」玄弥は続けた。「ずっと待ってたんじゃないのか。誰かが来るのを。誰かが名前を呼んでくれるのを。何百年も。立ったまま。だから――軍を東へ進めたんだろ。日本まで。境界を越えてまで。本当は、世界を壊したかったんじゃなくて。誰かに見つけてほしかったんだ。ここにいるぞ、って」
黒い霧が、ぐらりと揺れた。
長い沈黙があった。風の音だけが、荒野を渡った。砂が、玄弥の頬を、ちりちりと撫でていく。それでも、玄弥は霧から目をそらさなかった。
『……黙れ』
魔王の声は、さっきよりずっと弱かった。図星を突かれた、子どものように。
『ならば』
魔王の声が、ふいにやわらかくなった。誘うように。
『お前が、代われ』
「……え」
『お前は、楔のつらさを知っている。私の孤独を分かる、と言う。ならば――お前が、私の代わりに楔になれ。永遠の楔に。二つの世界のあいだに、立ち続けろ。そうすれば、私は解放される。長い、長い役目から。そして、お前が楔になれば――この戦争も終わる。私は軍を退く。誰も、もう死なない。どうだ。お前、一人が楔になれば。すべてが、丸く収まる』
玄弥は、息を詰めた。それは、甘い誘いだった。自分一人が楔になれば、戦争が終わる。みんなが助かる。カイの痛みも。あの兵士の弟も。これ以上、誰も死なない。たった一人の犠牲で。
胸の奥が、ぐらっと傾いた。ほんの一瞬。たった一人で、いいなら。俺一人で、すむなら。
けれど。
「それ」玄弥は首を振った。「だめだ」
『なぜだ』魔王の声が低くなった。『お前は、みんなを助けたいのだろう。一人で楔になれば、全員、助かる。お前の望み、どおりだ』
「ちがう」玄弥は言った。「俺、王国会議で言ったんだ。一人にぜんぶ押しつけるの、もうやめたいって。誰か一人を楔にしないために。みんなが少しずつ、責任を引き受けるんだって。――それなのに、俺が楔になったら。あんたと同じだ。また一人がぜんぶ背負う。また、いつか、その一人が忘れられて。次の魔王になる。ぐるぐる、回るだけだ」
『愚かな』魔王が吐き捨てた。『一人が楔になれば、すぐ終わるものを。お前は、何千、何万の命より、自分の理想を取るのか』
「取らない」玄弥は言った。「だから、別のやり方を探すんだ。あんたを楔のままにしない。俺も楔にならない。誰も一人で背負わない。――難しいよ。すげえ難しい。でも、それを探さなきゃ。あんたみたいな人を、また生むだけだ」
魔王の声が、消えた。
代わりに、地響きがした。
王級鎧巨兵が、動き始めた。何本もの腕を振り上げて。骨の翼を広げて。玄弥たちへ向かって。
「来るぞ!」ガレスが叫んだ。
カイの鎧巨兵が、前へ出た。王級鎧巨兵と組み合う。けれど、大きさがちがった。一回り。二回り。カイの機体が押された。装甲が、軋んだ。嫌な音だった。
「玄弥!」カイが操縦槽から叫んだ。「捕虜だ! あいつの胸に! 記憶を奪われた捕虜が、何人も! 助けるなら、今だ!」
玄弥は、走った。
カイの機体の肩へ、駆け上がる。王級鎧巨兵の胸の操縦槽が見えた。いくつもの人影。記憶を削られ、機体につながれた人々。玄弥はエクスカリバーを構えた。鎖を断つために。一人ずつ、解放するために。
その瞬間、王級鎧巨兵の巨大な腕が、信じられない速さで伸びた。捕虜に気を取られた、一瞬の隙だった。腕は、玄弥の握るエクスカリバーを、ぐわっと、つかんだ。
「――っ!」
玄弥は剣を引いた。けれど、つかまれた刃は、びくともしない。王級鎧巨兵の指から、黒い光が走った。エクスカリバーの刃へ。そして――刃に蓄積されていた記憶を、引き抜き始めた。
玄弥には、それが分かった。
刃の奥にしまわれていた、仲間との時間。ガレスと戦った記憶。アヴァロンに叱られた記憶。カイと固いパンを分け合った記憶。澪の声。大河の星。灯里の対応表。凪人の絵。――そのすべてが、剣から吸い出されていく。黒い光に。
「やめろ!」玄弥は叫んだ。「それは、俺たちの! みんなとの!」
『玄弥』エクスの声が、ふるえた。『刃が……抜かれていく。私の力が。記憶が。もう――』
エクスカリバーの白い光が、すうっと消えていった。
刃が、ただの鉄になった。冷たく、重く、何の力も宿さない、ただの剣に。玄弥の手の中で。
「エクス」玄弥は剣を握りしめた。「エクス! 返事しろ! おい、エクス!」
返事はない。
あのかすれた声も。汝、何を守る、という問いも。何も聞こえなかった。剣は沈黙していた。死んだように。玄弥は剣を抱きしめた。半年、ずっといっしょだった相棒が、声を失った。
その隙を、黒冠魔導団が突いた。
無数のフードが、玄弥を取り囲んだ。剣を失った今、玄弥には、振り払う手立てがなかった。素手で、何ができるわけでもない。情けないくらい、何も。手から、黒い鎖が伸びる。玄弥の手足に巻きついた。光を失ったエクスカリバーが、玄弥の手から滑り落ちて、赤い土に突き刺さった。
「玄弥どの!」ガレスが駆け寄ろうとした。
けれど、王級鎧巨兵の腕がガレスを薙ぎ払った。ガレスが岩へ叩きつけられる。アヴァロンが剣を振るうが、数が多すぎた。カイの機体は、王級鎧巨兵に組み伏せられている。
「玄弥!」カイが叫んだ。「逃げろ! はやく!」
「カイ」玄弥は、鎖に縛られながら振り向いた。「悪い。俺、また一人で。みんなを、巻き込んで」
「ばか!」カイが叫んだ。「そんなこと、言ってる場合か!」
黒い霧が、玄弥を包んだ。
転送の禁術。視界が暗転した。玄弥の体が、その場から消えた。骨の城の奥へ。記憶牢へ。引きずり込まれていく。
「玄弥――!」
仲間の叫びが、遠ざかった。
あとに残されたのは、光を失ったエクスカリバーと、玄弥のいなくなった戦場だけだった。風が、赤い砂を運んで、剣の柄に薄く積もらせていった。誰も、それを払う者は、いなかった。
*
玄弥が囚われた、という報せは、すぐに四王国軍へ広がった。
聖剣の継承者が捕らえられた。剣の光が消えた。――その報せは、ただでさえ敗北で揺れていた軍を、決定的に折った。
「もう、終わりだ」誰かがつぶやいた。声に、力がなかった。「勇者まで捕まった。剣まで、光を失った。――これで、どう戦えって言うんだ」
「撤退する」鋼壁の兵が言った。「これ以上戦っても、無駄だ。自国へ帰る」
「待ってくれ」翡翠翼の兵がすがった。「玄弥どのは、まだ生きている。助けに行けば」
「どうやって」鋼壁の兵が振り向いた。「魔王城だぞ。あの奥に捕らえられた。我が軍だけで攻め込めというのか。無理だ。自国を守るだけで、精いっぱいだ」
誰も、言い返せなかった。
あれだけ玄弥が口説いて回ったのに。一つずつ、つないだはずなのに。玄弥という結び目が抜けたとたん、糸はぱらぱらとほどけていった。
四王国軍が、退き始めた。
ばらばらに。それぞれの国へ。あれだけつなごうとした連合が、たった一つの報せで崩れていく。玄弥がいなくなれば、彼らをつなぐものは、何もなかった。
荒野に突き刺さったエクスカリバーを、ガレスが拾い上げた。傷だらけの手で。
「玄弥どの」ガレスは剣を握りしめた。「必ず。必ず、取り戻す。あなたも。この剣の声も」
けれど、その声は、誰にも届かなかった。光を失った剣は、ただ重く、冷たく。ガレスの手の中で、沈黙していた。
骨の城のいちばん奥で。名を忘れた楔が、捕らえた少年を見下ろしていた。
読んでくださり、ありがとうございます。
この物語でいちばん書くのがつらい回でした。タイトルどおり、玄弥はエクスカリバーを失います。剣に半年ぶんためてきた、仲間との記憶ごと、引き抜かれてしまう。エクスの声が消え、ただの鉄になった剣が、ガレスの手の中で沈黙する――この谷の深さがないと、次章の反転が効きません。
魔王の「一人で楔になれば、すべて丸く収まる」という誘いを、玄弥は断ります。これは第45章で総大将の座を断ったのと、まったく同じ理由です。一人にぜんぶ背負わせる解決は、また次の魔王を生むだけだから。たとえ何千、何万の命がかかっていても、彼はそのやり方を選ばない。甘いと言われても。
玄弥が捕らえられ、剣は失われ、四王国軍は撤退を始める。物語は、もっとも深い谷の底へ落ちます。次章――谷の底で、凪人の絵が届きます。「名前のない勇者」が、この作品の最大の見せ場です。




